第50話 「……凛々夏だけ、だよ?」

 ことり、とグラスをテーブルに置いた静かな音がやけに大きく聞こえて、私の体がびくりと震える。


 視線を向けると、隣でソファに座る凛々夏は石になったみたいに固まって、見開いた目で私を見つめていた。


 ……え。な、なんでそんな、怖い目で私を見るのかな……?



「……そういえば、の確認なんですけど」


「は、はい」


「ユキさんって当然、付き合ってる人とかいないですよね?」



 凛々夏の小さな口から届く言葉はやけに低くて、凍えてしまいそうなほどに冷たい声色。それにあてられてしまうと、私の喉はこくりと音を立てるんだ。


 ……付き合ってる人? どうして今、そんな話題が出てくるんだろう。しかも、と、? 私ってそんな風に見られてるの?!


 いや、お酒の席での話題として、恋バナはありふれてるっていうのはわかるよ。でも、凛々夏の雰囲気はそんなゆるふわな感じのものじゃなくって、例えるなら……映画で見た死刑執行人みたいな、そんな恐ろしさを含んでるんだ。


 凛々夏には、えっと、言ったこと……なかったっけ? あれ、どうだったっけ?



「えっと、それはえっと」


「……ちゃんと」



 ゆっくり、凛々夏は身体を私に向ける。



「聞かせてくださいね」



 そしてまたゆっくり、私との距離を縮めて、私の身体を手で押してくる。



「わたし、今、ちょっと……冷静でいられなさそうです」



 そうして、私は一週間ぶりにソファへと押し倒された。私はソファへ仰向けに倒れちゃって、凛々夏は私の顔の横に手をついて、覆いかぶさってる。


 抵抗なんて出来ないよ。推しだからっていう大前提はともかく、目の前の凛々夏は見たことがないくらいの圧力を放っていて、それは私から抵抗する力の何もかもを奪ってしまうんだ。


 そんな凛々夏も綺麗だとは思う。でもなんていうか綺麗だけどやっぱり……恐ろしい、というか。


 さっきまでのふわふわとして幸せな空気はどこかへ行ってしまって今、私たちの間には一歩間違えれば悲惨な何かが起こってしまいそうな張り詰めたそれが流れてる。……ど、どうしてこうなった。どうしてこうなった?!



「え、えっとね? 凛々夏、お、おお、落ち着いて?」


「わたしが落ち着く為に、はやく答えてください」


「こ、答えるってのは、さ、さっきの?」


「そういう人とかいない、ですよね?」


「そ、それは……」



 本当にどうしてか、凛々夏にとって私に付き合ってる人がいるかいないかは重要みたい。押し倒されて、私を上から見つめる凛々夏の目は真剣で、見開かれた猫目は私に有無を言わせない迫力がある。め、目力、強っ……!


 でも、言いにくいよ。散々年上だのおねーさんだの言った上に、今だってお酒を飲んで、凛々夏に物知り顔でおつまみについて語ったりしちゃったから。


 そんな私が23歳にもなって、交際経験なしとか、言いにくいよぉ……!



「どうしてそこで口籠るんですか? いるか、いないか。それだけですよね?」



 私が自分の恥ずかしいところを晒すべきか否かで迷っていると、凛々夏から容赦ない回答の催促が飛んでくる。その間にも、私に覆いかぶさる凛々夏の目力はどんどん強くなっていって、もう視線だけで死んでしまいそう。



「ぷ、プライバシーというものは一応、オタクにもありましてぇ」


「は?」


「ひっ」


「ふざけなくていいですよ、今は」


「へへ、えへへ。ふ、ふざけたわけじゃ、ないんだけど、ね?」


「ほんとのコト、聞かせてくださいね? 嘘吐いたら」


「吐いたら……?」


「……どうなっちゃうんですかね?」



 ……こ、こえぇ……こえぇよぉ……!


 凛々夏は確かに私の“全て”だけど、そこに“恐怖”とかは含んでない筈じゃん! 今の凛々夏は、もうなんか、包丁とかか似合うような雰囲気を醸し出してるよ?!


 ……い、言わなきゃ、ダメ? いや、ダメそうだよね。このままだと、凛々夏の手が私の鮮血で汚れてしまいそう!



「……ない……でしゅ」



 自覚する程に弱々しく零れた私の言葉に、凛々夏は小さく首を傾げた。なんだかその仕草も、壊れた人形みたいで夢に見そう。凛々夏の事は、いつも夢で見てきたけどさ! そういう感じじゃないんだよねぇ!



「はっきり」


「い……いないですぅ! それどころか、今まで誰かと付き合った事すらないよぅ!!」



 あ、ああ……ぐっばい、私の尊厳。うぇるかむ、ズタボロの私。もう二度と凛々夏の前でおねーさんぶれない……いや、今までも言うほど年上扱いされてないか?


 で、でも……どうだ。言ったよ、私。だって、言っちゃったよ! 機嫌、治ったかな?!


 ……お、なんだか……ちょっと、ほんのちょっとだけ、凛々夏の雰囲気が緩んだ、かな?



「じゃあ誰と“あーん”なんてしてるんです?」



 ……続行! 尋問は続行です! さっきより目力は弱まったけど、なんでか私を疑る様な視線はそのままです! なんでー?!


 でもこれは、素直に返答できるところだっ。別に後ろめたい事もないし。まぁさっきの問いかけに比べたら、大抵の事は話せるけどもさ。キャッシュカードの番号すら、私は凛々夏に話せるよ。



「それは、高校時代の友だちだったり、オタ友だったり」


「へー……ユキさんって、誰とでもそういう事しちゃうんです?」


「だ、誰とでもとか、そんなんじゃないから! 本当に仲の良い人とだけだよ!!」


「最近は? 最近はしましたか?」



 うおお……すごい根掘り葉掘り聞いてくる。そんなに私が誰かと食べさせっこしたのが、凛々夏にとって気になるポイントなの? それは……なんでなのか、わかんないよ。



「最近っていうか、今日、とか」


「……相手は?」


「オタ友、だけど。女の人で、色々教えてくれたりして、仲良くしてくれてるんだ」


「……あの人ではないんですね?」


「あの人?」


「わたし、見てたんですよ。今日外で、ユキさんが男の人の近くにいたところ」



 ……そ、そっかぁ……! どうして凛々夏があの時タクシーで待っててくれたのかと思ったら、私が言い寄られてた所を見てたんだ……!


 でも、それは全然違うんだよ!



「違うよ! あの人はもう本当、すっごく嫌だったんだから!!」


「それは……」


「オフ会でずっと言い寄られてさ、帰ろうとしたらお店の外まで追っかけてきて!」


「……そこまで言うなら、信じますけど。……ああ、あの、今日も現場で隣にいた背の高いの人ですか?」


「そう! その人! 面倒見が良くって、カッコいいんだよ!」



 自分でもどうしてと思うほど必死にむーにゃさんについて説明してみて……そうすると、凛々夏はまた疑う様な視線を強めた。な、なんでさー?!



「カッコいいんですか?」


「う、うむ。シュッとしてて、自信ある感じで」


「へー……そういう人が好みなんですか?」


「そ、そんなわけないじゃんか?! 私が好きなのは……」



 ……あれ? ? この場合の“好み”ってどういう事?


 むーにゃさんの事は確かに、好ましく思うよ。それはいわゆる友達として、人として的な観点においてなわけだけど……“好み”っていうのは、そういう事でいいの? ……あれ、なんか、違うよね?


 ああでも、悩んでる間にどんどん凛々夏から不機嫌オーラが溢れてくるよ。こうしてはいられなさそう。いつも通り、いつも通り……!



「……凛々夏だけ、だよ?」



 う、うわ。押し倒されてる状況で、凛々夏を見上げながら言うのは、結構恥ずかしいかも。こんなシチュ……“ぞくぞく”、しちゃうんだもん。


 でも……これで、良いんだよね?


 だって私が一番好きで、大好きで、愛しているのは、凛々夏なんだから。もっと言えば凛々夏は私にとって“理想の女の子”なんだから、凛々夏こそが私の“好み”って事で良いんだよね?


 い、いかがか……もうこれ以上は、振っても叩いても、碌な事にはならないよ!



「……そうですか」



 んん……よしっ。相変わらず押し倒されたままだけど、見上げた凛々夏の顔に浮かぶ表情は、私の知ってる拗ねてる感じのやつだ。さっきまでの刺す様な視線は、もう感じられない。


 こ、ここだ。今こそ攻めに転じて、この場におけるイニシアチブを奪取するのだ!



「凛々夏だって、仲の良い友だちはいるでしょ?」


「……それはまぁ、居ますけど」


「そういう子と食べさせっことか、した事あるよね?」


「それも、まぁ」


「そう! すごく仲の良い間柄なら、普通の事なのです! 私たちだって、さっきしたよね!」


「……むー」



 いいぞぅ。かつてないほどに、凛々夏に意見を通せてるぞぅ! これなら、この状況を脱するのも時間の問題ってわけ!



「まったくぅ、凛々夏ってば。なんでそんなに私が誰かと“あーん”したのかが、気になっちゃうのかなぁ? あはは」


「それは……」



 拗ねた様子で口許を小さく尖らせて、凛々夏は少し押し黙る。えへへ、今日の私は絶好調かも。さっき凛々夏に“あーん”してもらって、パワーを分けてもらえたからかな?


 さて、凛々夏はどんな言い分を聞かせてくれるのかな?



「……ユキさんの、そういうコトのはじめては、全部わたしのモノって、思ってたんです」



 ぽつり、と零れた凛々夏の言葉に、少しだけ寂しそうな何かが感じられて、私は不思議に思ってしまう。


 どうしてそんなに、寂しそうなんだろう。リリ担で抱き枕の私が誰かと仲良くしてるってだけで、私にとっての一番は凛々夏な事に変わりはない、のに。


 それに、って? ……聞いて、みようか。素直になればいいのにって言ってくれたのは、凛々夏だもんね。



「その……“そういう事”って、どういう事?」



 ……あ……私、やっちゃった、かも。


 何をのかはわからない。けど、直感的にそう思ってしまった。


 それが間違いなのかもわかんない。けど、今の問いかけに凛々夏が答えてしまった時、確実に私たちのを変えてしまう。


 その事に、言葉を口にしてから気付かされた。


 だって、私の問いを受けた凛々夏が、その黒い瞳に、今まで見た事のない“色”をのせて、私を見つめてきたんだ。

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