2-3.結局は他人ですよね
昇る日がやけに眩しく、いらいらする朝。
ニオは一人、欠けた鏡を見ながら
下は黒い
「髪はどうにもならない、と」
白と黒がグラデーションになっている短髪、そして金色の瞳は、今のところ隠しようがない。カラーコンタクトや染め粉があればいいのだが、相棒の家に行くのに金を出すのは惜しかった。
相棒である
娼館である
「にに、わたしは行きますから、留守番をお願いします」
声をかけても、猫からの返事はない。白米に冷や汁をかけた朝食を出してしまい、すっかり機嫌を損ねてしまった。
嘆息し、ショルダーバッグを肩に鍵を持って外に出る。
こんな場所に来るものも少ないだろうが、戸締まりはきちんとしておきたい。最低限の服や食料もあるためだ。
(いろんな場所に分けているけど。食料も服も)
頼りない、今時カードキーでも生体認証でもない古臭い鍵をかけ、それを鞄のポケットに突っ込む。早足で階段を降りる前、雲一つない朝日に目を細めた。
軽く頭痛がする。片方のこめかみを指の腹で揉み、道なりに歩き出した。
道の左右には、廃ビルが壊れたガラクタのように転がっている。早朝ということもあるのだろう、人影はない。廃品漁りを生業にするものも、今の時間はとっととねぐらに戻っているはずだ。
二十分ほどまっすぐ歩けば、ようやくみやびが運営する停留所が見えた。周囲の風景も、ビルから和風、あるいは中華風の家屋の群れへと変わっている。
ちょうどバス――という名のワゴン車だ――が来ていたため、駆け足で乗りこんだ。
助手席後ろに腰かけて、ニオはのんびり走る車の窓から外を見た。少しずつ、少しずつ朝日が昇り、陽射しがありありと『
碁盤の目状になっているこの街は、大きく四つに分けられていた。東側二つは『
バスの始発はみやびの自治区で、それぞれの区画の外側をぐるりと走る。中には入らない。賢明な判断だ。かといって、必ずしも事件に巻きこまれない保証はないが。
バスがどういう構造で動いているか、ニオには興味がなかった。
整備もされていない地面を走るたび、大きな揺れが全身を襲う。バス停に止まるつど乗客が増え、ニオが降りるときには、数人の子どもがワゴンのルーフに乗っかってすらいた。
子どもたちと目を合わせず、ニオは料金を支払い、さっさと立ち去る。やかましい声のかけ声はいつも同じだ。「何かくれ」という言葉、それに類する
平坦な心のまま、
建ち並ぶ家屋、
木の扉を数度、叩く。
「わたしです、開けて下さい」
返答はない。もう一度叩いた。返答は、ない。
もしかしたら、昨日もさやかの元に行ったのかもしれない、と思った。だとすると半日、彼は
電話や端末など、昔の世俗的なものは一般的に流通していない。半導体を作るのに手間がかかる上、電気料金もまた、今の世では庶民には払えないほど高額だった。みやびが統括しているラジオ局も、ごくたまにしか放送を流さない。
(今から
仏頂面のまま、悩む。
飛脚など手紙を運ぶものは一応いるが、急を要する場合、自ら向かった方が早い。飛行能力を持つ《
「……ここを蹴り飛ばして中で待つとか」
物騒な言葉を漏らした直後だ。
がたっ、と家の奥で物音がした。うつむかせていた顔を上げれば、次の瞬間、扉が開く。
「いたんですね」
「なんの用だ」
「ここじゃちょっと。中、入れて下さい」
「いやだ」
「なんですかそれ。子どもじゃあるまいし。何に怒ってるんですか?」
彼は長いため息をつき、金髪を無造作に掻く。扉を開けたまま、
「お邪魔します」
彼にならって中へ入った刹那、肉の焼ける香ばしい匂いがニオの鼻腔をくすぐる。
入口すぐ近くにある厨房で、
「食事の準備してたんですね」
「用件、言えよ」
「だから、何に怒ってるんですか。寝起きですか? それとも二日酔い?」
「別に怒ってない」
嘘だな、とニオは思った。あからさまに刺々しい態度で、かつ声も鋼のように硬い。
「もしかして、さやかさんのことですか」
言えば、灰色の瞳で睨まれた。図星だ、と感じた。
すぐに視線は逸れたが、覚えた直感を口にする。
「さやかさん、他に客が入ったとか?」
「うるさい」
「美味しそうですね、それ」
「黙れ」
何を言っても無駄なようだ。それでも平然と、自然とこみ上げてくる唾を飲みこみ、近くにある
「勝手に座るな」
「ですから、ちょっと用事がありまして」
「立って話せ」
「少しはわたしをねぎらう気持ち、ありません?」
「知るか」
どうやら彼の機嫌は最高に悪いらしい。
ニオは
「あなたに相談があるんです」
「食料なら分けない」
「それも問題の一つなんですけど、ってそうじゃなくて」
言いながら、部屋を見渡した。意外と綺麗だ。洗濯物もきちんと干されているし、脱ぎ捨てられているのは靴くらいだった。ゴミもちゃんとまとめられている。
変なところで器用、かつ几帳面な相棒に感心しつつ、再度口を開いた。
「
食事に夢中なのか、
「最近出ている殺し屋の噂を探れ、と。謝礼は出るようですが、これ以上、
彼は相変わらず、自分を無視している。
「そもそもわたしたちが危ない橋を渡っている以上、突っぱねられればよかったんですけど。下手に拒絶したら」
「機嫌を損ねることが怖かったか」
ニオはかぶりを振り、自分でもまとまらない思考を吐き出すように言葉を紡いだ。
「そうじゃなくてですね。困るでしょう、あなたもわたしも。
「お前さ」
はじめて茶器と箸がぶつかる音が、止む。しかし彼は動かない。振り向きもしない。
「いいように使われてることが怖いんだろ。
「……」
「お前の問題と俺の問題を、一緒くたにするのはやめろ。飯がまずくなる」
先程とは逆に図星を突かれて、ニオは無意識に片眉をつり上げた。
だが、
「もしわたしが
それらの怯えを表に出さないまま、また彼の背中を見る。穴が開くほど。
「あなたはどうやって生きていきますか」
「俺にはさやかがいる」
わかりきった答えが、なぜか自分の苛立ちを加速させた。
「あなたはさやかさんに、自分が《
「だから?」
「納得させられますか。人殺しをしていたこと」
直後、箸が飛んできた。首の動きだけでかわしたが。
こちらを見る
「出てけ」
虫けらを見るような視線と、顔。
いいな、と場違いにもニオは感じた。
さやかがとても羨ましい。これほどまで誰かから大事に思われている彼女が。
「また仕事が入ったら、連絡します」
憧憬も苛立ちも、おくびにも出さず椅子から立ち上がる。
扉を開け、するりと家から出た。
返事などない。見送りもない。
そう、と一人でつぶやく。
「他人ですよね、わたしたちは」
喉が無性に渇いて、ひりついた。そのままふらつくように歩き出す。
乾いているのはきっと、喉だけじゃない――とうそぶいて、空を見た。
いつもは喜べる陽射しの眩しさにやはりいらいらし、どうしようもなかった。
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