第7話 アイスが溶けて

 アイスが溶けて、表層の霜が濡れ、おれの指を伝ってきた。それは千桜も同じだったようで、頭をひねり、指に垂れたアイスを器用に嘗め取っていく。

「けど、よく聞くけど、よくわかんないな。HDMI?」

「ADHDは注意散漫で多動、ASDはこだわり強めって感じの状態です」勉強したのか繰り返しそう説明を受けたのか、彼女の言葉は滑らかだった。「昔はLDっていう、学習障害って言われるものもあったみたいですけど、先の二つでLDの状態を説明できるので最近はあんまり聞かれないみたいです。ADHDもASDも発達障害の分類ですよ」

「あぁ、納得」

「え?」

「昨日の夜ってか今日の朝に初めてネットで知り合ったのに今日会ってすぐ家に上がり込んでるもんな。注意散漫だし多動だ。それに五〇〇円も譲らなかった。こだわり強め」

「ええ?」

「……でも、治るんだろ?」

「治るらしいんですけど」

 近年開発された遺伝子修正パッチが、発達障害を治せると謳っている。それが皮膚に貼るだけで体内の特定の遺伝子を編集できる一種のデバイスだということは、発達障害がどういうものかよく知らないおれでも知っている。このパッチを貼ると、微細な分子が体内に浸透し、狙った遺伝子の一部を修正し、遺伝子に起因する症状の書き換えができるのだそうだ。動画やテレビでは、歴史に残る遺伝子革命として大々的に取り上げられていたから、嫌でもその内容は覚えている。

「私、一〇歳の頃から遺伝子修正パッチの治療を受けていて、今も続けてるんです」

 そう言うと彼女はぺらっと制服のスカートをめくった。その白い太ももの内側に、肌色の丸い絆創膏のようなシールが貼られている。次いで、おれは気付いた。

「……パンツ見えてる」

 思わず目を逸らす。

 彼女は言葉を止めた。

 しばらくエアコンの室外機と扇風機の音だけが残った。今年の夏は本当に蝉がいない、静かな夏だ。熱い夏だった。

 布がこすれる音がする。

 視線を戻すと、彼女はゆっくりとセーラー服のボタンを外しはじめていた。

「……なにしてんの」

「見てもらおうかなって思って」

「なにを」

 首元にリボンを残し、白いシャツが肩からこぼれていく。パンツと同じ柄の大人びたブラジャーが露わになる。幼い身体が、どうして吸い寄せられるような谷間を持っているのだろう。豊満とすらいえないものの、瑞々しく、たおやかで、見ているとまともではいられなくなってしまう。すらっとした筋を描く腹部は芸術的ですらあった。

「……どう思いますか」

「どう思うって」

 そう言って出した自分の声で、おれは目が覚めたかのように彼女の身体の引力から顔をあげた。彼女が自身の肩付近を指さしている。太ももに貼りつけられていた遺伝子修正パッチが、両肩から背中にかけて、まるで凝りに苦しむ高齢者のようにびっしりと貼りつけられていた。

「……なにこれ」

「遺伝子修正パッチです」

「いや、それはわかるけど。……意味あるの? こんなに貼り付けて」

「ないと思いますよ」そう言って千桜は自虐的に笑う。「でも、ママが貼るんです。早く普通になれって」

「一種の薬物過剰摂取オーバードーズじゃないの、これ。危ないでしょ」

「同じことする親が多いみたいで、販売元から注意喚起が出てますけど。でも、意味がないってだけで、健康に悪影響はないみたいです」

「それならいいけど……って全然よくないけどさ」

「ドン引きですよね」

「ママにな」

 おれはアイスを食べ切った。

 そのおれを見て、千桜は自分が持っていたアイスがおれの布団の上にポタポタ溶けて滴っていることに気付く。

「あ、ごめんなさい」慌てて彼女はアイスを口に運ぶ。滴ったアイスの水滴が、彼女の身体に落ち、小さな花を咲かせる。

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