第56話 「もっと、欲しいです」



「……え?」



 目と鼻の先にいる凛々夏を見ながら、私の喉から出たのはすごく間の抜けた声。その声を聞きながら、凛々夏は満足そうに唇に指を当てた。


 今、私……私たち、何を、してしまったの?



「……甘い、です」



 何か、取り返しのつかない事をしてしまったような感覚に、身体の何もかもが上手に動かせなくなる。


 身体自体は固まって、呼吸は浅く、荒くなって、そして目は……嬉しそうに笑みを浮かべる凛々夏から、離すことができそうもない。

 


「もっと、欲しいです」



 そう言って、艶やかな黒髪を垂らした凛々夏が、頬を赤く染めたその顔を、私に近づけてくる。


 ……だめ、だめだよ。こんな事、だめな筈なんだよ。……でもどうして、私の身体、動いてくれないの?


 緩やかに凛々夏が近づいてくると、見つめる彼女の眼差しに、どうしたらいいのかわからなくなって、私は瞼を閉じてしまって。



「……んっ……」


「……あま。……もっと……いいですよね」



 そうやって抵抗ができなければ、柔らかなものが降りてきて、その蕩けてしまいそうな感触で、唇ごと心すらも塗り潰していくみたい。


 弱々しく溢された熱を孕む吐息が、私の唇を撫でていく。それくらいの距離に、彼女はいる。


 どうしてそこに、なんて、考えるまでもない。……うぅん、それを考えるのは、怖いんだよ。



「……可愛いです、ユキさん」


「……ぅっ……あっ……?」



 丹念に、丁寧に、念入りに。私をぐちゃぐちゃに塗りつぶしていく“行為”の合間に、凛々夏は少しの距離をとった。2人の浅い呼吸だけが聞こえる中で、凛々夏は私を押さえつけていた手を離して、その手で私の首筋を撫でてくれる。


 優しい、本当に、優しい手つき。なのに、私の身体がきゅっと丸まって、どうしようもなく身悶えしてしまう。


 笑い声が聞こえた。ささやかだけど、確かに零された、凛々夏の笑み。薄く目を開いてみれば、私の上に覆いかぶさる彼女が悶える私を見て笑ってる。



「……どうですか」



 楽しそうに、嬉しそうに、白い肌を仄かに染めて笑う凛々夏から、何かを確かめる言葉が投げかけられた。


 何気なく、そして曖昧な問いかけ。……私に、言わせたいのかな。私がそういうをされて喜ぶ人間なんだって、もう見抜かれてしまってるのかな。


 でも、それに答えるって事は、今行われていた事実を肯定する事。それは……していい事なの?


 ……わからなくて、喉に言葉を詰まらせていると、やっぱり。



「やっ……りり、か……ぁっ」


「……は……ゆきさん……んっ……」



 容赦なく、加減なく、ためらいなく。私の唇は……そう、される。


 そうされてしまえば私は、呼吸が辛くって、胸が張り裂けてしまいそうで、気付けば涙すら溢してしまってるのに……また、少し離れた凛々夏の顔に浮かぶのは、恐ろしい程に綺麗な笑顔。



「……さぁ、どうですか?」


「……なにが、聞きたいの?」


「決まってるじゃないですか」



 その言葉の続きを彼女が言ってしまったら。


 きっともう、後には戻れない。


 けど凛々夏は、小さく首を傾いだ後で、やっぱり嬉しそうな笑みを浮かべて——



「わたしとの“キス”について、ですよ」



 ——……その言葉を、迷いなく口にするんだ。



「……どうして、こんな事……するの……?」


「……答えに、なってないです」



 私の答えは、お気に召さなかったのかな。また凛々夏の唇が、私の唇に重ねられた。私の唇の感触を確かめるように優しいのに、でも私を絶対に逃さないって強い気持ちが込められてる。


 ……なんだか、ぼーっとしてきた。キスを重ねられる度に、辛い呼吸が胸を締め付けて、目の前が少しずつ白く染まって、意識がとしてくる。私の中の大事な何かが、キスの度にとろけて、ベッドに染み出していってるみたい。


 長く瞼を閉じてしまうと、そのまま暗い何処かに連れて行かれてしまいそう。



「……わたし、言ったのに。“困ったコトになっちゃうかも”って」



 白くて、なにもかもぐちゃぐちゃになってしまった世界の中で、凛々夏はその目を“とろん”とさせて、わたしを見つめてくれる。


 きっと凛々夏が抱いてる熱が、チョコレートみたいに眼差しを溶かしてしまってるのかな。……だからこのキスはすごく甘くて、ちょっとだけ、苦いんだ。



「なのに、ゆきさんが抵抗してくれないから。……だから、ゆきさんのせいでもあるんですよ」



 そしてまた、キスが降り積もる。


 何度も、何度も、何度も。


 目と目、唇と唇、呼吸と呼吸、身体と身体。二人の何もかもを重ねて、キスをする為の生き物みたいになった私たちは、やっぱりキスも重ねるんだ。


 ……でも、私はだから。



「……っう……りりか……」


「……なんですか、ゆきさん」


「……だめ、だよ」



 身体のどこにも力が入らなくって、意識もどこかに行ってしまいそうな私には、これが精一杯の抵抗。せめて、これだけは伝えなきゃ。


 ……私の言葉が意外だったのかな。凛々夏はそこでキスを止めて、私の首筋に、唇を。



「んっ!……や、ぁ……」


「……ふ……何が、“だめ”なんですか?」



 ……痺れるような痛み。それが私の首筋から背中に広がって、またお腹の熱が溜まっていく。


 目をやると、凛々夏はやっぱり楽しそう。おもちゃを前にした猫を想像させる、そんな雰囲気。……可愛い。好き、だよ。……でも。



「りりかは……んぅっ……アイドル、で……私は、オタク、だから、ぁっ……」


「……へー。アイドルとオタクだと、キスしちゃダメなんですか」


「そうっ……だよぉ。りりかは、みんなのアイドルなんだから……っ……だからぁ」


「……別に、私がアイドルである事と、ゆきさんにキスするのは、かんけーなくないですか?」


「……え?」



 そう言って、また一つキスを重ねる。


 ……凛々夏はアイドル。素敵で最高のアイドル。世界で一番の、みんなに愛されるアイドル。だから……だから、キス……しちゃいけないんじゃ、ないの?


 うまく、頭が働いてくれない。ただでさえ私はおばかさんなのに、キスはそんな私からなけなしのを奪っていってしまう。



「わたしはこれからもアイドルですよ。ゆきさんがいてくれる限り、ずっとです。……でも、キスしただけで……」



 いじわるな凛々夏の微笑み。見る度に、私の中で昂る熱が、もっと熱くて、手のつけられないものになる。



「……まさか、ゆきさんだけのモノになるとか、思っちゃいました? ……“欲張りさん”ですね」



 違う。私は、そんなつもりじゃないよ。……そんな反論は、唇を塞がれてしまって、口の中に押し止められてしまう。



「……他になにか、ないですか?」


「ほかに……ある。あるよ」


「なんです?」


「……こういう事は……もっと、りりかに似合う、素敵な人と、するべき、だよ」



 息も絶え絶えってこういう風な事を言うのかな。そんな呼吸のまま、くらくらする頭でどうにかその言葉を伝える。


 そうだよ。凛々夏は素敵な女の子なんだ。だからキスも、そんな彼女に相応しい人とするべきだと思うんだ。


 わたしみたいな……臆病で、泣き虫で、寂しがり屋で、凛々夏に縋らなきゃ生きていけないような女じゃなくって。



「……なんですか、それ」



 その事を、私、ちゃんと伝えたのに。なのに凛々夏は、そんな言葉を聞いてないみたいに、熱のこもったキスを落としてくれる。



「わたし、言いましたよ」


「……え……?」


「“ユキさんは素敵な人です”って、ついさっき」


「あ、あれは」


「本心、ですから。……だから、そんな“素敵なゆきさん”となら、キスしても問題ないですよね?」


「……んっ……や、ぁっ……」



 一つ一つ、丁寧に、“キスしてはいけない理由”を、凛々夏はキスと共に消し去ってしまう。


 素敵な人。私が? あれは、私を嗜めて、慰める為の言葉じゃなかったの? ……じゃあ、いいのかな。私は、凛々夏とキスしても、許されるのかなぁ。



「あとは、何かありますか?」


「あと……あとは……えっと……っ」



 凛々夏はまだ未成年だから? ……キスくらいなら、誰にも咎められる事はないよね。なんだったら、もう結婚したって許される年齢なんだ。


 はしたない事だから? ……もうベッドで一緒に寝たりして、いまさら二人っきりの部屋の中で触れ合う事を、はしたないだなんて言えない。


 凛々夏とキスしちゃいけない理由を探してみても、どれも理由になり得そうにない。じゃあもう、“だめ”なんて事は、ないのかな?


 私が一生懸命悩んでる間にも、凛々夏はキスをやめたりしない。……そんなにキス、好きなのかな。


 ……凛々夏はキス、した事あったのかな。



「……わたしと、そんなにしたくない、ですか?」



 そこで不意に、凛々夏から弱々しく言葉が溢れた。ぼーっとする意識を引き摺って視線を向けると、凛々夏が、悲しそうに瞳を揺らしてる。



「……そんなわけ、ないよ」


「じゃあ、どうしてっ! ……喜んで、くれないんですか……?」



 ……言わなきゃだめ、だよね。


 大好きな人を悲しませるくらいなら、その他の何もかもは、どうでもいい事なんだ。



「だって」


「……だって?」



 でもこれは、明確に一線を超えてる。それを選んだ事を、私は覚えてなきゃいけない。


 それでも、言うんだ。



「……幸せすぎて、怖いんだもん」



 あーあ。言っちゃった。


 だってさ、だってだよ?


 好きな人とキスできて、嬉しくない人なんか、いないでしょ?


 ……凛々夏と目があった。私を組み伏せて、見下ろす彼女の瞳に宿っているのは、っていう、心を灼く熱。私が妄想の中で焦がれた、冷たいのに熱い瞳。



「……もう一回、聞きますね」


「……うん」


「わたしとのキスは、どうですか?」



 三度目の問いかけ。それが投げかけられたなら、私は素直に応えなきゃ。だって凛々夏に言われた事だから。素直になって良いんだって。



「私の……“はじめて”が、こんなに幸せで良いのかなって、そう思うよ」



 そうだよ。


 酔いに甘えて、いつものベッドの上でする、大好きな人とのはじめて。


 私のはじめてが、こんなに幸せに包まれたものだなんて、想像もしてなかった。


 ……それを聞いた凛々夏は、少しだけ驚いたみたいに目を丸くして、それから“うっとり”と微笑んだ。



「……わたしだけのゆきさん、もらっちゃいました」



 やっぱりどうして、そんなに嬉しそうなんだろうね。凛々夏ってば、まるで欲しがってたおもちゃを買ってもらった子供みたいに、喜びを溢れさせちゃうんだ。……どうして、なんだろうね。


 そしてまた、キスをする。はじめての一回もあっという間に過去のものになってしまって、もう何回したかはわかんない。


 押さえつけられていた手はいつの間にか解かれていて、凛々夏は大事そうに私の頬に手を添えてくれる。すりすりと頬擦りしてみたりすれば、小さな手の柔らかさと温もりが、心を解きほぐしてくれるみたい。……なんだか、瞼が、ちょっと重い。



「……いいですよ、目を瞑って。……全部、わたしに委ねてください」



 凛々夏の声。わたしの好きな優しくて、透明感のある声。その声で言われたなら、私は大人しく従うよ。


 瞼を閉じれば、優しい闇が私を包む。でも、そんな私に重ねられる柔らかさ……温もり、そしてキスの感触。……凛々夏の何もかもが、心地いい。


 あ……凛々夏の手。……白くて滑らかな手が、私のお腹に……触ってくれた。……撫でてくれるのかなぁ。……嬉しい、なぁ。


 やっぱり……私……凛々夏の、事が……好——

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