第7話 陰謀と戦略

 夕暮れ時。

 サフィルがアルス=ザレラ最速の武装帆船に乗り込み、大きな船で夜間に西へ向かうという非常識な作戦を決行しようとしていた頃。

 フランクの船は順調に、最大の難所を抜けていた。


 南北の大陸に挟まれた海峡には、危険な場所がいくつかある。その中でも最も注意すべきなのがリンツ岬の沖。南大陸が極端に突き出していて狭く浅く流れも早い。

 大型の帆船が安全に通れる深い場所は限られている。両岸が目視で確認できない夜間にここを抜けるのは自殺行為とされていた。


 だからこそ、ロイは敢えて定石を打った。

 アルス=ザレラ人の常識に則り、朝の西流れに乗って運河を目指した。そして明るいうちにリンツ岬を通過した。

 全て計算の上。ひとえにフランクを油断させるためだ。


 暗くなれば大きな船は岬の先へ行けない。

 もしアルス=ザレラの船が追いかけて来ていたとしても、岬の手前で日の出を待つことになるだろう。

 そう強調し、背後に脅威はないとフランクを信じ込ませた。


 内陸人にしては珍しく航海を愛する放蕩の第六王子も、夜間に海峡を抜ける方法があることまでは知らなかったようだ。


 定石を覆す『技術』が、イゼルアにはある。

 船が大型化した現代、よほどの事情がなければ敢えて使う者はいないとされる、海峡の両岸に置かれた光の道標。特別な灯台を辿れば、夜闇に両岸が見えない状態でも安全な航路を進むことができる。

 ロイはその存在を知識として持っていただけで、具体的にどう光を読むのかまでは分からない。けれど、海峡を行き交う船を護ることを矜持とする運河の国の王子ならば。——ロイはサフィルに賭けた。

 サフィルがきっと行動していると信じた。


「余裕ある顔だな」


 フランクがにやりと笑う。

 口元に運びかけたグラスを戻し、ロイは、眼鏡の位置を指で直した。


 船尾にある船長室はなかなかに居心地が良い。

 広いし明るいし、座り心地の良い贅沢なソファもある。

 供されるのは保存食ばかりだが、さすがフランクは上等なものを集めている。酒も悪くない。

 難所は抜けたし、夜になって向かい波は穏やかになっていた。深夜を過ぎれば追い波になるから更に安定する。

 本当は余裕などない。状況は逼迫している。だが焦ったところで今できることは何もない。


「お前がそういう貌をしているのって余裕がある時か、余裕があるふりをしている時の、どちらかだ」

「どっちだと思う?」


 片頬笑むだけで、フランクは答えなかった。

 区別が付いていないのだろうと察し、それ以上追求はしないでおいた。

 明確にしない方が良い。もし本当に余裕があると——つまり何か策を隠しているのだと詮索されてはまずい。


「いい風が吹いている。夜明け前には運河に着けるぜ」

「そんなに早く着いたって仕方ないだろ」

「兄貴が出張って来る前に話を付けねえとな。あいつ頭悪いからさ、何が国のためになるか全く分かってねえ」


 同意はできなかった。

 賢さの定義がフランクとは違う。

 運河の権利を奪い、利益を搾取するのが賢いということならば、ロイは暗愚な城主で構わないと思った。


 何にも傷付いて欲しくないというロイの意志を、誰も理解してくれない——ただ一人、サフィルを除いて。



 ***



 運河に近付いたのは、明け方と言うのも憚られる暗い空の下でだった。

 流石に早すぎたとばかり、船はしばらくその手前に留まって夜明けを待つ。


 船長室で仮眠していたロイは、頭上が騒がしくなったことに気付いて目を覚ました。

 甲板に上がり、舳先の船首像越しに前方に眼を凝らす。


 背後から朝が迫っている。濃く辺りを覆っていた闇は薄らぎ、視界は青く霞む。

 キルスティン。イゼルアで最も愛されている偉大なる女神の名を与えられた運河は、もう目の前に在った。

 自然にはあり得ない真っ直ぐな岸辺。世界で最も巨大な人工物。

 それは奇妙な感慨を、ロイの胸にもたらした。肌が粟立つような、鮮烈な感動と共に。


 ここは南北大陸が接する場所。

 イゼルアの人々はここに運河を築き、東西の海を繋げた。

 まるで大地が傷を癒やそうとしているかのように、砂が堆積し埋もれていく運河を、サフィルの国の民は維持し続けてきた。

 

 初めて目の当たりにした人知の結晶は、想像していたより何倍も広くて、長くて、真っ直ぐで、壮大だった。


「運河を見たのは初めてか?」


 いつの間にかフランクが横にいた。

 望遠鏡を差し出されたが、自分の眼には合わないだろうと遠慮する。


「大きいとは聞いていたけど、ここまでとは思っていなかった」

「だよな。良く造ったもんだぜ。北岸だけでも手に入れば莫大な金になる」

「……やれやれ。君はそればっかりだ」

「最優先すべき事柄だろ? 俺達の祖先はこの厄介な土地が良い感じに育つまで寝かせておいた。やっと美味しい実を付けたから、そろそろ収穫しても良い頃だ」

「そんな権利は、僕達にはないよ」


 ロイは眼鏡を押し上げ、運河に目を凝らす。

 左側の岸は建物も疎らで、砂礫ばかりがごろごろと目立っている。右の岸はすぐ近くまで緑があり、網の目のように水路が走り、家が軒を連ね、街が栄えていた。

 少し離れた高台に大きな建造物がある。砂色の城壁に囲まれた、荘厳な——あれがサフィルの産まれ育ったイゼルアの王城。


 船が近付くほどに、美しいばかりではない運河の現状も見えてきた。幾隻もの船が固まって、流れを堰き止めている。

 商船を挟んで南部の武装船とイゼルアの警備艇が睨み合う、想像を遙かに超えた惨状となっていた。


 臆せずフランクの船は進む。

 浜白百合をデザインしたものと思われる旗を掲げた小さな船が、前方から集まってきた。


「拿捕される」

「まさか。鷹の旗を掲げた船を乱暴に扱うわけないだろう? 丁重に、港に案内してくれるよ」

「……そうだろうね」

「お前のお陰だ。この国は俺に頭が上がらないのさ」


 まるで自分こそがアルス=ザレラの代表だとでも言いたげな、余裕たっぷりなフランクに、ロイはげんなりと肩を落とす。

 悪い人間が権力を持つと、ろくなことにならない。


 空気は濃い藍色から、わずかに赤味を帯びた紫へ変わりつつあった。まだ運河の街は眠り付いている。

 だが有事ということもあり、厳重な警戒は昼夜を問わず続いているようだ。

 異形の鷹の旗を掲げた帆船は、北岸に張り巡らされた水路の入口に静かに曳航されていった。


「おはよう諸君! 私はアルス=ザレラの第六王子フランク。そしてこちらは国軍総帥ローエンヴァルト閣下だ。緊急事態ゆえ諸般の手続きは省略させてもらった。今すぐ、国王陛下に拝謁願おう」


 水路の埠頭で待っていたイゼルアの軍人達に、フランクが声を張る。

 驚きを顔に出さないよう意識しながら、ロイは従兄弟を睨んだ。


「軍として動く訳じゃないって言ったろ?」

「ああもちろん。これは私的な訪問。だからお前は俺より格下だ。が、まあ肩書きだけは正しく把握しておいてもらわないとな」

「僕の肩書きが必要なら王甥でも地方城主でも、何なら君の親戚だとでも言えば良いじゃないか。よりにもよってわざわざ……。卑怯な奴」

「王族として最高の褒め言葉だ」


 埠頭に立派な馬車が用意された。

 まだ夜も明けていない非常識な時刻にも関わらず、イゼルアの兵は隣国の王子二人を丁重に扱う。

 船を降りて馬車に乗り込む。フランクは偉そうに脚を組み、思い通りに行ったと疑わない晴れやかな表情をしていた。


「この道を犬と散歩していたのかな……」

「何か言ったか?」

「何も」


 馬車は王城へ向けて丘を登っていく。

 窓の向こうに流れる景色は、乾いていたが、緑が豊かだった。


 もうじき運河の街に朝が来る。

 空が明るくなれば、外洋の船乗り達にもリンツ岬が通過できる。夜明けと共に難所を抜けたとして、船がここへ着くのは早くて夕刻。


 フランクはそれまで誰も追って来ないと信じ、油断しているはず。

 半端に海を知っている者が陥った、天然の落とし穴だ。

 暗い海にも、道は在る。


「……サフィル」


 君を、待つ。

 僕達を止められる者を。


 命を投げ出す覚悟で挑んだ策は、二人が揃って初めて完成する。

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