第25話 「ユキさんっ」
凛々夏は今ようやく私の顔をまともに見たんだろうね。泣きまくって、鼻をかみまくって、ぐずぐずになっちゃった私の顔を。
可愛いワンピース姿の凛々夏に対して、私はシャワーも浴びてないTシャツ姿だし、やっぱりこの姿だけは見られたくなかった、かなぁ。
「どうしたんですか?! そんな……目も鼻も赤くして!」
「え、あー……さ、さっきまで、寝てたからかなぁ」
「目はともかく、鼻はそうはならないですよね! 何かあったんですか?!」
凛々夏の事を想って泣いてた、とは言えないよね。彼女の事だし、もしかしたらまた自分の事を責めてしまったりするかもしれない。
私の
「ね、寝相が悪くてさぁ。ぶつけちゃったかなぁ、あは、ははは……?」
「……昨日一緒に寝たので、寝相が言うほど悪くないってのは知ってますけど」
「ふぐぅう……」
「白状してください、何があったんですかっ」
ついに玄関をくぐった凛々夏が、やっぱりジト目で私に詰めてくる。
うぅ、凛々夏の可愛さが攻めてくるよ。私の精神的な城壁は、凛々夏っていう可愛すぎる攻城兵器に対しては無力なんだよぅ。
どうしよう、理由を言うわけにはいかないんだけど、うまく誤魔化す言葉が見つからない。えっと、えっと……。
そうやって私が言葉に詰まってると……凛々夏の小さな手が伸びてきて。
「もう……大丈夫、ですか?」
そうして、私の目元を優しく撫でてくれた。
その指先の柔らかさが、確かに今、目の前に凛々夏がいる事を証明してくれてるみたいで。
……ダメだよ。今の私にそんなに優しくしてくれちゃったら、もう。
「……り゛り゛か゛ぁ゛あ゛」
「ふわっ?! どうしたんです、ユキさんっ。なんでそんな」
「も゛う゛き゛て゛く゛れ゛な゛い゛と゛お゛も゛っ゛て゛た゛よ゛ぉ゛」
「お、落ち着いてくださいってば。……いや、ユキさんが言ってくれたんじゃないですか。“またきてね”って」
「い゛っ゛……っ゛て゛た゛! わ゛た゛し゛、い゛っ゛て゛た゛ぁ゛!」
そうだ。私は確かに言ってた。
明るく凛々夏を見送る為に、“またね”じゃなくて、“またきてね”って。言っちゃってたんだ。
でもあれはオタクとして、もう凛々夏が来ることなんてないんだって思ってたから選んだ言葉だった。だって、その“一線”を超える事を、私には選べないんだから。
……でも、やっぱり凛々夏は
私が超えられないと思い込んでた“一線”なんて、本当に羽が生えてるみたいに、簡単に飛び越えてきちゃうんだもん。——
「——落ち着きました?」
結局、またばかみたいに泣いちゃった私は、玄関の床にお尻をつけて座り込んでしまって、洗いざらい話すことになってしまった。
我ながら情けないよ、
「……ずびばぜんでじだ。おぢづぎまじだ」
「まだ泣いてるじゃないですか。……それで、ユキさんはわたしが帰って寂しくなっちゃったから、泣いちゃってたと」
「ばい、ぞーでず。ばだじばだべなおねーざんなんでず。……ぐずっ……はらをぎりまず」
「切らないでください……はぁ」
恥ずかしくって縮こまってしまう私に、しゃがみ込んだ凛々夏のなんだか困った子を見るような視線が刺さる、刺さる。こんな筈じゃなかったのにぃ……。
ここから挽回する方法は、何かないか。その辺に転がってたりしないかな……!
そうして、視線を床に落とした私のほっぺに、ふに、と何かが触れた。
なんだろうと思って手を添えてみると……それは私の頬をつつく凛々夏の指で、触れた瞬間に彼女の優しい目と、目が合ってしまった。
「もう、ほんとに可愛いですね、ユキさんって」
ちょっとだけ呆れ混じり。でもなんだか……なんだか……わからないけど、なにかの温もりがこもった、凛々夏の表情と声。
そんな凛々夏を見てると、やっぱり私の心臓はどきどきと音を立ててしまうんだ。
「……しゅきぃ……惚れちゃうよぉ」
「あれ、まだ惚れてくれてなかったんですか、ユキさんは」
「ち、違うよぅ。もっと惚れちゃって、もう、どうしようもなくなっちゃうよ」
「いいじゃないですか。もっともっと……いひひ、わたしに惚れて欲しいです」
うぅあ……ダメだよ、凛々夏。そんな悪戯っぽい微笑みを向けられちゃったら、私は今すぐ床に寝転んでお腹を出して、“全面降伏のポーズ”を取りたくなっちゃうよ。
お腹を……な、撫でてくれたりしないかな。そうしたら一発で回復出来そう。や、ちょっとヘンタイっぽいか、犬扱いして欲しいなんて。
ちらちら、っとまた視線を送ると、凛々夏の楽しそうな顔が見える。私が困ってるってのに、凛々夏はすっごく嬉しそうです。
「しょんなこと言われちゃったら、困っちゃうよぉ」
「困っちゃってください。……もう、りりちしかー?」
「愛せないーっ!」
「よし」
「……はっ?!」
困る私の耳にコールが届けば、条件反射的にレスポンスを返してしまう。これが調教されきったオタクの末路なのだ。
私はさながらパブロフの犬。犬扱いして欲しいって思ったけど、本当にされると、へ、へへ、幸せかも。
あー、ダメ。今日の私は“甘えたがり”だ。年上なのに、お姉さんなのに、オタクなのに、凛々夏に撫でてほしくて、手を目で追ってしまう。
凛々夏の白磁のように白くてさらさら、白魚のように細くしなやかで柔らかい、手と指。あの手を前にしては、私はどこに触れられても嬉しくなっちゃうんだ。
「さ、立てますか、ユキさん」
そして立ち上がった凛々夏から、その手がいま、私に差し出された。……そうだね。どこに触れられても嬉しいけど、やっぱり手と手で触れ合ってると、なんだか気持ちが繋がっているような気がして……それが1番、幸せになれるかも。
手をとって、それでも自分の足に力を入れて立ち上がる。私如きの体重で凛々夏に負担をかけるなんてあってはならないので。
「ありがと。ご迷惑をば……」
「可愛いユキさんが見れたので大丈夫です。それじゃあコレ、持っていってください」
「あ、そう、そうだったね」
二人で立ち上がり、凛々夏から差し出された袋を私は受け取る。
なんだろうと見てみると、中にはお高そうな……お弁当箱かな? それが二つ入っていた。
「これって、お弁当?」
「そうです、それで……」
そこで言葉を区切った凛々夏はもじもじと、言いづらそうに続きをためらった。
うーん、凛々夏のためらい顔、最高だね。ビタミン剤的な魅力がある。摂取すれば、強制的に心拍数が上昇して、元気になるんだもん。
そんな事を考えている間に、凛々夏はいよいよ決心を固めたように、改まって視線を私に向けてくれる。
「わ、わたしもっ! ……その、食べていこうかなって、思うんですけど」
そうして、凛々夏の瑞々しい唇から表れたのは、夕食を共にしたいという申し出の言葉。
それはつまり、また昨日のようなひとときを過ごせるかもしれないという意味でもあるし、もしかしたら凛々夏も……なんて期待してしまう様な、愛らしさを含んでる。
「ダメ……じゃない、ですよねっ。推しの言う事は絶対、ですよねっ」
まだ少し恥ずかしそうに、でも
そんな風に、その甘えられてしまったら。
「うんっ、もちろんだよ!」
存分に応えてみせるのが、オタクの本懐ってもんでしょ!
……わかってるよ。こんなことが許されるのかは、私が判断していいものじゃないのは。
でも、でもね。推しがそれを望んでくれるっていうなら、石が降ろうが槍が降ろうが……世界を敵に回したって、叶えてみせるんだ!
だから私は、リビングへのわずかな道を一緒に歩みたくって、凛々夏へと手を差し伸べるんだ。
「あ、ごめんなさい。えっと……脱いだ靴! ……直します。先にリビングに行っててください」
……まぁその手は、空を切っちゃったけど!
凛々夏はなんだか慌てた様子で、私から視線を玄関へと逸らしてしまった。
「あ、き、気にしなくていいのに、えへへ」
「こういうのはキチンとした方がいいですからっ」
「マナーを大事にする凛々夏、偉いよぉ……じゃあ、何か汁物でも用意しとこっかなぁ」
とりあえず言われた通りに。でも、すぐに追いつくれるかなって、ゆっくりと我が家の短い廊下を歩き出す。
……こんなことが起こるなんて、誰にもわからないよね。
例えば、私が界隈の掲示板で、“アイドルオタクの
私だって未だに信じられないし、未だに、夢みたいだなって、そう思うよ。
でもね、それでいいんだ。
これは他の誰もわからなかった、誰も知らない……そう、私たちだけの秘密。秘密なんだから、みんなに届くものじゃない。
けど、秘密だからってそれが、決して嘘なんかじゃない本当のことなんだっていうのは——
「ユキさんっ」
——振り返れば、愛らしく顔を綻ばせた彼女がいる。
黒いツインテのよく似合う、ぱっちり猫目の、私の大大、大好きな人。
彼女が浮かべるその表情を見ていれば、私が幸せなように、彼女もいま幸せでいてくれるのかなって、そう思えるんだ。
そんな彼女がいま、小さく駆け出して——
「ただいまですっ、いひひっ!」
——この秘密が、本当のことなんだっていうのは、この胸に飛び込んできてくれた、
「うぃ、たた……大丈夫?」
「……すみません、勢いつけすぎました。ケガしてないですか」
「お尻ももちもちだから平気だよっ。……えへへ。おかえり、凛々夏っ」
結局ふらふらな私は、凛々夏の勢いに負けて、床へと転がることになってしまったのでした。
本当に私ってば、カッコつけられないなぁ。
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