第2話 遭遇

 

 あの夏の悲劇から四年が経過した。

 佑月は相変わらず大学病院に通い、治療を続けている。


 当初予想していたよりも治療には時間がかかっていた。

 主治医の雨宮が言うには、数値的には少しずつ前進しているらしい。

 この治療はゆっくり取り組んでいくものだよ、と何度も説明されているけれど、佑月としてはやっぱり一日でも早く結果が欲しかった。……だって、あと二年足らずで佑月の青春時代は終わってしまう。


 治療を終えて、病院前にあるバス停に向かうと、その日は運悪くと遭遇した。


「……よお」

「もう、なんでいるわけ?」


 佑月は眉を寄せ、唇を尖らせてベンチの端に座った。

 周囲には誰もいない。先にそこに腰掛けていた夏原は手にしていたペットボトルをぐいっと煽る。


「別にお前に会いたくて来てるわけじゃねーし。今日は俺も診察があったの」


 外はサウナのように蒸していて、ミーンミーンと鳴く蝉の声も暑さのせいか弱弱しい。

 夏原に遭遇するのは数か月に一度くらいだ。彼もずっとこの病院に通院しているというから、そういうがあっても仕方ないのかもしれない。……でも。


(神様ってほんと何考えてんのかわかんない)


 もう顔を合わせたくない相手なのに、二度と会うなと言われている相手なのに、どういうわけか夏原との縁はいつまでも切れずに続いている。


「……ねえ、僕も喉が渇いた。オレンジジュースが飲みたいな、夏原おごってよ」

「はあ? 自分で買えよ」


 夏原は盛大に顔をしかめている。しかし彼はベンチを立つと、空になったペットボトルを捨てるついでなのか、すぐそばにあった自販機でオレンジ果汁百パーセントの缶ジュースを買ってくれた。


「ほらよ」とひんやりとした飲み物を手渡されて、佑月の機嫌が少しだけ上昇する。


(ムカつくけど、やっぱこいつって優しいんだよな)


 ありがと、と伝えてから缶ジュースのプルタブを引いた。冷えた温度が美味しくて、半分くらい一気に飲んでしまう。


「そういえばさ。夏原は何でこの病院通ってんの?」

「別に何だっていいだろ。お前には言わねーよ」

「うわー、言い方!」


 今更夏原に興味なんてなかった。

 だけどこうしてジュースを買ってくれたし、お礼に世間話でもしてあげようかと思ったのに、手厳しい塩対応が返ってくる。


(別にいいけどねー)


 佑月から数十センチの距離をあけて、夏原は再び腰を下ろした。両手をベンチについて、暑そうに空を見上げている。

 どこの高校も夏期になると制服は似たり寄ったりになる。半袖の白シャツに灰色のスラックス姿の夏原は、四年前よりも背が伸びている。佑月もあれから五センチほど身長が伸びているが、たぶん夏原はもっと伸びていた。


「ねえ夏原。いま身長何センチあるの」

「ちょうど180」 

「でか。……アルファは体格も良くっていいよねぇ」


 そよ風が吹いて、蒸された空気が流れてくる。甘く深い香りが佑月の鼻先をかすめて、身体の奥がそわそわした。


 ――四年前からほとんど感知できなくなってしまったアルファの匂いだ。

 佑月は鞄からピルケースを取り出して、抑制剤を一粒口に含んだ。オレンジジュースで喉の奥に飲み下す。


 普段はアルファフェロモンに鈍感なのに、夏原がそばにいる時だけこの身体は違う反応をする。この男に会うと、身体がアルファ性を――――番を思い出すのがわかる。身体の奥が疼きだして、本能が夏原を求めるのだ。

 佑月には恋人だっているというのに、オメガの身体は頑なに夏原だけを特別な相手にしたがっている。


「……ねえ夏原」

「ん」

「アルファってさ、簡単に番の解消ができるんでしょう? どうしてしないの?」


 夏原は佑月を一瞥すると、面倒臭そうに口をひらいた。


「解消じゃない、あれは所謂上塗りっつーか、番の遺伝子データを別のオメガで上書きするようなもんなんだよ。……別に今は好きな奴もいないし、学生だしな。噛むなら次は成人してから慎重にやる。今はまだ相手もいないし、タイミングじゃないってだけだ」

「ふうん」


 いいな、とこぼしてしまいそうになった言葉をぎりぎり飲み込んだ。

 ――簡単にあの発情事故をなかったことにできて、いいな。こっちはお前がつけた噛み跡のせいで、いらない苦労ばかりしているというのに。


「水元は? 最近どうなんだよ」

「え、僕? 僕はね、彼氏と順調~」

「あそ。よかったな。……じゃあお幸せに」


 夏原が再びベンチから腰を上げたので、佑月は瞬いた。


「あれ、バス待ってたんじゃなかったの?」

「……このままお前と一緒にいたらやばそうだから、一本遅らすわ。じゃあな」


 この暑さの中、先にバス停で待っていたくせに、夏原はさっさと正面玄関へと向かっていく。

 何がやばそうかなんて、考えずとも佑月も流石にわかる。


 白シャツの背中が自動ドアの向こう側へと消えていって、見えなくなった。周囲に漂っていた甘く深い香りが次第に薄れていく。

 ――もしも夏原に新しい番ができたら、この身体は彼に反応することはなくなるのだろうか。それとも治療が成功しない限りは、永遠にこのままなのか?

 熱風が吹いて、夏原の残り香が完全に掻き消される。佑月は汗をかいたジュース缶を握りしめた。


(ううん、僕だってあんな過去は早く消してやるんだから)


 

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