Season4
三日月ロック
シャッターを切る。部屋の輪郭が浮かび、消える。
広いだけの空間がそこにあった。経年劣化したタイル、割れたガラス、空き缶や菓子の袋が散乱してるだけで、備品の類は何も置かれていない。
中央棟の1階、2階と探索し終えて、今は3階にいるが、他のフロアとの違いはほとんど感じなかった。間取りはほとんど一緒である。
札幌市南区の廃病院である。10年以上前に閉院し、建物だけが残されていた。
三日月は振り返り、ゆっくりとした足取りで歩き出す。病院の中はいっさいの光源が無かった。窓から射すわずかな月明かりと、懐中電灯の光だけが足下を照らしていた。
風が吹き抜ける。スカートの裾が翻る。授業が終わり次第、着替えもせずにまっすぐにここに来た。
4月とはいえ北海道の夜はまだ肌寒かった。三日月はセーラー服の上に何も羽織っていなかったが、少しも怯むことなく淡々と歩いていた。
図面は、1階から3階まで全て頭に入っていた。デイルームを撮り、ナースステーションを撮り、次は病室を撮りに向かう。
301号室から順に撮影していく。三日月は、僅かな撮り残しも無いようにシャッターを切る。春に買ったばかりのコンパクトデジタルカメラは、容量に十分過ぎる余裕があった。
302号室、303号室と撮影し、次の部屋を撮影しようとして、三日月の手が止まる。図面だと305号室があるはずの場所である。
「304号室……?」
存在しないはずの部屋であった。三日月の心臓が強く鳴る。
室内に懐中電灯を当てる。箱が、そこにあった。Awazon超お急ぎ便。そう書かれていた。
手のひらに汗が滲む。三日月はAwazonプライムに登録していない。つまり、この超お急ぎ便は三日月が注文したものではない。
足下でタイルがぱきりと割れる。三日月の喉がごくりと鳴る。
箱が、ひとりでに開く。
「幽霊みつけた!」
逃げる。必死に逃げる。
本野広臣は懸命に足を動かす。
意味がわからなかった。何故、幽霊である自分の方が逃げているのか。
この病院は、怪奇現象を目当てに来る愚か者が後を絶たなかった。だから、適度に驚かせていた。いつもはそれで追い払えていた。
「待てえええええええええ!」
ところがあの女は、追いかけてくる。目を爛々に輝かせて向かってくる。
女の足は速い。陸上部だろうか。呑気に推測している暇は無かった。本野は足に自信はあったが、女はそれを遥かに凌駕する速度で向かってくる。長い廊下だ。隠れる場所は無い。女の足は少しも緩まない。距離はあっという間に詰まる。追いつかれる。
「幽霊どこだあああああああ!」
女は、本野の背中を貫通して、先に向かって走って行った。どうやら、見えていなかったらしい。見えてるとしか思えないほどの迫力ではあった。
本野の息は荒くなっていた。幽霊でも息が切れるということを、今始めて知った。
本野は304号室に戻ると、Awazon超お急ぎ便の箱からサイコーマートPBのゆずチューハイを取り出す。死んでから随分と時間が経っていたが、Awazon超お急ぎ便は未だに配送をしてくれた。仕組みは、わからない。
チューハイの蓋を開ける。炭酸が抜ける音と共に柚子の香りが広がった。
喉に、炭酸の刺激が通り抜けていく。空に、三日月が浮かんでいた。
窓の下、さっきの女がいた。一緒に来たと思われる男と、何か話していた。
制服からして、札幌赤礼高校の生徒だと思われた。公立の中ではかなりの進学校のはずだ。
「もう来ないでくれよ……」
本野は鮭とばを齧ると、チューハイを口に含んだ。
「伊藤先輩! 幽霊がここに来ませんでした!?」
「来てないなあ、たぶん」
伊藤は、ファインダーを覗いたまま言った。視線の先には札幌の夜景がある。
三日月は息が弾んでいた。
「もう少しで幽霊を捕まえられそうだったんですけど……」
「あ、幽霊いたんだ?」
「図面に無いはずの部屋があってそこにいました! 写真も完璧に撮りましたよ!」
「三日月ちゃん霊感あったっけ?」
「無いですけど、感じました!」
「そうかあ、感じたかあ」
伊藤はシャッターを切る。フラッシュが、あたりの鬱蒼とした風景を一瞬だけ見せる。
「伊藤先輩は何をされてたんですか?」
「うーん……調査……かな?。俺は霊感は無いからさ」
伊藤はクロスを取り出すと、手持ちのカメラを拭いた。三日月のものに比べると、かなり重厚で扱いづらそうに見えた。元々父親が使っていたものを使っているらしい。20年以上も前に発売されたと話していた。その割には新品同様にしか見えなかった。
「調査? UMAのですか?」
「まあそんなとこ。札幌にはアイヌの伝説があってさ。詳しくは明日教えるよ」
伊藤は肩掛けバッグにカメラをしまう。明日は部室で撮影データの扱い方を教えてもらう予定だ。
「ところで、
「芸森方面行くって言ってはいたけど……あの人、部長のくせに勝手に動くから」
芸森こと芸術の森は、広大な敷地に美術館やモニュメントが集中しているエリアである。この廃病院からは自転車なら5分くらいで行ける位置にある。
伊藤はスマートフォンから通話アプリを起動する。画面の光に、うんざりとした顔が照らされる。
「計先輩? いまどこっすか? もうこっちの方は調査し終えましたよ。え? 今どこにいるかわからない? 計先輩の位置情報は……いや、超山の中じゃないっすか! 芸森方面行くって言ってましたよね? 真逆じゃないっすか! なんで東行こうとして西に行くんですか! すぐに迎えに行きますからその場から動かないでくださいよ!」
伊藤はふうと息を吐くと、三日月を見た。
「俺は計先輩を探しに行くけど、三日月ちゃんはどうする? 帰ってもいいけど……」
三日月は勢いよく右手を挙げた。
「私も行きますっ! 山の中は得意なんで!」
「じゃあ、気を付けて付いてきてね。迷子が2人になったら嫌だから」
「そんな子供じゃないんですからー」
「……今まさに高校3年生が迷子になってるんだけどな」
伊藤は懐中電灯のスイッチを押した。照らした先にけもの道が見える。
「あの人が勝手に動かなければ、10分もかからずに着くと思うんだけど」
「クマとかが出ないと良いですね」
少し歩くと、懐中電灯の光に箱が照らされた。Awazon超お急ぎ便。そう書いてある。
開封すると、熊よけスプレーが出現した。三日月と伊藤は顔を見合わす。数秒止まり、互いに苦笑した。
「この辺、熊が出るんでしたっけ?」
「あんまり聞いたことないけど、Awazon超お急ぎ便が出たってことは……でも『一噴きで視力を完全に奪って全身をマヒさせる』らしいから、たぶん大丈夫だよ」
「めちゃめちゃ強力ですね! それなら安心です!」
2人は颯爽と森の中へ入っていく。
木陰から2人の話を聞いていたヒグマが、震えながら真逆へ走って行った。
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