第55話 「……しちゃいました、ね」
そ、そっかぁ。そういえば、隙が多いように見える私がちゃんと自衛できるのかっていう、そういう話だったねぇ……。
それなのに、酔っ払ってちゃらんぽらんな私がちゃんと出来なかったから、凛々夏は怒ってる、のかな?
「も、もう一度、チャンスをくださいぃ……」
用を成さなかったブラなんかは、枕元に放り投げて、凛々夏の腕に抱きつくようにして縋る。凛々夏に呆れられて、見放されたりしちゃったら、私はもう生きてけないんだよ。
私のような、普段は海の中を漂ってるクジラみたいな“なまもの”は、時折水面に顔を出して、
だからどこにも行かないでって、ぎゅーっと抱きしめて、手放さないようにしなきゃ。
「や、やわ……?! ちょっとユキさん、は、離れてくださいって」
身体をひいて離れようとする凛々夏のその腕を、離さないようにぎゅっと包んで身体を寄せる。今の私はクジラなので、それはもうぱわふるなんだっ。
「やだぁ……見捨てないでぇ……?」
ほら、寂しがりなクジラの鳴き声だよ。ぱおーん。……そもそもクジラって鳴くのかな? 鳴くとしたら、どんな鳴き声?
「いきなり、なに言い出してるんですかっ」
どうしてか凛々夏は顔を真っ赤にして、私に抱きつかれているのがイヤそうに、ぶんぶんと身体ごと手を振って私を追い払おうとする。
あ、ああ……もしかしたらもう、私の事を見捨てようとしてるのかもしれない。
「やだよぅ……なんでも、なんでもするからぁ」
「マジでなんなんですかっ。なんかもう色々と……うぅ……」
「ね? お願い? チャンス、欲しいよぉ」
「チャンスって、なんのチャンスなんですか?」
「さっきのもう一回、試してみよ?」
そしてまた、ぎゅーっとして……そしたら。
「……あぁもう、いい加減にしてくださいっ!」
凛々夏は離れるんじゃなくって、私に身体を預けるように倒れ込んできた。そうしたら私もひっくり返っちゃって……視界には、見慣れた天井が広がった。
あー、布団、やっぱり気持ちいいー……とか、思ってたら、身体を起こした凛々夏が、私に覆いかぶさってくる。
さっきもこんな事、あったなぁ……?
「……いいですよ。もう一回、試してあげます」
「ほんとぉ……? それにうまく応えられたら、見捨てたりされない?」
「見捨てるとか、ありえないですけど。……ほらユキさん、こうされたらどうするんですか?」
「こうされたら……?」
そうやって私に覆い被さった凛々夏が、なんだか……熱っぽい微笑みを浮かべたんだ。
私の大好きな黒い瞳が、私をじっと見つめてきてる。
私の大好きな小さい手が、私の手を掴んでベッドに押さえつけてる。
私の大好きな小柄な身体が、私を跨いで乗っかった。
私の大好きな凛々夏が、私を押し倒した。
……これが、凛々夏の言った、“こう”なのかな?
「このままだとユキさん、困ったコトになっちゃうかもですよ?」
「困ったこと……そうなの?」
「そうですよっ。それでユキさんは、どうするんですか?」
「私は……」
……私、こういうシチュ、好きなんだよね。
もちろん相手は凛々夏。凛々夏以外は考えられない。
それで、ふとしたきっかけで、ちょっとらんぼーな感じでベッドに押し倒されちゃって。それで、弱虫な私が“やだ”とか言っても、いじわるな凛々夏に……色々と、いじめられちゃって。
……私にだって、そういう欲はあるわけで。そういう自分を慰める時には、こういう妄想をしたりするんだよ。……凛々夏は、こんな私を知らないと思うけど。
それで妄想の中での私はまず……そうだ、こうやって、私の何かを確かめるみたいな視線を凛々夏が向けてくれたなら、私は期待してしまってる自分と、それを見透かされてしまいそうな時間に恥ずかしさを感じて、視線を逸らすんだ。
「ほら、抵抗してください、ユキさん」
「……私が抵抗しなくても、凛々夏がいじわる、やめてくれたらいいんじゃないかな」
そんな自分を隠すみたいにして、私らしくないちょっと強気な言葉を投げてみたり。そもそも、私の手を抑えるのは私の大好きな人だから、本気で抵抗なんか出来るわけがない、でしょ?
そんな私の心を見透かしたように、凛々夏は目を細めて小さく笑う。その小さくて、形のいい唇に、堪えきれないみたいに三日月を浮かべる。
それは“アイドルのリリ”からは考えられない、“凛々夏”が私にだけ見せてくれる、酷く……こわくてきな微笑み。
それを向けられてしまうと、私のお臍の下にまた熱が溜まって、そのさらに下からは、じわりと滲み出るものがあって。
「いじわるとか。ユキさんがはじめたコトですよ? ……ユキさんが、悪いんですよ」
「……私が悪かったら、凛々夏はどうするの?」
私が煽るような言葉を言えば、凛々夏は口許から微笑みを消す。私を射抜いたままの目に、隠しきれない熱を帯びさせて。
きっと彼女は今、私っていうよわよわな獲物をどうしてしまおうかって、楽しみながら迷ってる。
熱を持っていて、それでいて冷たいまなざしに、私は……興奮してしまう。きっとこれから、大好きな人にもっといじわるな事をされるのかなって、期待しちゃうんだ。
「……どうすると思います?」
「知らないよっ。……凛々夏の好きに、したらいいんじゃない」
「そぉ、ですか。……目、瞑ってください」
言葉の上では丁寧に。でも、有無を言わせてくれない強さで、凛々夏がそうやって私に命令する。
ぞくぞくと背中に甘い痺れを感じながら、私は怯えるような目を一度だけ彼女に向けた後、黙って瞼を閉じて、少しだけ顎を持ち上げて唇を差し出す。
ゆっくりと近づいてくる吐息の音が、凛々夏が私のすぐ目の前まで来てくれてる事を教えてくれて……。
あぁ………………眠たいっ。
……こんな寝ぼけた酔っ払いの妄想、凛々夏に知られるわけには行かないよねぇ、えへへ。
凛々夏と一緒にいると私はいっつもどきどきしてるんだけど、それでも本能的な欲というか、生理現象というか……1日しっかり働いて、それから現場に行って声を出して、たっぷりお酒を飲んだ後でベッドに寝転がってたら眠たくもなるよ。
今日は本当に、凛々夏と過ごせて心地良くって、幸せで……あれ。
私って、何してたんだっけ。
今この時間って。
妄想、なの?——
「……ユキさん」
——優しく私の名前が呼ばれて。
私の唇に、“なにか”が触れた。
それはすごく柔らかくって、暖かくって。
もっともっと欲しくなってしまうような、私の心を揺さぶる甘さの“なにか”。
そして重ねられたそれは、二度、三度、私の唇を撫でて、ゆっくりと離れた。
吐息が近い。誰の? ……わかってる。
そこにいるのは、私の大好きな彼女以外ありえない。
おそるおそる、目を開けてみれば——
「……しちゃいました、ね」
——白い頬を柔らかく染めた凛々夏が、唇を小さく舐めたんだ。
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