ヴァルハラ

第110話













 ただただ白く広いこの場所に、戦いの神、最高神オーディンは鎮座していた。

 アカンサスの文様が施された背の高い榻背とうはい、幅の広い座面からは流れるように漆黒の髪がしなだれている。

 オーディンはたしかな作りの肘掛けに、ひどく憂鬱そうに片肘をついていた。

 最高神というからには、いかめしく、もしくは歳のいった男を想像していたロキであったが、目の前に現れたのはそれとはかけ離れた姿だった。

 オーディンは白い肌に鼻筋の通った美丈夫だ。見た目もそこまで歳がいっているようには見えない。細身とも屈強とも言い難い体躯をしているが、椅子にだらしなく座った姿でもかなりの長身であることが見て取れた。

 オーディンは右眼を眼帯で覆っているが、気だるげに顔にかかった前髪の隙間から、フェンリルと同じ透き通るような淡いブルーの左眼がのぞいていた。

 ロキはトールにオーディン御前に導かれた。

 膝をついた大理石の床はひどく硬くて冷たく、また直後ロキに向けられた声音も息が止まるほどに冷ややかだった。


「この、貧相で色気のないガキがオメガ?」


 オーディンははっと息を漏らし、小馬鹿にするように吐き捨てた。

 傍で、トールが頷く代わりに瞼を閉じた。

 オーディンの傍に二羽の鴉が現れ、どこか戯れるようにオーディンの周囲を彷徨いていた。それは衣服や髪を整える行為のようだ。鴉はオーディンの長衣の裾を整えると、交互に髪を啄み器用に編んでいる。

 気づけば椅子の後ろには、二匹の灰色狼が寝そべっていた。

 この鴉や狼はおそらく、あの時村にロキを迎えにきたものたちだろう。


「ロキという名だそうです」


 圧倒されて黙ったままのロキに変わってトールが言った。「ロキ」と聞いた途端、オーディンはその左眼を見開き、しなだれていた頭を僅かに持ち上げた。


「ロキ? ロキだと……?」


 問われて、ロキは頷いた。


「ふざけた名前だ」


 オーディンはそう言って皮肉めいた笑みを浮かべた。

 ロキとはバルドルを冥界に突き堕とし、黄昏のきっかけを作った大罪人の名前だ。その名前をオーディンが「ふざけた名前」と言うのは致し方ない。


「オーディン……」


 ロキは最高神に呼びかけた。か細く震える自分の声に驚き、一度息を深く吸い込んでから咳払いをする。


「俺は人を探している、その人はここにいるはずなんだ。会わせてくれないか?」

「あ?」


 オーディンの眉がピクリと動いた。

 苛立ったようなその様子に、ロキは一瞬たじろいだが、また息を吸い込み言葉を続けた。


「もちろん、ちゃんと器も創るつもりだ。だけどその代わり、役目が終わったら、じいちゃんと一緒に帰らせてほしい」

「じいちゃん?」

「そう、俺が探してる人……俺のじいちゃん」


 オーディンは目を細めた。


「じいちゃんというのは、お前と暮らしていた男か?」

「そ、そうだ!」


 爺の存在をオーディンは知っていたようだ。


「そいつがここにいる、と?」

「そうだ、じいちゃんはヴァルハラにいるって! そこの、鴉からきいた!」


 どっちの鴉かわからないが、とりあえずロキはオーディンの肩の上で組紐を咥えた方を指差した。その鴉はロキのことなど目もくれずに、せっせとオーディンの髪を纏めている。


「鴉がそう言ったのか? あの男がヴァルハラにいると?」

「そうだ!」


 オーディンから得体の知れない圧を感じ、ロキは上ずる声を抑えるために衣服の胸元を強く握った。

 次になんと言われるのかと身構えたロキだったが、オーディンは突然破裂したように声を上げて笑い出した。







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