第42話 母の記憶

 ハズルは思わせぶりな発言をした後、あっさりとサロンを出て行った。

 執事が慌てて後を追っていくが、自由気ままに振る舞っている。一介の商人が侯爵家で随分な態度ではある。

 けれど見送った後の部屋に落ちた不気味さが、あの男の底知れない何かを感じさせる。結局、お茶会はすぐにお開きになった。ヴェファたちも気が削がれたらしい。


「リッテ、あの男を知っている?」


 自室に戻ってすぐにシィリンはリッテに尋ねた。

 どこからか様子を探っていたのはわかっていたので、当然のように聞いたけれど、彼は首を横に振った。


「俺は知らない。お嬢の母親はあっちじゃ禁忌だろ。だから、すぐに使いを出した。誰かしら情報を持ってくるさ」


 父の最愛である母は、実家ではその痕跡は一つもない。父が嫌がってシィリンの母に関わりのあるものはすべて撤去してしまったからだ。誰も父の前で、屋敷の中で母の話をしない。

 父の不興を買うことを恐れているからだ。


「ありがとう。侯爵家と一体なんの商売をしているのかも気になるわ。どうせ碌なことではないのでしょうけれど」

「お嬢、顔色が悪い。今は何もできないんだ、少し横になった方がいい」

「うん……そうさせてもらうわ」


 久しぶりに母のことを思い出して、シィリンは青ざめてしまった。

 母のことを割り切ることは一生できないとわかっている。けれど、突然突き付けられると動揺を隠すことは難しい。それほどの傷になっているのだと知っている。


 普段見ないふりをして押し込めているから、きっといつまでも傷口は開いたままなのだろう。だから、こうして突然目の前につきつけられると動揺してしまう。


 自室にある硬い寝台に横になって、目を閉じる。

 サヴェスが使っている寝台はさすがに上等なもので、寝具の寝心地は良かった。朝の目覚めは衝撃だが、あそこで寝るのは少し心惹かれる。

 そんなことをつらつら考えて、シィリンはほほ笑む。


 母はいつも笑っていた。父が母の絵姿なども処分してしまったため、どんな顔をしていたのかは覚えていないけれど、ぼやけた輪郭の女はいつも口角を上げていた。声も覚えていないけれど、シィリンにたくさんの愛を与えてくれた。

 子どものシィリンを愛情深く育ててくれた。とても温かくて、くすぐったい。そんな感情はよく覚えているのだ。

 父の部下たちにこっそりと母のことを聞けば、彼らは色々な話を教えてくれた。シィリンが覚えていないことを、いくつも。それが記憶として刷り込まれている。

 シィリンを寝かしつけて一緒に寝過ごして、父が帰ってきて起こされること。

 庭で遊んでいて、こけそうになったシィリンを助けようと盛大にこけること。

 屋敷の中でかくれんぼをして、迷子になって助け出されること。

 微笑ましくて温かいそんな話を、聞かされるのだ。

 だから、母を思い出すときはいつも微笑みを浮かべているのだろう。


 そしてハズルの下卑た笑みを思い出せば、すぐに悪意と憎悪を感じた。

 彼が母を知っているのは事実だろう。

 けれど、それをシィリンに告げる意図はなんだ。


 曖昧に濁すのは、隠したいことがあるからか。それとも、思わせぶりに告げることで揺さぶりをかけているのか。

 シィリンを攻撃することで、なんの意味がある?


 どれほど考えたところで、結局ハズルと母とのかかわりがわからないことには、答えにはたどり着けないだろう。


 シィリンは固く目を閉じて、ぎゅっと上掛けを握りしめた。

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