13-4 消えた名前

「大山に行って来たにしては随分早いじゃねえか。本当に行って来たんだろうね」

 シャモの母は眉根を寄せてシャモを見上げた。だが、坊主頭には構う事もない。


「二階ぞめき(高梨教授)さんに車で送ってもらった」

 ふーん、と生返事で台所に向かう母。

 父ちゃんの靴が、ない――。 

 靴を脱いで上がろうとしたシャモの動きが、つと止まった。


「父ちゃんは横浜マーリンズVSサンフルーツ広島戦に出かけたの」

「何言ってんだ漢太。父ちゃんはまだ船の上さ。七月末まで降りて来ねえよ」


「え、何言ってんだ母ちゃん。父ちゃんは会社を辞めただろ」 

「そんな訳あるか。いや、あの横浜マーリンズ狂なら対広島戦見たさに生霊化したかもしれねえが」

 今度はシャモが眉根を寄せる番だ。


 戦前にはお目通りも叶わぬほどの名家・藤崎家。その御令嬢であるしほりに一目惚れされたシャモ。だが二人で会っている際の記憶がまるで無い。それを良いことにを作られたシャモは、藤崎一家の来訪予定が迫る中、広島へ逃亡。

 

 しかし逃げた甲斐も無く土曜日は容赦なく訪れ、シャモは藤崎一家を迎え入れる事に。

 藤崎一家を迎え入れたシャモとその母。母の思い切りよそ行きの声を聞いた所でシャモの記憶はまたしても飛び――。


『父ちゃん戻ってくるの早くねえか。下船はまだまだ先のはずだろ。あれしほりちゃんは? 俺の部屋だよねここ。何で?』


 気が付いたら、海の上にいるはずの父親がいた。七月末まで乗船予定の父親が、いきなり会社を辞めて戻って来た、はずだ――。

 シャモは自分の記憶と目の前の母親の表情を慎重に照らし合わせた。


「ねえ母ちゃん。父ちゃんは確かに会社を辞めて家に戻って来ただろ。雇用保険被保険者離職票こようほけんひほけんしゃりしょくひょうをひらつかせながらオレの部屋に」

「何言ってんだ。五千万円ぽっち位で船から降ろすものか。体が動く限りキリキリ働かせるよ」

 五千万円ぽっちが入った位で船から降ろすものか。

 その発言に、シャモは靴を脱ぎかけたまま膝立ちで母親に迫った。


「五千万円。そうだよ五千万円。藤崎さんからもらった五千万円だよ。しほりちゃんのお母さんが着物をあつらえただろう。それだけでウチ(新香町美濃屋)の二か月分の売上が立っただろ。それとは別に結納金と婿入りの支度金として五千万円がキャッシュでドン。父ちゃんは藤崎家の金を当てにして会社を辞めて、それで」

「誰だいその藤崎さんってのは」

 思いもよらぬ母親の返答に、シャモは息を詰まらせた。


「何を言ってるんだ母ちゃん。藤崎さんのおかげで二か月分の売上が一気に立ったって。六月の、えっと何日だっけ……。あっ、これだ。購入者は……。そんなバカな!」

 購入金額と購入品目はシャモの記憶通り。だが、購入者名は『唐田とは』に。

 芸歴六十五年越えの歌唱ユニット『竜田川姉妹』の姉である竜田川千早たつたがわちはやの本名だ。

 予想だにしない展開に震えるシャモに、シャモの母は駄目押しのように『事実』を告げた。


「何言ってんだ。千早婆さんに遺産が入って、家で大散財していったんだよ」

「五千万円も?!」

「ばかお言いでないよ! 千早婆さんが頼んだのはの着物に孫用の浴衣と甥夫婦用の夏物一式。美濃屋みのやの二か月分の売上を一人で立てたんだよ」

「となると……。藤崎家が購入した商品が、そっくり千早婆さんが買った事になっている。だったら父ちゃんが手にした五千万円は――」


「さっきから藤崎さん藤崎さんっておかしな事を。五千万円は父ちゃんが当てたスポーツくじの金だろ。せっかく一等を当てたってのに当選者が何人も出たから、一人当たり五千万円に落ち着いたんだ。父ちゃんらしいって笑ったのも忘れたのか。あんたの部屋だってその金で改装したじゃないか。いらっしゃいませ。あら、(浪裏なみのうら)鉄骨師匠お元気そうで――」


〔味の芝浜に行ってくる〕

 母親に書置きを残したシャモは、照り返しのきつい道路に足を踏み出した。

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