第2話 初恋①


 引っ越し先となったのは、それまで住んでいた市から車で二時間以上かかる街だった。

 県境を跨げなかったのは妙子の仕事の都合だ。佑月のために、妙子は職場に転勤を申し出てくれたのだ。感謝こそすれ、それ以上の我儘なんて佑月が言えるはずもなかった。


 モデルの件も話はなくなってしまった。

 佑月の退院後、名刺に記載されていたモデル事務所に連絡を入れてくれた妙子によると、うなじに噛み痕があってはモデルは無理だと言われてしまったそうだ。

 希望の光は、あのヒート事故のせいであっけなくついえてしまった。


 それでも佑月の未来は完全に黒く塗りつぶされてしまったわけではなかった。

 佑月の手の中には、まだほんの少しだけ光が残されていることが判明したのだ。


 佑月の身体はあのアルファの生徒――夏原を番だと認識している。だが病院での精密検査の結果、ふたりの番関係は不完全であることがわかったのである。

 互いのバース性がまだ成熟しきっていなかった影響もあってか、佑月の身体はまだわずかながら夏原以外のアルファフェロモンを感知できる状態にあるのだという。


 今はオメガ性の番解消の研究も進んでいて、最先端の治療を受ければ、もしかしたら佑月は将来的にこの番関係を解消できるかもしれないということだった。

 もちろん、まだ研究中の分野なので治療が必ず成功するという保障はない。

 しかし佑月は十代前半とまだ若く、身体に適切な働きかけをすることができれば、今の番関係から解放される可能性は十分にあるだろう、というのが当時の主治医である関の見解だった。


 ――希望があるなら、賭けてみたい。人生をドブに捨てたくない。


 その一心で大学病院への紹介状をもらい、妙子の新たな職場にほど近い場所にアパートを借り、親子二人で新たな生活を始めたのである。


 ヒート事故後は、引っ越しを終えるまで佑月は一度も中学に登校しなかった。

 なので、転校前のクラスの友人たちが何をどこまで知っているのか、突然転校していった佑月をどう思っているのかは一切わからなかった。


 だけど毎年、バース判定検査の結果が出ると、どこの中学校でもアルファやオメガの結果をもらった生徒たちが転校していくものらしいので。

 ……自分もそういう生徒の一人だとみんなに思われているといいな、と佑月は心の中で願っていた。




 駅の改札を出て、せかせかと行き交う人々の間をすり抜けながら、佑月は待ち合わせ相手を探した。

 彼はすぐに見つかった。

 券売機にほど近い壁際に佇み、手元のスマホを見下ろす茶髪の背の高い男。彼が身にまとっている上質な灰色の制服は、県内の秀才たちが集まるという東雲英明学園のものだ。写真集の一ページのように美しい立ち姿に思わずため息が漏れた。


(ふあぁ、かぁっこい~っ)


 すぐにでも駆け寄りたいが、彼の国宝級の美しさは眼球に刻みつけておかないと気が済まない。

 記憶のフィルムに彼の姿を十二分に焼き付け、その後どう声をかけたらいいだろうかと佑月が迷っていると、彼のほうがこちらに気付いてひらひらと手を振ってくれた。


「ジュンさんっ」


 合図をもらった子犬のように彼に駆け寄る。

 弾けんばかりの笑みを浮かべる佑月に、彼も――暮沼ジュンも柔らかく微笑み返してくれる。


「佑月くん、この前ぶり。今日はどこに行こうか?」


 有名俳優によく似た、整った顔だち。色香のある切れ長の目で見つめられると、佑月の心臓は高速で暴れだす。


(くぁ~! イケメンすぎるぅ!)


 たびたび遠のく意識をなんとか保ちながら駅舎を出て、駅前にあるドーナツが主力のファストフード店に二人で向かう。

 ジュンの隣を歩いていると、ときどき甘いムスクの香りが鼻先をかすめる。落ち着きのある低い声はオトナっぽいし、首元や指に嵌められたアクセサリーも抜群にセンスが良くて、全身に隙がない。

 ただ一緒に歩いているだけなのに、佑月の心臓はずっとドキドキが止まらなかった。


 店に入って、それぞれドーナツを選び、空いているテーブルを探して座る。


「あの、ごちそうさまです」


 二人分の支払いを済ませたジュンが、制服のポケットにブランド物の財布を戻す。

 トレーを持った佑月がおずおずと礼を伝えると、ジュンはにこりと笑みをつくった。


「気にしないでよ。今回もこっちに来てもらっちゃってるしさ」


 余裕ある振る舞いにまた心を盗まれる。

 ジュンはアルファ性だ。しかも三つも年上だというのに、佑月に対して偉ぶるどころか、とても紳士的に接してくれる。――こんなにも完璧な相手と出会って、佑月が恋に落ちないわけがなかった。

 

 彼と知り合ったのはつい最近だ。

 街中を歩いていた時、すれ違ったジュンに一目惚れして、佑月のほうから思い切って声をかけたのだ。

 その時のジュンの私服姿があまりに格好良かったので、「ファッションの参考にしたいので、一枚だけ写真を撮らせてもらえませんか?」とダメ元でお願いしたのであ

る。


 自分が少々無鉄砲な性格であることは佑月にも自覚がある。この時も初対面の相手に無茶な頼みをしていることは十分にわかっていた。


 罵倒されたり嘲笑されることも覚悟してのことだったが、しかし意外にもジュンは快く佑月の頼みを叶えてくれたのである。

 しかも、なんと連絡先まで教えてくれたのだ。……佑月が舞い上がらないわけがなかった。

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