第9話 願い

 

 学校はしばらく例の事件の話題で持ちきりだった。

 佑月のクラスに在籍しているのはオメガ性と判明してから日の浅い生徒たちばかりなので、事件後、急遽バース教育の時間がつくられた。

 いざというときの身の守り方や、困った時に頼れる公共サービスや施設など、オメガ性として生きていくのに必要な知識を数時間かけて丁寧に教えられた。


 保護者にも注意喚起の連絡がまわったようで、それからしばらくは家の者に送迎されるクラスメイトの姿をよく目にすることになった。


 佑月は失恋の痛みにしばらく落ち込んでいた。

 ジュンとはあれから一度も連絡がつかなかった。彼が知り合いのオメガを片っ端から誘惑し、自らのアルファフェロモンで発情させてから、客に引き渡して対価を得ていたというのはどうやら本当らしい。

 当然、ジュンは高校を退学となり、近いうちに少年院に入るのではないかともっぱらの噂だった。

 

 ――あいつはやめておけ、と忠告してきた夏原のことを佑月は思い出していた。結局彼が「正解」だったのだ。


 ジュンと最後にデートしたあの日。……よくよく思い返すと、もしかしたら佑月も彼の発情香を浴びていたのかもしれなかった。

 不自然に身体を寄せてきて、不思議そうな顔をしていたジュンの様子を思い出す。

 結局あれは何だったのか。考えれば考えるほど、佑月にも魔の手が伸びていたのではないかという疑念を否定できなくなっていく。


(信じたくないけど……やっぱり、僕も危なかったのかな)


 一人きりの自宅で佑月はため息をついた。

 以前よりも広く快適なアパートの一室。背中を後ろに倒せば、家具量販店で購入したブラウンの値引きソファが柔らかく佑月の身体を受け止めた。

 テレビ画面に映し出される男女ふたりをからっぽの感情で眺める。

 今話題になっているアルファとオメガの恋愛ドラマなのに、さっきから内容がちっとも頭に入ってこなかった。


(でも夏原に助けられたなんて……思いたくないし)


 膝を抱えて、ソファの上で丸くなる。

 ……憎むべき噛み跡に、この体質に、もしかしたら自分は救われていたのかもしれない。そんなふうに考えたくはないのに、もしかしたらその可能性こそが真実なのかもしれなくて。

 佑月の胸の中はぐちゃぐちゃだった。憎まなくてはいけない過去に感謝なんてできっこない。佑月の未来を奪ったこの噛み痕に守られたなんて、絶対に認めたくはなかった。


 視線を上げると、画面の中で俳優ふたりが見つめ合っている。キスの気配が漂っていて、挿入歌が盛り上がっていく。

 佑月はリモコンのスイッチを押してテレビ画面を真っ黒にした。ソファの上にリモコンを軽く放る。ため息がまた漏れる。

 あのドラマは運命の番のふたりのラブストーリーだ。……あんな恋がしてみたいと、憧れることがそもそも愚かなんだろうか。


(……ジュンさんのアルファフェロモンを感じてみたかったなんて、やっぱり僕は馬鹿なのかな)


 ぎりり、と唇を噛む。

 利用される寸前だったのかもしれないと理解できても、佑月は我が身の無事を手放しでは喜べなかった。


 ……ジュンのことが好きだった。一目惚れだったし、大好きだった。

 その気持ちが一瞬で消えてなくなるなんてことはない。

 あの日、ジュンの発情香を感じ取ることができなかったのだとしたら、それは佑月にとってはラッキーなことじゃなくて、悲しいことだ。

 オメガなのに、好きな人のフェロモンがわからないなんて。

 愛する人との触れ合いを喜べないなんて…………それはとても悲しくて悔しいことだ。


 ――運命の番。運命のアルファ。

 いつかは自分も出会ってみたかった。もうとっくに出会っている可能性だってあるだろう。

 だけど今の自分にはわからない。誰が運命で、誰がどんな匂いのフェロモンを漂わせているのか、今の佑月にはもうほとんどわからないのだ。


 人生を狂わせたあの発情事故。

 夏原だけが悪いんじゃないことは本当はわかっていた。自分も不注意だったし、互いに運も悪かったのだ。

 だけど佑月は夏原を恨まずにはいられなかった。だってそうじゃないと、自分を保てなかったから。

 ……いつかこの首の噛み跡が消えたら、治療がうまくいったら、あのドラマみたいな恋ができるだろうか。夏原を許せるだろうか。


 この命が尽きるまでには、とびきり幸せな恋がしてみたい。

 ――愛し愛され身体の奥までとろけてしまうような、そんな甘い恋を佑月は夢見ている。




【第二章・END】

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