第16話 ヴィンセント辺境伯領に伝わる話②

 お姫様の後ろには、黒々とした馬や狼がいるではありませんか。どう見てもその姿は魔物です。

 驚いた母は若者に縋りつきますが、青年は一つも怯えた顔をしていません。


「あの日の恩をお返ししたいと思います。心優しい皆さんが安心して過ごせるよう、領主を打倒してみせましょう」

「何を言っているんだい! 領主様は強い騎士団を持っているんだよ。お姫様の細い手じゃ、剣すら振れやしないだろう。危ないよ!」

「ご心配は無用です」

「怪我をしちまうよ。息子を助けてくれただけで十分だから、よしておきよ!」

「本当にお優しいのですね。なおさら、このままには出来ません」


 優しく微笑んだお姫様は、真っ黒い馬にまたがると、持っていた薔薇の杖を夜空にかざしました。


「剣が振れなくとも、私には魔法があります」

「……魔法?」


 お姫様の周りに赤い光がぽっ、ぽっと点りました。それはまるで花の蕾のような灯です。


「私は薔薇の魔女……この地の光となりましょう」


 お姫様はそう告げると、魔物を従えて領主の屋敷へと向かっていきました。


 それから親子は、領民の家をめぐりました。

 誰もが、死んだと思っていた若者がいることに驚きました。さらに事情を話すと、もしもお姫様が酷いことをされていたなら助けようと、誰ともなく言いました。

 皆、領主様のわがままに限界だったのです。


 人を集め、領主の屋敷にたどり着いたのは東の空が白くなり始めた頃でした。もうすぐ、夜明けです。


 鍬や鎌、農耕具を持った領民は、領主の屋敷を見上げて驚きました。しんと静まり返る大きな屋敷は、すっかり薔薇の蔦に覆われているではありませんか。大きな鉄の門も、とげとげとした蔦に覆われています。


 これはどうしたことか。

 一同がひそひそと不安の声をあげ始めたときです。若者が門に手を伸ばしました。するとどういうことでしょうか。薔薇の蔦は意識を持ったように動き出し、門を開けたではありませんか。


 領民たちが恐る恐る中を進むと、蔦に覆われた屋敷から誰かが出てきました。あのお姫様です。


「皆さん、もう心配ありません」


 凛とした声が響きました。

 そこに朝日が差し込むと、深い赤色のドレスを揺らしたお姫様が「悪い領主は、私が打倒しました」と宣言しました。

 歓声が上がる中、お姫様は薔薇の杖を空に向けて掲げました。


 領主を失った騎士達もこの地からいなくなり、領民たちは、お姫様を新しい領主として迎えて平和な日を手に入れました。


 ◆


 ナイトドレスに着替えた私は、ベッドの上に腰を下ろすと、昼間にカレンと読んだ絵本を膝に置いた。


 最後のページを開き、その挿絵をそっと指でなぞる。

 お姫様と優しい若者が手を取り合う姿が描かれている。薔薇のアーチの下、とても幸せそうな絵の一点で、私の指が止まった。それは、お姫様の胸元にある薔薇の模様。


「……似ているわ」


 もう片手で、そっと自分の胸元を押さえる。

 これが、ヴィンセント辺境伯領で魔女が歓迎される理由。


 だから気にするな。そう言いたいのだろうフェリクス様の笑顔を思い浮かべ、私は胸の奥がきゅっと苦しくなる。

 閉じた絵本を胸に抱き、私はベッドに体を横たえた。

 

 フェリクス様は私の地味なドレスを見て、薔薇が枯れたようだと言っていた。それに、最初に似合うだろうと言ったのは白いドレス。


 絵本に出てきたお姫様の挿絵が脳裏に浮かんだ。もしかしてフェリクス様は、私にこの絵本のお姫様を重ねているのかもしれない。

 この地方の子なら誰もが知っているお話だもの……きっと、そうよ。


 でも私の胸の烙印は、絵本のお姫様のなんかじゃない。もしも領民がその意味を知ったら、フェリクス様の評判を失墜させてしまうわ。


 こんなに良くして下さる方の邪魔だけはしたくない。


 私は、やっぱり静かにすごそう。

 うとうとと瞼を揺らした私は、背中を丸めた。

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