地獄.5
断末魔の声も、劫火の響きもやがて薄れ、啜り泣くような風の音だけが聞こえてきた。
俺はスマートフォンを傾ける。
画面の中で俺の家族と黒服の連中が揉み合っていた。この洞窟も、井綱家も同じ世界にあるはずなのに、遠く離れた別の宇宙のように思えた。
俺は声を低くして液晶に言った。
「おい」
画面の中で黒服のひとりが振り返り、耳のインカムに手をやる。
「誰だ……?」
「六番だ」
怪訝な声が返ってきた。
「三下じゃ話にならない。わかる奴に伝えろ。六番が戻ってきた、と」
黒服たちは困惑気味に何かを囁き合っている。そのうちのひとりが青ざめ、中央の男からスマートフォンを取り上げた。血色の悪い男の顔が画面いっぱいに映る。
「まさか、お前……!」
「わかる奴がいるじゃないか」
「零子様は……」
「奴らは死んだ。全員俺が殺した」
震える鼻と口が映り、鼻毛まで鮮明に見えた。
「汚いものを見せるんじゃない。指揮官死亡で作戦は中断だ。とっとと引き上げて村に戻ってこい。俺の家族に手を出したらどうなるか、その目で確かめてみろ」
狼狽える黒服たちの間から、か細い声が聞こえた。
「香琉なの……?」
たった一週間会っていないだけなのに、何十年も聞いていなかったように懐かしい、養母の声だった。
画面を塞ぐ男の顔面が退き、明かりの消えた井綱仏具店の看板が現れる。寝間着にカーディガンを羽織った養母がいた。髪はほつれ、化粧をしていない顔は少しやつれて見えた。
養母は男からスマートフォンを奪い取る。
「香琉、今のどこにいるの? 血が出てるじゃない!」
俺は今更顔中についた血を拭った。腕にも服にも血が染み付いて、余計に赤を塗り広げただけだった。
「何があったの……殺したって何のこと……」
養母の顔が見る間に強張る。真美はこの表情を見ると、叱られると察して俺の部屋に逃げてきた。
自分が叱られるのは初めてだった。もう二度とないかもしれない。
俺は呼吸を整え、今まで家族とどんな声で話していたか思い出しながら口を開く。
「うん、ひとを殺したんだ。たくさん、自分の意思で……」
「自分の意思って……」
「ずっとこのために生きてきた。まだやらなきゃいけないことがある。だから、もう帰れない。ごめん……」
画面の端に不安がない養父と真美の顔が映り込んだ。もう見られないと思うと、荒い画質の見切れた顔すら惜しく、俺は血塗れの指で画面をなぞった。
「何だっていい! とにかく帰ってきなさい!」
養母の悲痛な声が響いた。街路樹のざわめく音に、真美の泣き声が重なる。
「そうだよ、殺したって何? 訳わかんないよ。帰ってくるって約束したじゃん。ねえ、何があっても私たち平気だから。戻ってきてよ、お兄ちゃん!」
画面越しのふたりの声が洞窟に充満した。
暗闇の中でブルーライトだけが明るく、養母と真美の顔を映し出す。
端末を握りしめたとき、養父が短く言った。
「本当に、自分の意思なんだな?」
静寂が広がった。俺は鼻を啜り、そうだと答える。
養父は溜息混じりに呟いた。
「いつかこんな日が来るかもしれないと思ってたんだ。明け方、お前の部屋を通りかかるとき、魘されている声がよく聞こえたよ。全員殺す、と」
「パパ、何言ってんの? やめてよ! お兄ちゃんがそんなことするはずないじゃん!」
「真美、母さんも落ち着きなさい」
鼓膜が湿るような長い吐息の後、穏やかな声が響いた。
「お前が何を抱えているのかわからない。だが、そうしない限り前に進めないんだろう? 私たちにはお前を過去から救うことはできなかった」
「違う、義父さん。俺はみんなと家族でいられて……」
「まだ義父さんと呼んでくれるんだな」
不器用な微笑が浮かぶようだった。
「何年かかってもいい。いつか必ず帰ってきなさい。私たちはずっとここにいるから」
俺の体温を吸ったスマートフォンが仄かに温かく頬を撫でた。
「ありがとう……」
ざらついたノイズが走り、通話が途切れた。
画面は真っ黒で、血塗れの俺の顔を反射するばかりだった。
俺はスマートフォンを穴底に放り捨てる。死体が衝撃を吸収する柔らかい音がこだました。
背後で竜巻が起こったような凄まじい咆哮と震動が洞窟を揺らした。
風に前髪を巻き上げられながら振り返る。
地中から覗いた巨大な鉄兜じみた虫の頭部が鎮座していた。
「やっと起きたか。あんなに騒いだのによく寝てたな」
俺が問いかけても、虫の神は何も言わずそこにいた。テレビの砂嵐のような雑音と微かな耳鳴りが頭を揺らす。複眼には俺が映っていたが、何も見ていないのかもしれない。
俺は一歩神に歩み寄った。
「取引しないか。お前は信者が必要だ。俺は力が要る。まだしばらくはお前の端末として動いてもいい」
虫は答える代わりに顎の下から三叉の針を上下させただけだった。
俺は肩を竦めて踵を返した。死体の山の奥から掠れた声が漏れた。
「化け物め……」
顔もわからない白装束の男が呻いた。
「うるさい」
俺は男の頭蓋を砕き、洞窟を出た。
纏わりついていた煙と焦げくさい炎の残滓を、風が払い除けていく。東の空は既に白く、虹のような色彩の層を作っていた。
俺は散らばった岩を蹴り避ける。陥没した岩壁のすぐそばに、石に埋もれるようにして二瀧が倒れていた。
炎がここまで伸びてきたのか、ズボンの脹脛は焼け焦げ、まだ火の粉が絡んでいる。火傷と滲んだ血が溶けた布地を赤く縁取り、溶岩のようだった。
俺は屈み込み、二瀧の脚に縋る火の粉を払う。
手の平が焼けてじくじくと痛んだ。血を吸ったシャツの腹を押しつけると、やっと火が消えた。
俺は二瀧の腕を引いて起き上がらせる。
「勝手に死ぬな。何のためにお前だけ生き残らせたと思ってる」
二瀧は太い眉を顰めて呻き、目を覚ました。煤で黒く染まった眼帯から俺が潰した左眼の傷が覗いていた。
「生き残らせた……?」
「ああ、思いの外お前が強かったから、殺さないように加減するのが大変だった」
俺は血で固まった前髪を避けて、額の傷を見せる。指先が肉に沈み込み、また血が流れ落ちた。
「深いな。これは一生傷になる」
「今更恨み言か」
「まさか。痛み分けであいこってことにしないか」俺は二瀧の眼と自分の額を指した。
二瀧は力なく首を振る。
「何が言いたい」
「零子は組織の末端だな? 頭じゃなく、せいぜい指だ。切り落とされたら痛いが、全体の動きに支障は出ない」
「だからどうした」
「大元の奴らを皆殺しにしない限り俺たちに本当の自由はないと思わないか?」
二瀧は残った右眼を見開いた。朝焼けを受けて薄い青に見える瞳が俺を凝視していた。
「正気か?」
「勿論、最初から真っ向対立する訳じゃない。自分を売り込んで従うふりをする。気が満ちたら内部からぶっ壊す。そのためにお前が必要だ」
「零子が指なら俺は爪にも及ばねえぞ」
「卑下するなよ。七年間奴らの近くにいたんだ。手がかりくらい探せるだろ」
「……何で俺なんだ」
俺は二瀧の顔を覗き込む。
「俺が知る中で、お前が一番強くて頭が回るからだ」
二瀧は俺を見返した。畏怖とも喜びとも諦めともつかない眼差しだった。あの虫を見るときの零子にも似ていた。
俺は二瀧の腕を肩に回し、半ば背負う形で歩き出した。
「重すぎる。半分くらい減らしておけばよかったか」
「お前が言うと冗談に聞こえねえ」
「半分は本気だ。でも、まだ聞かなきゃいけないことがあるからな。村の何処かに零子の隠し資金があるだろ」
「何でそう思った」
「奴らは非合法の組織だ。簡単に口座を作れない。現金を溜め込んでるんじゃないか」
二瀧は呆れたようにかぶりを振った。
「坑道に金塊を隠してる」
「よし、当面の資金は賄えるな。鮫島たちにもやらないと。こんな目に遭ってタダ働きじゃやってられない」
俺は肩からずり落ちる二瀧を振るって背負い直した。冷たい風が不穏に頰を打ちつけた。俺は咄嗟に振り返る。背後には一部が崩落した鉱山があるだけだ。
当然だ。奴らは全員俺が殺した。
あの夜のように、影から襲ってくる奴はいない。
そうだ。あのときも今のように、十八番の顔が見えるように背負っていればよかった。そうすれば、異変にも気づけたかもしれない。
「六番?」
二瀧が怪訝に問う。俺は喉を鳴らして笑った。
「……本当にここに来てよかった。奴らを殺してよかった」
「噛み締めてるのか。相変わらず趣味が悪いな」
「だって、そうだろう。これから悪夢を見たとき、嫌な気分になったとき、奴らが苦しんで死んだことを思うと気が晴れる。もっと、早くやっていればよかったな。そうすれば、十八番も死なずに済んだかもしれないのに」
顎から汚れた赤黒い水が伝い落ちた。
俺は二瀧を睨む。
「趣味が悪いのはどっちだ。俺の傷口をこじ開けたな?」
「俺は何もやってねえぞ」
「だったら、何でまた血が出てるんだ」
二瀧は信じられないものを見たような顔をした。
頰を伝い、首筋に流れる水は、顔中の血を吸ったせいで暗褐色に染まっていたが、やがて透明になった。
「お前も泣くんだな……」
「俺も初めて知った。泣けるんだな」
肘で顔を拭うと、唇に乗った雫が塩辛かった。二瀧は気まずそうに目を背ける。
「泣くだろ、人間なんだから」
「そうかな」
肩に回した二瀧の腕は、十八番の亡骸と違って熱かった。
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