11 二人の『父』

藤崎漢太ふじさきかんたさん、また明日」

岐部きべ漢太!」

 にやにや笑う餌を残して電車を降りたシャモは、しおれたチューリップのように『新香町美濃屋しんこちょうみのや』の隣にしつらえられた自宅用の玄関を開けた。


「ただいま。父ちゃんどこ行くの」

「横浜マーリンズの試合を見に行くに決まってるだろ」

 横浜マーリンズのユニフォームに身を包んだ父親がスニーカーを履いている。

 藤崎家の金で気が大きくなったのか、店が開いているうちからスタジアムにいそいそと向かう様子だ。


「お前も来るかと言いたいところだが、ダメだな。お前は藤崎の若旦那としての修行があるからな」

「聞いてねえよ。今度は何だよ」

「詳しくは母ちゃんから聞いてみろ。藤崎家の家令かれいさんって方から修行用の書類が届いてら」

「家令って役職名だろ」

 シャモが突っ込むと、父親はそうなのかよと言いつつ耳をかっぽじる。


「そうだ、今度の土曜日もホームでサンフルーツ広島戦。お前も見に行くか」

「多分行けないと思うわ。じゃ、気をつけて」

 父親は応援歌を口ずさみながら玄関のドアを後ろ手で締める。

 すると、台所から母親が顔を出す。


「全くあのマーリンズ狂はいつになったら目が覚めるのかね。あんたはあんたでそんなにため息ばかりついて」

 シャモの胸元に分厚い書類袋を突きつけると、シャモの母はずいっとシャモに顔を寄せた。


「ほれ婿殿修行のお時間だ。あんたがこいつを二十歳の誕生日までにクリア出来たらしほりお嬢様を嫁取り。出来なかったら」

「破談だろ」

「その時は藤崎家に婿入りだ」

 逃げ場なし。

 ぱっと表情が明るくなったのもつかの間、シャモは背中に漬物石を背負ったようにがっくりと肩を落とした。


「あんな上品で大金持ちで名家の美人お嬢様に何の不満がある」

「だって彼女はもしかしたら白蛇の」

「白蛇? 金運アップの縁起ものじゃねえか。有難く思いな」

 シャモの訴えを突っぱねた母親は、鼻歌を歌いながら台所に戻る。

 一方、未だ見慣れない自室に戻ったシャモは書類袋を開けた。


「簿記一級と英会話と中国語初級のテキスト? 何でまた」

 家業の都合で簿記二級は所持しているシャモだが、一級所持となれば話が違う。しかも英会話に中国語と来れば、二十歳までにクリアできない公算が高い。

「クリアすればしほりちゃんが岐部きべしほりに。クリア出来なければ俺が藤崎漢太に……。どっちに転んでも俺にメリットが皆無じゃねえか」

 シャモは家令かれいの名刺をにらみつけるとスマホを手にした。


岐部きべ漢太です。ご相談したい事が――〕

 何度も入力しては消去しを繰り返すと、ついにシャモは送信ボタンを押した。


※※※


 そして、木曜日の放課後。

 シャモが家令に指定された場所で立っていると、一台の黒塗りの車が止まった。


「藤崎家の命運を左右する一大事ですので、直接総帥そうすいとお話しされるのがよろしいかと」

 初老の家令はうやうやし気げに黒塗りの車の後部ドアを開ける。そこにはしほりの父が座っていた。


 高校生の娘を持つ父にしてはいささか年嵩か。

 全体的に四角張った中肉中背の体躯。白髪交じりの髪はセンター分けのオールバック。

 チャコールグレーの英国製スーツが、一分の隙なく体に合っている。


「動画の配信もしながら部活に受験準備に。君も忙しい男だね」

 何の気ない会話にすら、タンポポの綿毛のような語り口の奥に底知れぬ狂気と覇気を匂わせる。

 ただ者ではない――。

 そう感じたシャモは、家令に切り出そうと思っていた件をとても言い出せないまま後部座席に座っていた。


「この坂の上の公園で降ろしてくれ。用が済んだら呼ぶから、それまで喫茶店ででもゆっくり休憩しておくれ」



 坂の上の公園前で車を降りたしほりの父は、車が走り去るのを待ってからゆったりとした足取りで公園を歩き始めた。

 対するシャモはどう切り出したものか分からないまま、無言で後ろを歩くのみ。

 年の離れた二人の男が無言でデートスポットを徘徊しているさまを、学生らしきカップルが怪訝そうに見上げた。


「君の苦悩が僕には手に取るように分かる。君は『何も覚えていない』のだろう」

 二人でデートスポットを徘徊する事数分。

 黄色いバラの棚の下で、しほりの父はまっすぐシャモを見据えた。

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