2-3.結局は他人ですよね

 昇る日がやけに眩しく、いらいらする朝。


 ニオは一人、欠けた鏡を見ながら長袍チャンパオに着替えていた。牡丹ぼたんの紋様が入った白い長袍チャンパオだ。とはいえとりたてて華美なものではない。純白のきらめきは失われている上、ほつれたところを何度も縫った痕跡がある。


 下は黒い褲子クウズ、カッターシューズはそのまま。背中や尻部分に穴が開いていないか何度も確認して、ドレッサーへ布を下ろした。


「髪はどうにもならない、と」


 白と黒がグラデーションになっている短髪、そして金色の瞳は、今のところ隠しようがない。カラーコンタクトや染め粉があればいいのだが、相棒の家に行くのに金を出すのは惜しかった。


 相棒であるれいがセーフティハウスを持っていないことを、ニオは知っている。『中原省なかはらしょう』に近い一軒の家。昔、青嵐組せいらんぐみのチンピラが隠し家として使っていたところを「紳士的に」譲ってもらったと聞いている。


 娼館である美帆メイファンにも行きやすいそこは、彼にとって居心地がいいのだろう。ニオが黒曜こくように拾われたときにはもう、れいはそこで一人暮らしをしていた。


「にに、わたしは行きますから、留守番をお願いします」


 声をかけても、猫からの返事はない。白米に冷や汁をかけた朝食を出してしまい、すっかり機嫌を損ねてしまった。


 嘆息し、ショルダーバッグを肩に鍵を持って外に出る。


 こんな場所に来るものも少ないだろうが、戸締まりはきちんとしておきたい。最低限の服や食料もあるためだ。


(いろんな場所に分けているけど。食料も服も)


 頼りない、今時カードキーでも生体認証でもない古臭い鍵をかけ、それを鞄のポケットに突っ込む。早足で階段を降りる前、雲一つない朝日に目を細めた。


 軽く頭痛がする。片方のこめかみを指の腹で揉み、道なりに歩き出した。


 道の左右には、廃ビルが壊れたガラクタのように転がっている。早朝ということもあるのだろう、人影はない。廃品漁りを生業にするものも、今の時間はとっととねぐらに戻っているはずだ。


 二十分ほどまっすぐ歩けば、ようやくみやびが運営する停留所が見えた。周囲の風景も、ビルから和風、あるいは中華風の家屋の群れへと変わっている。


 ちょうどバス――という名のワゴン車だ――が来ていたため、駆け足で乗りこんだ。人気ひとけはまばら。運転手がちらりと、面倒臭そうな瞳でこちらを見つめたのには気づかないふりをする。


 助手席後ろに腰かけて、ニオはのんびり走る車の窓から外を見た。少しずつ、少しずつ朝日が昇り、陽射しがありありと『俗区ぞくく』の現状を照らし出す。中央にたたずむビル群も、だ。


 碁盤の目状になっているこの街は、大きく四つに分けられていた。東側二つは『天城都あまぎと』が、西側二つは『中原省なかはらしょう』が管轄しており、中央にみやびの自治区が存在している。


 バスの始発はみやびの自治区で、それぞれの区画の外側をぐるりと走る。中には入らない。賢明な判断だ。かといって、必ずしも事件に巻きこまれない保証はないが。


 バスがどういう構造で動いているか、ニオには興味がなかった。神獣シェンショウなどの力を使っているのかもしれないが、原理などどうでもいい。表立って神力しんりきを使えない自分にとって、便利な足であること以外、意義を見出せなかった。


 整備もされていない地面を走るたび、大きな揺れが全身を襲う。バス停に止まるつど乗客が増え、ニオが降りるときには、数人の子どもがワゴンのルーフに乗っかってすらいた。


 子どもたちと目を合わせず、ニオは料金を支払い、さっさと立ち去る。やかましい声のかけ声はいつも同じだ。「何かくれ」という言葉、それに類する台詞セリフ。二年前ならば戸惑い、胸を痛めていたかもしれないが、慣れきってしまった現在、何も思わない。


 平坦な心のまま、清陵門せいりょうもんを背に向かうのは『中原省なかはらしょう』への道だ。もっと進めば、中央に仙月シェンユェ家の邸がある。れいの家に行くには、まっすぐではなく、角を数個曲がらなければならない。


 長袍チャンパオを着ているおかげか、人通りが多い場所でもあまり奇異な目では見られなかった。中には別の意味で、好色めいた視線を送ってきている男もいるが、無視した。


 建ち並ぶ家屋、硬山頂こうざんちょうの屋根は灰色の瓦でできており、色味がほとんどない。風情もない。ニオは首を鳴らし、壁が朽ちかけている一つの家へと進んだ。


 木の扉を数度、叩く。


「わたしです、開けて下さい」


 返答はない。もう一度叩いた。返答は、ない。


 もしかしたら、昨日もさやかの元に行ったのかもしれない、と思った。だとすると半日、彼は美帆メイファンで過ごすだろう。だとすれば無駄足だ。


 電話や端末など、昔の世俗的なものは一般的に流通していない。半導体を作るのに手間がかかる上、電気料金もまた、今の世では庶民には払えないほど高額だった。みやびが統括しているラジオ局も、ごくたまにしか放送を流さない。


(今から美帆メイファンに行く? それともここで待ってるか)


 仏頂面のまま、悩む。


 飛脚など手紙を運ぶものは一応いるが、急を要する場合、自ら向かった方が早い。飛行能力を持つ《偽神ジャンク》に頼むことも可能なのだろうが、あいにく、ニオにその知り合いはいなかった。


「……ここを蹴り飛ばして中で待つとか」


 物騒な言葉を漏らした直後だ。


 がたっ、と家の奥で物音がした。うつむかせていた顔を上げれば、次の瞬間、扉が開く。


 れいが不機嫌極まりない、というおもてをして立っていた。


「いたんですね」

「なんの用だ」

「ここじゃちょっと。中、入れて下さい」

「いやだ」

「なんですかそれ。子どもじゃあるまいし。何に怒ってるんですか?」


 彼は長いため息をつき、金髪を無造作に掻く。扉を開けたまま、れいは中へ入っていった。


「お邪魔します」


 彼にならって中へ入った刹那、肉の焼ける香ばしい匂いがニオの鼻腔をくすぐる。


 入口すぐ近くにある厨房で、れいは中華鍋を振っていた。細切れにされた肉とピーマンが宙に踊っている。


「食事の準備してたんですね」

「用件、言えよ」

「だから、何に怒ってるんですか。寝起きですか? それとも二日酔い?」

「別に怒ってない」


 嘘だな、とニオは思った。あからさまに刺々しい態度で、かつ声も鋼のように硬い。


「もしかして、さやかさんのことですか」


 言えば、灰色の瞳で睨まれた。図星だ、と感じた。


 すぐに視線は逸れたが、覚えた直感を口にする。


「さやかさん、他に客が入ったとか?」

「うるさい」

「美味しそうですね、それ」

「黙れ」


 何を言っても無駄なようだ。それでも平然と、自然とこみ上げてくる唾を飲みこみ、近くにある扶手椅ふしゅいに腰を下ろした。


「勝手に座るな」

「ですから、ちょっと用事がありまして」

「立って話せ」

「少しはわたしをねぎらう気持ち、ありません?」

「知るか」


 どうやら彼の機嫌は最高に悪いらしい。


 れいは吐き捨てるように言い、皿にチンジャオロースを盛りつけ、大股で居間へ食事を持っていく。ニオを無視し、炊きたての白米を器に入れ、椅子に腰かけたのち豪快に食べはじめた。


 ニオは扶手椅ふしゅいに背を預け、相棒の後ろ姿に言葉をぶつける。


「あなたに相談があるんです」

「食料なら分けない」

「それも問題の一つなんですけど、ってそうじゃなくて」


 言いながら、部屋を見渡した。意外と綺麗だ。洗濯物もきちんと干されているし、脱ぎ捨てられているのは靴くらいだった。ゴミもちゃんとまとめられている。


 変なところで器用、かつ几帳面な相棒に感心しつつ、再度口を開いた。


大姐ダージェに頼まれごとをされました」


 食事に夢中なのか、静芳ジンファンのことに腹を立てているのか返事はない。それでもニオは続けた。


「最近出ている殺し屋の噂を探れ、と。謝礼は出るようですが、これ以上、大姐ダージェの方に肩入れするのも危険かなと思いまして」


 彼は相変わらず、自分を無視している。


「そもそもわたしたちが危ない橋を渡っている以上、突っぱねられればよかったんですけど。下手に拒絶したら」

「機嫌を損ねることが怖かったか」


 れいが不意に、言う。


 ニオはかぶりを振り、自分でもまとまらない思考を吐き出すように言葉を紡いだ。


「そうじゃなくてですね。困るでしょう、あなたもわたしも。大姐ダージェと手を組んでしまったら」

「お前さ」


 はじめて茶器と箸がぶつかる音が、止む。しかし彼は動かない。振り向きもしない。


「いいように使われてることが怖いんだろ。大姐ダージェ側へ行くことを止めてほしいんだろ、誰かに」

「……」

「お前の問題と俺の問題を、一緒くたにするのはやめろ。飯がまずくなる」


 先程とは逆に図星を突かれて、ニオは無意識に片眉をつり上げた。


 だが、れいの言葉はもっともだ。止めてほしかった、誰かに。流されている自分が恐ろしいのだ。


「もしわたしが大姐ダージェ側について……あなたとバディを解散することになったら」


 それらの怯えを表に出さないまま、また彼の背中を見る。穴が開くほど。


「あなたはどうやって生きていきますか」

「俺にはさやかがいる」


 わかりきった答えが、なぜか自分の苛立ちを加速させた。


「あなたはさやかさんに、自分が《偽神ジャンク》だって話してないでしょう」

「だから?」

「納得させられますか。人殺しをしていたこと」


 直後、箸が飛んできた。首の動きだけでかわしたが。


 こちらを見るれいの瞳は冷ややかで、人を殺すときのものに似ている、とニオは思う。


「出てけ」


 虫けらを見るような視線と、顔。


 いいな、と場違いにもニオは感じた。


 さやかがとても羨ましい。これほどまで誰かから大事に思われている彼女が。


「また仕事が入ったら、連絡します」


 憧憬も苛立ちも、おくびにも出さず椅子から立ち上がる。


 扉を開け、するりと家から出た。


 返事などない。見送りもない。れいが他者へ優しくないことを、ニオはよく知っている。


 そう、と一人でつぶやく。


「他人ですよね、わたしたちは」


 黒曜こくようというえにしがなければ、結局のところその程度の付き合いなのだ。相方だなんて物言いは、自分たちに当てはまりはしない。


 喉が無性に渇いて、ひりついた。そのままふらつくように歩き出す。


 乾いているのはきっと、喉だけじゃない――とうそぶいて、空を見た。


 いつもは喜べる陽射しの眩しさにやはりいらいらし、どうしようもなかった。

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