第114話








 アースガルドが夜を迎えて少し経った頃、鴉たちの手伝いで身支度を済ませたロキは、オーディンの寝所に通されていた。

 いかにもな衣服を着せられるかと思ったが、用意されていたのは絹でできた緩やかなデザインの真っ白な神殿服だ。胸元に金糸で刺繍が施されている。

 オーディンの部屋はロキの部屋よりも遥かに装飾品や物が少なく、ロキの纏った衣服では白漆喰の壁に溶け込んでしまいそうだ。

 部屋の真ん中の大きな寝台がその存在を主張しており、おそらくオーディンは寝るためだけにこの部屋を使っていて、あとは別の場所で過ごしているのかもしれない。

 大きな窓の前に濃紺の布がかかった長椅子が置かれていた。

 部屋の主の姿はまだない。一人、この部屋に放り込まれたロキは、ゆっくりと窓辺に歩み寄った。

 雨はまだ降り続いていて、雨粒が窓を濡らしている。

 神殿は恐ろしく静かで、まるでここに自分一人しかいないような気さえして、ロキは心細さを感じてしまう。

 確かな雨音を聴きたくなって、ゆっくりと窓を開いた。手を伸ばすと、庇から雨垂れが手のひらにこぼれ落ちた。見上げた空は暗く、室内で灯ったランプの光が庭先にうっすらとロキの影を写している。

 ふと、雨音に紛れ、微かに聞こえたその音にロキは息を止めた。

 聞き間違いかもしれない、そう思いながら高鳴る心臓を抑え耳を澄ます。

 再び微かに聞こえたそれは、間違いなく狼の遠吠えだ。ロキは窓枠に手をつき、雨の降る庭に頭を突き出した。

 もう一度聞こえたその微かな声に、ロキの脳裏に浮かぶのはあの美しくて愛おしい白狼の姿だ。


ーーワフォーンオンオン

「あいつ……遠吠えまで下手くそだな……」


 ロキは笑った。

 窓辺の長椅子に、腰を下ろし窓枠に寄りかかる。


「もう一回」


 そのロキの呟きが聞こえたかのように、雨音の向こうからまた下手くそな遠吠えが届いた。

 つい感情が込み上げそうになり、深く息を吸い込んだ。しけった空気が胸の中に落ちていく。


「風邪ひくから、もう戻れよ」


 ロキは遠く離れた白狼に、そんな風に呟きつつも、内心ではこの下手くそな遠吠えをもっと聞いていたいと思っていた。


ーーワフォーンオンオン

「俺も、会いたいよ」


 答えたロキの声が、届くことはないだろう。


「チビ、勝手に窓を開けるな、部屋が濡れるだろ」


 その声が聞こえたのと、ロキの影が消え、窓が乱暴に閉じられたのはほとんど同時だった。

 驚き振り返って立ち上がったロキの胸ぐらを、オーディンは容赦無く掴んだ。

 濃紺のローブに、片側で緩やかにまとめた真っ黒な髪が落ちている。薄いブルーの左眼が、睨みつけるようにロキを見下ろしていた。

 怖い、と単純な言葉がロキの脳裏に浮かび、喉奥を締め付けた。

 言葉を失ったまま固まるロキの様子を嘲笑うと、オーディンはロキの体を床に投げ飛ばした。


「ぐっ」


 咄嗟に手をついたが、ロキは顎や頬を床に打ちつけた。衝撃で視界が揺れる。立ちあがろうと手をついたが、今度はその手を掴み上げられた。


「なっ、なにすっ……」


 ロキは痛みで言葉を止めた。オーディンがロキの両手をまとめると、鉄鎖を巻きつけたのだ。


「や、やめろよっ! こんなことしなくても逃げたりしないって!」


 ロキは訴えたが、オーディンは聞こえぬふりで、ロキの手首を縛り上げるとその鎖を強く引いた。

 バランスを崩し、ロキの体は前にツンのめる。しかし、転ぶことを妨げるように、長身のオーディンが鎖を引っ張り上げた。


「いってぇ!」


 気づけばオーディンは、鎖の先を鴉たちのために造作された止まり木の枝に巻きつけている。

 また強く引っ張られ、ロキは床に座り込んだまま両手を上げるような体制になった。






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