第46話 真苗に訊く2
この日も朝は同じ時間に一同揃っていつもと代わらない食事を摂った。厳密にはいつもはお父さんと一緒に食事を終えるとお父さんは会社に、あたしは学校へ妹と弟は幼稚園へ行き、お母さんが一人で後片付けをする。そのあとお母さんは掃除、洗濯、買い物をこなしていた。それが少し前からお父さんは会社へ行かなくなった。お父さんが家でぶらぶらしていてもお母さんは決まっていつも朝食を用意した。それで夏休にみなると朝からみんな家に居た。いつもと違うのは、ずっとお父さんが家に居るようになった。でもお母さんはその頃には、いつもと違って厳しくお父さんを責めていた。この頃には会社がおかしくなっていると薄々解ってきた。
いつも朝食後は、妹と弟は居間で遊び、お母さんは食卓の後片付けをする。お父さんも居間に行き、そこで寝転ぶかテレビを見ていた。でもあの日の当日、お父さんはいつもと違って食後は全く喋らなくなった。その日のお父さんは朝食の片付けの終わったダイニングルームで、何もないテーブルの前で長いこと瞑想するように、独り取り残されたように座っていた。お父さんの居るダイニングルームの向こうは台所で、流しには何本かの包丁が納められている。
「すると下村は、ダイニングテーブルからキッチンにある包丁と暫く睨めっこしていたのか?」
ふとした精神状態に陥る原因は深詠子への歪な愛情表現にある。とすればそれを是正出来ないままに形成された家族が今日まで続いていた。とすれば包丁を持って真苗の部屋に押し掛けたその時に、下村は真苗に何を見いだしたのか。それが判れば闇に閉ざされた真相に迫る扉を開ける事が出来る。深詠子はそんな下村に対して、真苗のために家庭を守ることに専念し、下村が家庭に注いでくれた家族愛に気付かないふりをして生きていた。いやだから生きられた。愛に対して潔癖の烈しい深詠子はそんな下村の態度には気付かないふりを貫くことで真苗を育てていた。ある男の為に。
「ウン」
下の子供は二人とも奥の部屋で遊び、お母さんは洗濯か掃除をして、あたしは二階の部屋に居たけど、お父さんだけは食事の終わったダイニングルームにそのまま居た。
「その状態で一階が騒がしくなったのか」
「ウン」
どうも妹と弟が下で逃げ廻っているようなので、まさか節分の鬼退治を此の夏にやるわけない。それにあの時は笑いながら逃げていたが、今日は悲鳴のように聞こえた。これはいつもと違うと、ドアを開けるとお母さんが血だらけでいた。お母さんは、昨日一緒に行ったお店に行きなさいと言われた。理由を聞くまもなく、早く独りで此処から逃げなさい、と仕切りにそれしか言ってくれない。その内に下も静かになって階段から下を見ると、お父さんが包丁を持って上がってきた。ふと見上げたお父さんと見下ろしていたあたしと顔が合った。
「その時はどうだった」
「あたしの目の前で包丁を持ったまま手をだらりと下ろした」
「力が抜けたように包丁を下げたのか、それでその時、向こうはどんな状態だった?」
「わかんない、お母さんから言われたとおり逃げるのに夢中で、お父さんがじっとした一瞬の隙に、体当たりして下まで転げ落ちて動かないお父さんを跨いで急いで逃げた」
「その時に妹と弟がどうなっていたのか確かめたんだね」
「ウン。でもお父さんが包丁を持ったまま起き上がろうとしたから、そのまま玄関から飛び出した」
「そうか……。二階の手前まで顔を上げずに上がって来て、真苗の足元が見えて顔を上げたのだろう。その時だけど、真苗は少しは思い出したか」
「ウン」
「どうだった。いつもと変わらなかったか?」
「それが、いつも見たことない顔してた」
「ウッ? どんな顔だッ」
「それが、いつもあたしには優しい顔するのに、眼があったら何かポカンーとしてた。あんなお父さん初めて」
そうか。その一瞬に下村が思った心の闇に、光を当てれば何かが見えて来そうだ。
「ウ〜ン、それで向こうのお父さんにはもう会いたくないか」
「会えるの?」
「ああ、真苗が望めば出来るが、どうだ」
少し下向いて空になったコップを眺めていた。
「真苗ちゃん、お代わりする?」
「ウン」
可奈子は冷蔵庫から取り出したレモンスカッシュを注いだ。
「啓ちゃん、どうやら難しい質問ね。それであたしも聞きていい?」
可奈子は返事を待たずに隣に座った。
可奈子は真苗のあまり、物怖じしない性格は、深詠子さんから躾けられたと思ってる。
「真苗ちゃんはいつも二階のお母さん、毎日拝んでるわね」
「ウン、それでお母さんが寂しくしないようにしている」
「それでお父さんは?」
「お父さん?」
と真苗は藤波を見た。可奈子は慌てて、直ぐに向こうの家に居たお父さんの事だと言い直した。
「あのお父さんはもういいの」
間を空けずに言って、何事もなくレモンスカッシュを飲んでいる。そうなると益々真苗の考えが解らなくなる。
「どういいの?」
「だって、もう帰って来れないんでしょう?」
真苗はどっちに返事をしていいか解らずにそのまま前を向いて訊ねた。
「まあ、暫くはなあ」
「どれぐらい?」
これで真苗は藤波に顔を寄せた。
「早くて真苗が中学生になる頃か、下手するともっと先かも知れん」
「どうして、わかんないの?」
「それをこれからどうしてあんなことになったか調べているんだ」
「そうなの?」
「それで真苗は、どうして欲しいんだ。向こうのお父さんとは?」
「ここにおいてもらえるのならどっちでもいい」
そうか、それは深詠子の影響なんだろう。これで気兼ねなく下村の心境に迫れる。
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