第80話

 オーディンが神様の器であるフェンリルを投げ捨てたと鴉は言っていたが、いったいフェンがあの小屋にたどり着くまでにどのような経緯があったのだろう。


「あ、そういえばね、たまに様子を見にくる男の人がいた」

「男の人? どんな?」


 フェンが思い出したように話し始めたので、ロキはフェンの腕の中で振り返った。


「うんとね、えーっと、ちょっと説明が難しい」

「え? どゆこと?」


 フェンは口をきゅっと結んで言葉を探すように、視線を左上に持ち上げている。


「なんかね、茶色の髪だったり、白かったり、若かったり、おじいさんだったりした」

「え? それって何人かいたってこと?」

「違うよ、一人。同じ人が何度も来て、俺の首輪確認してった。その人も、俺のこと好きにならないようにしてるみたいで、撫でたり遊んだりしてくれなかった」


 フェンの話は不可思議だった。しかし、適当に話したり嘘をついている様子はない。


「でもさ、俺があの小屋に行った時、フェン首輪してなかったよな?」

「うん、急に外された」

「飼い主に?」


 ロキがそう聞くと、フェンは首を振った。


「あの人を刺した人」


 小屋にいた男を襲った野盗が悪戯に首輪を外したのだろうか。


「フェン、おまえ……見てたのか? 飼い主が殺されるところ」

「うん」


 また何でもないことのようにフェンが頷いた。

 ロキは胸元に息苦しさを感じて、フェンの顔に手を伸ばす。嬉しそうに目を細めて、フェンが頬を擦り付けた。

 どこか無慈悲なフェンの感情は神の器が故か、それとも愛してもらえないのなら好きにならないと決め込んだ結果なのだろうか。


「俺、嬉しかったんだ」

「えっ?」


 ロキはフェンの頬を撫でる手を止めた。言葉の意味を図りかねてヒヤリと背中が冷たくなる。


「首輪を外してくれた人が言ったんだ、もうすぐロキが来るって」

「はっ?」

「ロキのことは好きになって大丈夫って言われた。いっぱい遊んでくれるから、一緒に行くといいって」


 フェンがいったい何を言っているのか、ロキには理解できなかった。


「その人……って、誰だ? 飼い主を殺した人?」

「うん、そう」

「それって……」


 ロキの心臓が早鐘を打った。

 あの地でロキのことを知る人物などそう多くない。思い浮かぶのはあのタイミングで逸れた人物、爺の顔だ。理由はわからないが、ヴァルハラに向かう前に、フェンのところへ立ち寄ったのだろうか。爺がフェンの飼い主を刺した……?


「ど、どんな人だった⁈ 白髪のじいさんっ⁈」


 ロキは不安を抱いてそう聞いたが、フェンは首を横に振った。


「違う、金色の髪の長い男の人、おじいさんじゃなかった」

「そうか……」


 その言葉を聞いて、ロキは胸を撫で下ろした。


「髪の長い男の人が俺の飼い主を殺して、それで俺の首輪を外した。その後、ロキが来たんだ。遊んでくれたから、すぐに君がロキだってわかったよ」


 ロキはあの時、フェンが出入り口を塞いでいたから干し肉を投げたことを思い出した。それをフェンは遊んでくれたと捉えたらしい。


「それにしても、不思議だな。フェンの首輪を外した男は、俺のこともフェンのことも知ってたってことだろ?」


 村には金の長い髪の男なんていなかった。多少交流のあった近隣の村にも思い当たる人物はいない。


「あ、そういえば、その人ね、目立つ傷があった」

「傷?」

「うん、首のとこに、大きな傷。縫い目がすごく目立ってたよ」


 その言葉を聞いて、ロキの脳裏に浮かぶのはただ一人だ。


「ガイド?……でも、なんで……」


 ロキがつぶやいたその時、台車が大きな石を越えたのか、いつになく激しくガタンと揺れた。かと思ったら、急に動きを止めて、台車を引いていた青白い顔の男が「すうっ」と息を吸い込む音が聞こえた。


「へぇーーーーるぅーーーーーちゃぁーーーーーん!」


 今までのやる気のない雰囲気が嘘みたいに、男の声は溌剌はつらつとしていた。


「へぇーーーーるぅーーーーーちゃぁーーーーーん!」


 男はもう一度叫ぶと両手を持ち上げ前方に向けて大きく振っている。男の声は語尾を伸ばす特徴的な喋り方のせいで、母音だけが強く残った。


 ーーえ~……う~……あ~


 あの風の通る音かと思ったものは、まさかコレではあるまいか、とロキが気がついた矢先、ダメ押しにと言わんばかりに、もう一度男が語尾を伸ばして声を上げた。


「へぇーーーーるぅーーーーーちゃぁーーーーーん!」



「うっさいわよっ! 聞こえてるっつうの! 早く来い‼︎」


 金切り声が前方から聞こえてくる。

 ロキは檻の格子越しにそちらを伺うが、この空間が暗いせいでその姿を目視できない。

 しかし青白い顔の男には見えているようだ。「えっへへ」と惚けた笑いをこぼしながら、男は跳ねるような足取りでまた台車を引き始めた。








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