第19話 「……なんでユキさんが恥ずかしがってるんですか」

 朝を迎える度、私は少しだけうつうつとした気分になる。何事においても考えなきゃいけない悩みは年々数を増して行って、その分だけ頭や心が重くなるような気がするから。


だけど、土曜日の朝は少しだけそれが薄らぐ気もする。少なくとも職場に行かなくて良いってだけでこれ程までに心が軽くなるのだから、やっぱり人間は働きすぎなんだ。


 ……ただ土曜日であっても、今日に関して話は別になるみたい。さっきからコーヒーを用意する手は、まるで時間稼ぎをするみたいにゆっくりで、とてもじゃないけど軽やかな心持ちでいる人間の所作じゃない。マグを取る手は重くって、計量するスプーンはどこへやったかな、なんてわざと迷ってみたり。その原因は……明らかだったりする。


 わかってるんだ、何事にも終わりは来るものなんだって。私の……うぅん、の場合、始まりは唐突に、そしてあっという間に終わりを迎えるってだけ。……こんな気持ちになるくらいなら。


 ……ぱちん、と弾ける様な音が私の鼓膜を叩いた。ハッとして見てみれば、電子ケトルがお湯の用意が出来たと、スイッチのライトを消す事で教えてくれている。


 “こんな気持ちになるくらいなら”ってなんなの。わかってた事なんだから、もしもなんて考えてもしょうがないし、時間稼ぎはなおさら無意味。


 終わりが避けられないっていうなら……その時を待つのではなく、せめて素敵な思い出として描ききって、送り出そう。


 それもきっと、オタクの役目、でしょ?——



「——おまたせ。インスタントでごめんねぇ」



 二人分のマグを載せたトレーを手にしてリビングに向かうと、りりちが二人がけソファの上で体育座りをする様に膝を抱えて、スマホをぽちぽちと操作していた。


 彼女はまだ相変わらずのシャツ姿で、髪もまだツインテにはしていないけど、もうすでに超絶可愛い。窓から差し込む朝日に照らされるその姿は天使……いやもう、女神がそこにいた。


 やはりアイドルというのは朝であってもその魅力は陰ることはなく、やはり私の様なオタクとは生物としての格が違うのだと改めて思う。もはや同類項なんて“ニホン人”、“メス”くらいしかないんじゃなかろーか。


 ちなみに寝ぼけ眼で私を見るりりちにやられて、ベッドを離れる前から既に一敗を喫しているのは今後言及しない方針で行く。負けだって知られなかったら負けじゃないのだ。


 ところで女の子の場合でも膝にいるのは小僧なんだろうか。りりちは膝すらも綺麗だから、きっと膝乙女とかなのかもしれない。



「ありがとうございます……でもなんか、わたしの脚を見ながら、ヘンなこと考えてません?」



 す、スマホを見ていたはずなのに、どーして私の思考が読まれてるんでしょうか。やはりアイドルというのは一般人では予想もできない力を持っていて、私の想像なんか簡単に超える事をしてくれるのかもしれない。



「き、気のせいじゃないかなぁ……あはは」


「あやしー」


「そ、そんな事より……まだ時間は大丈夫なんだよね?」


「そーですね。レッスンは昼過ぎからで、ライブもないので……まぁ、よゆーですよ」



 そう、今は色々あった昨日を経た土曜日の朝なのである。私は出勤もないので気楽なものだけど、りりちもそうであるかどうかはわからない。お泊まりは彼女が申し出てくれた事だから大丈夫だとは思うけど、何かあっては私は死んでも死にきれないので確認してみたんだ。


 一安心した後でりりちの前、テーブルの上にコーヒーの注がれたマグと、それから適当な数のシュガーやミルクポーションをこれまた適当な木皿に用意して並べる。


 ここで“りりちは砂糖三つに、ミルクをたっぷりだよね!”みたいな理解者ムーブができたら良かったんだけど、流石にそこまでの情報は得られていないので、お好みに任せることとする。


 さーて、私は床に。



「ソファ、座ってくださいよ」


「……推しとっ、同じ高さのっ」


「一緒のベッドで寝たんだから、今更じゃないです?」


「……ぐーの音も、でないねぇ」


「ですよね」



 一言で論破されてはどうしようもないので言われた通り、りりちも座る二人がけのソファにお尻を落ち着ける。恐れ多くってなんだか縮こまってしまう。


 だけど、そんな私の心を知ってか知らずか、りりちはわざわざ、お互いの腰が触れ合うくらいの場所に座り直した。



「うっ……朝からりりちが近い……溶けちゃうよ、私……太陽に近づきすぎた誰かさんの様に……」


「平常運転ですね、ユキさんは。……名前」


「うん?」


「その……“凛々夏”って……呼んでくれないんですか」



 そう言ってからりりちはマグを手に取って、なんだか恥ずかしそうにそっぽをむいてしまった。


 彼女にとっては大き目のマグに隠れる様な仕草が、私の脳内にオキシトシンもびっくりのなにかをぎゅんぎゅん生み出してくれてるのを感じる。


 そんな可愛い事、されちゃったらさぁ……!



「凛々夏っ」



 ご要望に応えて名前を呼んでみると、凛々夏はまだやっぱり恥ずかしそうに、でも心なしか嬉しそうに、私に視線を戻してくれた。


 ……うーん、やっぱりどうしてか名前呼びは照れが出てしまう。本当にどうしてかはわからない。いつも“りりち”と呼んでいる時は、可愛いとか好きとか愛してるとか、そういう言葉を口にする事もあるっていうのに。変だなぁ……?



「……えへ」


「……なんでユキさんが恥ずかしがってるんですか」


「えー? 自分でもなんでだろとは思うけど……なんか照れるんだよねぇ」


「変なユキさんです。……話は変わるんですけど……昨日はなんか、すみませんでした」



 恥ずかしさを誤魔化す様に、私が自分の分のコーヒーに砂糖やミルクを投入していると、凛々夏はそんな事を言い出した。


 電車での事はもう解決したと思っている私としては、ここにきて謝られることなんてないはずなんだけれど。……そう思ってまた彼女の方をみると、バツが悪そうに、やっぱり少し照れてる様に、凛々夏はマグに注がれたコーヒーを眺めていた。



「ユキさんのお願いとしてお邪魔したのに、なんていうか……かなり、は、はしゃいじゃったというか、ハメを外しちゃったというか」


「うぅん? 別に全然、気にしなくていいよぉ。私もすごく楽しかったし!」


「それならまぁ、良かったです。わたしも……こんなチャンスがあるなんて、思ってなくて……」



 尻すぼみに小さくなっていった凛々夏の言葉に、私の中でピンとくるものがあった。


 なるほど、私生活という観点で考えた時、オタクからアイドルへの方向についてはまま垣間見る事は可能だったりする。例えばライブのMCで触れたり、自宅で行われる配信なんかで片鱗は窺う事は叶うわけ。


 けど、アイドルがオタクの私生活を知るっていうのは、特殊なケースを除いてはほとんどないと言える。高度情報化社会である昨今ではSNSなんかで発信する一般人も多いけど、それにしたって断片的かつ気分に左右されるもので、情報としての確度は低めに違いない。


 そんな中で凛々夏が呟いた“チャンス”という言葉。これはきっとオタクの私生活を知って研究する事により、アイドルとしてのアプローチに磨きをかけられるということを指しているのかもしれない。


昔の誰かが言いました。“敵を知り、己を知れば百戦危うからず”と。オタクは敵ってわけじゃないと思うけども。


 これは頑張り屋さんな彼女の事だし……間違いない。



「うぅ……凛々夏……頑張り屋さんでしゅごいよぉ……」


「……何を考えたのかはわかりませんけど、多分それ違いますよ」


「なんて謙虚な……万人が見習うべき人間のお手本がここに……」


「どんどん話が大きくなるじゃないですか……とにかく、違いますから」



 私としては確信を抱いていたんだけど、凛々夏にジト目で見られては引っ込めざるを得ない。


 それにしても、凛々夏のジト目は何度いただいても良いものだよね。コーラ、ハンバーガーに並ぶ程、人類に愛されるソウルフード的なポテンシャルを秘めてると思う。



「……まぁでも、私も昨日はちょっと子供っぽくなっちゃったし、おあいこだねぇ」


「え?」


「え?」


「ユキさんはわりといつも通りじゃなかったですか?」


「そ、そそ、そんな事ないんじゃない? 普段はもっと落ち着いてるつもりだしっ」


「それはそうですけど、言葉の内容とかは変わらないですよね。いつもよりそれがオーバーになったカンジというか」



 普段から子供っぽいと思われていたなんて、へ、へへ、凛々夏もまた冗談を言うもんだね。おねーさんをからかおうったってそう簡単にいかないよ?


 そうして、とりあえず落ち着こうとコーヒーを啜ったところに、“まさかハグであんなになるなんて”という凛々夏の言葉が飛び込んできて、私は盛大に咽せることになった。

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