第16話 「ダメになっちゃえば、いいじゃないですか」

 今日のりりちは本当に、今まで彼女をアイドルとして追いかけてきて、一度も見たことがない様な表情を見せてくれる。その上で……容赦がない。


 私という矮小で脆弱な、いちオタクに対して、りりちはその魅力をこれでもかとぶつけてくるんだもの。りりちは知らないのかな、コミュニケーションってキャッチボールなんだよ。ドッヂボールじゃないからね。


 そして今、彼女ははとどめと言わんばかりに、私に回した手を引いて——



「はい、ぎゅー」



 ——世界から音が、遠くのどこかへ失せていく。


 残るのは私の胸から届く音と、右の耳元でかすかに聞こえるりりちの吐息。


 私の胸から耳へと届けられるのは、うるさいくらい響く鼓動の音。それは私がこの状況に興奮してるって事実を雄弁に語っているようで、それがまた恥ずかしくって、身体がさらに熱くなった気がする。


 けれども、外から届けられるりりちの吐息が、本当に僅かに、湿り気のある熱を帯びているような気がして。


 ……“もしかしたら、りりちも”……なんて甘い願望が、ぞく、ぞく、という不思議な高揚感を生み出しては、責め立てる様に私の中で暴れ回って、あぁもう……おかしくなってしまいそう。



「……ん……ユキさんのカラダ、あったかいです」



 たった一言。それだけで、雷に打たれたみたいに身体の自由が効かなくなる。


 そうなると不思議な事に、頭の中では靄がかかってふわふわとした気持ちになってしまっているのに、りりちを感じる為の感覚だけははっきりとしていて、彼女の温もりと柔らかさが私をまた優しく刺激した。


 私の大きいばっかりの胸が、彼女の身体で形を変えてる。自分が胸を通して感じる感触なんて日頃は気にすることもない。なのに、今だけは潰されたその形がそのまま彼女の形なんだと理解してしまって、どうしようもなく意識させられてしまうんだ。


 首と背中に回された手から、押しつける様に触れる身体から、脚に乗せられた彼女の太ももから。目の前にいる彼女の等身大の暖かさが、火にあてられたマシュマロみたいにじわり、じわりと私の心を溶かしていく。



「これ……やばいかも、です。ユキさんがふわふわで、クセになりそう」



 とろけそうな言葉が私の耳をくすぐって、背中を伝って、私の中のどこかにある大事なところに届いて……ぞくぞくに耐えきれなくなった身体がふるりと震えてしまう。


 私は心のどこかで、した事もない“ハグ”というものを過小評価していたのかもしれない。身体を触れさせる面積がすこし大きくなっただけで、本質としては他者に好意を示すものであり握手と大差があるものじゃない。そんな風に考えていた。


 けど、やっぱり、違ったんだ。身体と身体、熱と熱を交える様に行われるそれは、お互いの1番無防備で大切な部分を預け合う行為なんだ。それによって生み出される多幸感、安心感、背徳感……とにかく、私の中にはいま、およそ人生で感じたことのないナニカが溢れて、私という器を壊そうとしてる。



「ほら、ユキさんもぎゅって、してください」


「……ぅ……ん」



 促されてようやく、腕を回して彼女を抱きしめてみる。抱きしめるとは言っても、私はここまでで散々に弱らされてしまっていて、腕にはあんまり力は入らない。けど、それほどに弱っていても感じる事が出来る、彼女の小さな身体について。


 本当に同じ人間かと思ってしまうくらいに、彼女の身体は華奢に見える。でも、この手に抱く事でわかったよ。


 華奢に、儚げに見えても、暖かくて柔らかな身体の奥には引き締まったナニカがあって。多分、これこそが彼女をアイドルにしてくれているものなんだと思う。


 ああ、もっと、りりちの事を知りたい。こうして抱きしめてもっと、もっと確かめたい。……けど。



「ん……もっとぎゅっと、してくれても良いんですよ?」


「……だめ、だよ。……だめになっちゃう……」



 私の身体と心はやっぱり、もう砕けて、とろけて、私という形を保てそうにない。


 目の前がちかちかして、なんだか白く染まってる。思うように息も吸えなくなってきて、でもそれがなんだか気持ち良くって。……りりちが抱きしめてくれていなかったら、どこかへ流れていってしまいそう。


 あぁ、私はいま、りりちにハグをされているんだ。



「ダメになっちゃえば、いいじゃないですか」



 そしてくらくらしている私を、蠱惑的な言葉と甘い香りが貫いた。驚きに目を見開いてみても、目に映るのは自分の部屋と、彼女の艶やかな黒髪と小さな肩だけ。どうしてそんな事を言うのかなんて、表情から窺う事なんて出来なかった。

 


「どう……して……?」


「……ダメになっちゃいけないなんて、誰が決めたんですか?」



 私の知るものより落ち着いた彼女の囁き声が、私の心の何もかもをぐちゃぐちゃにしていく。


 ああ、それにしてもこの、りりちが漂わせる甘い香り。今日に限って言えばシャワーを浴びて、同じ香りを身に纏っているはずなのに。どうしてこうも、私を捕らえてしまうんだろう。


 ……だめだよ。捕らえられたままじゃ、私は私でいられなくなっちゃう。



「私……りりちの事が好きで……でも……このままじゃ、私……」


「……ユキさんはわたしのコトを、そんなに想ってくれてるんですね」



 一層浅くなった呼吸が辛くって、りりちの言葉に私は頷いて答える。幸せなのに辛いという二律背反がまたぞくぞくと私を痺れさせる中で、私の耳に届いたのは細やかで、それでいて確かに彼女が零した笑い声。



「……やっぱり、可愛いです」


「りりち……なにを……」



 “可愛い”なんて。この状況で言われたら——



「……わたしも……」



 ——くるくると視界が移り変わって——



「……は、ふぅ」


「わっ……ぷ」



 ——ぽふ、と私の頭がやわらかな衝撃に包まれて。


 ぽやけた視界に映るのは、私の部屋の見慣れた天井。


 ……もー、だめ。あのままだと、まじのまじで、死んでしまうところだった。彼岸花咲き乱れる賽の河原までは少なくとも辿り着いてしまっていた。



「はぁ……は……あぅ、ご、ごめん……りりち、どこかぶつけなかった?」



 結局、酸欠やら何やらで、我慢の限界のその先を超えかけた私は、りりちを抱いたまま布団に仰向けに倒れ込んでしまった。身体は相変わらず、むしろさっきより密着はしてるけど、姿勢を保たなくて良くなった分ほんの少し楽になった。


 しかしハグ……こんなに凄いなんて、知らなかったぁ……。これを挨拶として取り入れてる文化があるってマジ?


 さて、少しだけでも落ち着いてくると気になるのは、私と一緒に倒れ込んだりりちの事。私の右肩に頭を預けてくれていた彼女は、枕に顔を埋めたまま動かない。……え、嘘、どこか本当にぶつけちゃった?



「り、りりち……大丈夫……?」


「……大丈夫です」



 再び声をかけてようやくりりちが起き上がってくれた。顔は相変わらず赤くて、全然目を合わせてくれないんだけど。な、なんで。



「本当に……?」


「はい、全然、大丈夫ですから」


「ごめんねぇ、私……ふぅ……やっぱり余裕なくなっちゃって」


「ホント、大丈夫です」


「……怒ってる?」


「怒ってないです、大丈夫ですので」



 まだ私の腰辺りの上にいるりりちは、目を合わせてくれないまま大丈夫を繰り返すロボットみたいになってしまった。


 やっぱりハグはそんな簡単にして良いものじゃないのかもしれない。推しとのハグは扱いようによって容易く人間を滅ぼしうる、そんな可能性を垣間見てしまった。


 乱れた呼吸を治めつつ、左腕を額に当てて、その程良い冷たさで沸騰しそうに熱い頭を冷やす。……なんか、すごい経験をしちゃったかも、しれない。

 


「となり、いいですか?」


「あっ……うん、どうぞどうぞ」



 私より早くりりちは落ち着いたみたい。隣にと声をかけられたのでベッドの上をずりずりと動いて、右手側にスペースを作る。



「あ、枕使って欲しいな」


「枕はユキさんがどうぞ。代わりに……」



 そう言いながら、袖をくいくいと引っ張られたので、なんとはなしに右手を横に伸ばす。するとりりちは手櫛で黒髪を撫でた後、ぽふ、と私の腕を枕にするように身体を横たえた。かわよい。


 ふぃー。一日の終わりに迎えるものとしては、なんともハードなミッションだったぜい。でも、どうにかこうにかこなせたわけだし、自分を褒めてやりたい。


いや逃げたじゃんと言われたらぐうの音も出ないけど、結果として命を拾えただけでも御の字でしょう。でも……うん? なんか……うん?


 もう、本日何度目なんだろうか。おっかなびっくり、右隣に視線を向けると。



「……ひぅっ」


「……反応遅すぎて、逆にびっくりです」



 りりちが私の腕を枕にして、自然と隣に収まっている。

 私はこの身を悶えさせたハグからは逃げだせたけど……あいどるからはにげられない!

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