第32話 「……わたしのコトを……感じられる……?!」
——もう二度とは迎えることのないと思っていた奇跡が今、また私の下を訪れてくれた。
昼頃に送り出した凛々夏が、レッスン終わりで私の家に帰ってきてくれたんだ。
それはある意味で、私がした決意とは裏腹の事実ではあるけど……でもやっぱり嬉しくて、情けないことに玄関でわんわんと泣いてしまった。凛々夏が与えてくれるこの幸せな気持ちが私を満たしてくれて、沈んでしまった心を浮かびあげてくれる。
また凛々夏と、二人きりの時間を過ごす事ができるなんて、私にとってこれ以上の幸せなんてないんだよ。
これはやっぱり私では起こし得ないこと。凛々夏だからこそ許される、本当の奇跡だと思う。
そんな風に感動していたら、廊下で私の胸に飛び込んできた凛々夏に押し倒されてしまった。今の私はよわよわな上にへろへろなので、またカッコつかないことに受け止めきれなかった。けど、彼女に怪我がないならおーるおっけー。
とりあえず立ち上がったなら、凛々夏の様子を見て……大丈夫そう。なら、リビングに向かわなきゃ。凛々夏が用意してくれたお弁当を、凛々夏と二人で食べられるんだもん!
リビングへの扉を開いて、お弁当が入った袋をテーブルに置いて。インスタントでも汁物は用意したほうがいいかな。凛々夏が持ってきてくれたこれは和食っぽいし、味噌汁……お吸い物?
「ライブ、見てたんですね」
バッグを背負い遅れてやってきた凛々夏が、リビングに入るなりそんな事を言う。視線の先には、私がさっきまで眺めていたエス=エスのライブ映像が流れるテレビがあった。
「今日は予定もないし、平均的なドルオタのモーニングルーティンってやつだねぇ」
「モーニングって時間じゃなくないです?」
「それはそう。けどまだ、なんだかぼんやりする私としては朝のつもりなんですっ」
「体内時計が狂いそうですね。……あっ……それ」
「えっ? ああ、うん。……えへへ」
凛々夏が指したのは、今は私の後ろにあるソファ。ではなく、そこにポンと置かれたもの。
そう、凛々夏が残していってくれたサイン入りのライブTシャツだった。
凛々夏が家を出てから、私は寂しくて、手放せなくって、ずっと手元に置いてあったんだ。まさか凛々夏が戻ってきてくれるとは思ってなくて、この後もまたライブ鑑賞に戻るつもりだったから、畳んでソファに置いてあった。
それを見て凛々夏は、ちょっとだけ所在なさげに、視線をまたテレビに戻した。……まぁ、そっか。
彼女としてはきっとサプライズのつもりでサインを用意してくれたんだろうし、それを改めて見る事になると、気恥ずかしくもなっちゃうよね。
「今日は、ずーっと手放せなかったんだぁ」
「喜んでくれたなら、まぁ、良かったです」
「うんっ。お恥ずかしい事に泣いちゃうくらい寂しかったから……凛々夏の事を感じられる気がしてね?」
改めて手に取って、ぎゅっと抱きしめてみる。すると、凛々夏が置いていってくれた優しさ、温もり……そういうものがTシャツにはこもってるような気がするんだ。
これがなかったらもしかしたら、今でも泣いちゃってたかもしれない。あっても凛々夏を見て泣いたんだけどさ。
だから少し恥ずかしくても、凛々夏にお礼が言いたくてそんな事を伝えたんだけど……凛々夏は私の言葉を聞いて。
「……わたしのコトを……感じられる……?!」
なんて、驚く様に目を丸くして、わなわなと震え始めた。……なに、私なんか、変な事を言っちゃった?
「うん? だって凛々夏が私の為にって置いてってくれたんだもん。そこに込められたものを感じ取ってこそのオタクだよね?」
「感じ取って……」
「えへへ……やっぱり私は凛々夏の事、大好きだからさぁ。ずーっとこうしてたくなるんだよねぇ」
「……あの、ユキさん」
Tシャツを手にして幸せな気分に浸っていた私に、なんだか冷たく聞こえる凛々夏の声が届いた。ビビりながら顔を上げると、昨日今日で散々向けられたジト目が私に飛んできた。わ、わぁ? 凛々夏のジト目はやっぱり、可愛い、なぁ?
「まさかとは思いますけど……“匂い”とか、嗅いでたり?」
「におい?」
手にしたTシャツに鼻を当ててみる。けど、私の鼻に届くのは新品ならではのなんとも形容し難い匂い。何の匂いなんだろうね、あれ。
あ、でも、甘い感じのいい匂いもする様な……?
「ちょ、なにしてるんですっ?!」
「へ? あ、思わず……でもそんなに気になるような匂いはないけどなぁ?」
やっぱりグッズを売る側としては、商品のクオリティに気を使うんだろうなぁ。買った商品から変な匂いがするとかだったら、今のご時世あっという間にSNSで拡散されたりもしちゃうだろうし。
そんなところまで気にかけるなんて、やっぱり凛々夏は——
「それ、わたしが着てたやつですよね?!」
——……そーいえば、そうだったね……?
忘れてたつもりでもなかったんだけど、“サイン”にばっかり意識が向いてた。これは私の持ち物であり、だけども昨日凛々夏が寝間着として着たシャツだったっけ。となると、匂い、とは。
「や、やっぱりユキさんは、そうやってわたしの匂いとか、嗅いでたんですね……!」
そ、そういうことかぁ……!
「そ、そんなヘンタイっぽいことしてないよ?!」
凛々夏の言う事は全肯定な私だけど、こればっかりは受け入れるわけにはいかない。私はヘンタイだって思われたくないし、凛々夏は匂いを確かめられてたって思えば恥ずかしいだろうし。
だから、私は理解してるよ、そんなことしてないよ。そういうつもりで否定したんだけど……あれ、なんだか、凛々夏の顔がみるみる赤くなってく。
もしかして凛々夏……に、匂いフェチだったり……いや、まさかね! そんな、ね!
そして、きゅっと結ばれた口が開いた時、凛々夏はぱっと手を差し出してきた。これは私に手をとって、って言いたいわけじゃないよね……?
「それ、渡してください」
「な、なぜでしょうか……?」
「持って帰ります。Tシャツの埋め合わせはしますから、ほら」
「それは、あはは、ちょっと……ね?」
凛々夏の残してくれたものを、凛々夏は渡せと言ってくる。推しが望むなら渡してあげたいところではある。だけど、これは私にとってはもはや家宝に等しいTシャツなわけで、名残惜しさが出てきてしまう。それに埋め合わせをするなんて手間を彼女にとらせたくもない。
そして、私たちの間に不思議な緊張感が奔った。
耳まで赤くして据わった目で私を見る凛々夏は、何も言わずにボストンバッグを下ろして、少しだけ腰を落とした。いつでも飛びかかってきそうな、そんな構え。あは、はは、流石は運動神経抜群な凛々夏だね。隙が見当たらないや。
……こ、このままでは、取られる……!
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