第5話 食事

 その日の晩のこと。

 景親かげちかの居室で平伏し、言葉を待っていた桔梗ききょうは緊張のため、背中に痛みさえ覚えていた。


「桔梗」


 名を呼ばれ、肩を震わせる。そろそろと顔を上げると。

 格子の向こうで。

 行燈あんどんの灯に照らされ、景親かげちかは満面の笑みを浮かべていた。


「素晴らしい。ひさしぶりにこんな食事にありつけるとは」


 引き入れた箱膳はこぜんを前にして、彼は喜々としている。


「は……、あ……」


 桔梗は返事とも、緩みとも思えぬ声を上げ、背中を丸める。

 同時に、どっと額に汗が噴き出した。


(あ、あれでよかったの……?)


 いまだに信じられぬ気持ちで、箸をとる景親の姿を見る。


 最早この時刻、行燈なしでは、さすがに見えない。

 部屋の隅では闇がうずくまり、夜の帳が雨戸を越えてさえこの居室に侵入してきている。


 桔梗など、なんだか気味が悪く早々にこの建屋を逃げ出したいぐらいなのだが。

 格子のむこうで景親は嬉しげに飯を持った木椀を手に取り、一口頬張る。


「うまい」


 言うが早いか、彼が箸を伸ばしたのは、にんじんの葉のごま和えだ。口に放り込み、咀嚼すると、感じ入ったように動きを止めた。


「絶品」

 次いで彼が口に放り込んだのは、にんじんの煮物だ。


「……至福」

 目を閉じ、涙を流さんばかりだ。


(……どういうこと……?)


 景親が「うまい、うまい」と箸を進める様を、桔梗は呆然と眺めた。


 初めて景親にまみえ、所望された水を差しだしたあと、桔梗は炊事場にとって返した。


 まずは水がめを洗い、新しい水を井戸から汲んで満たす。


 古くて色も匂いも変わった米は、粥にしたとしても食べる勇気は出ない。一応、判断を仰ぐとして、木椀にどけておく。そうして釜を洗って夕飯用の米を炊いた。


(さて、夕飯の下ごしらえを……)


 煮物と、主菜になるようなものを、と炊事場をいろいろと探ったのだが。


 ない。

 なにもない。


(……どういうこと)

 真っ青になって桔梗は立ち尽くす。


『材料は、城主様から預かっておるし、あの御方の領地からも送られてくる』


 佐平はああ言っていた。

 ならば、どこかあるはずだ。


 食材が。

 ないはずがない。


(でも、ない……)


 野菜籠から出てきたのは、にんじんだけだ。


 しかもいずれもしなびており、葉が青々としげっている。


 貴人がどのような食事をしているのかはよく知らないが、それでもご飯、主菜、副菜に汁椀ぐらいはあるのではないだろうか。祖父と暮らしていたとき、少なくとも桔梗はご飯に漬け物、それから時折焼き魚を食べていたぐらいだ。


(……どうしよう……)


 真っ青になって炊事場や井戸端まで探ってみたが、やはりなにもない。今更何かを買うわけにも行かず、買うにしても金がない。


 桔梗は結局震えながらにんじんの葉をおひたしにし、その身の使えるところで煮物を作ることにした。


 味噌汁など、実は具がない。味噌も、壺に残っていたものを必死でこそげ取って作ったものだ。


「米がかように美味いとは……。炊き方か? 桔梗」


 弾むような声で尋ねられ、うぐ、と息を呑む。


 炊き方も何も。

 多分、この人は、何日も前に炊いた米をずっと食べさせられていた疑惑がある。


 何故なら、門番の武士とかわした会話では、下働きの人間がここ数日出入りしていないのだ。


『三度三度、釜から米をよそって差し出していた。炊き方など知らぬからな』


 けろっと、警備の武士が答えるから絶句する。

 あの米をか、と。


「あの、旦那様……」

「景親と呼べ、と申したろう」


 汁椀に手を伸ばしながら、わずかに首を傾げて見せた。発言を促してくれているのだろう、と桔梗は意を決する。


「しょ、食材が、ないのです」


 真剣な顔でそう言う先で、景親は優美な仕草で味噌汁を飲んだ。


「食材が、ない」


 幾度か喉仏が動いた後、景親が噛んで含める様に言う。

 がくんがくんと桔梗は何度も首を縦に振った。


「村長さまから伺っていたのは、旦那様……ではなく、景親さまの領地や、お殿様から食材が届くのだ、と。それを調理してお出しせよ、と」


 うううむ。語尾を飾るのは、景親の唸り声だ。


「どうなっておるのだろうなぁ」


 まるで他人事だ。

 白米を頬張り、満足げに目を細めているから、桔梗は呆れる。


「米はまだあるのか?」

「ええ、まぁ……」


「ならば、それで構わぬ。白米に塩をつけてもらえば、問題ない」


 こつり、と茶碗を箱膳に戻し、ご馳走様、と頭を下げる景親を、呆気にとられて見つめた。


「……本当に、そのような内容で問題ないのですか?」


 都の貴人と聞いている。いくらなんでも粗食がすぎないだろうか。いや、それ以前に、食材はどうなっているのだ。


 格子の左隅に開けられた窓から、箱膳を押し出そうとしている景親に近づき、尋ねた。


「あの……食材があればいろいろ作りますが」

「なあに。あるものでかまわぬ」


 橙色の灯りに照らされた彼は、穏やかに微笑む。桔梗は戸惑いながらもうなずき、箱膳を両手で引き下げたのだが。


 ふと、臭いに気づいて顔を上げる。


「……景親様。そういえば、洗濯はどうなさっているのですか」


 途端に口をへの字に曲げ、景親の目元が朱に染まる。


「におうか?」


 景親が自分の肩口に鼻を押し付けるから、咄嗟に首を横に振った。


「私は特別鼻が利くので」


 言ってしまってから、これではにおう、と言っているようなものだと焦った。


 怒り出すだろうか、不快だとへそを曲げるか、と身構えたが。

 景親はしょんぼりとした表情で、頭を掻いた。


相済あいすまぬ。この建屋で蟄居ちっきょを命じられてから衣服を変えておらぬでな。申し訳ない」


 ぺこりと頭まで下げるから仰天する。


「とんでもございません! あのっ。私でよければ、お洗濯をしますが!?」

 ひっくり返った声で申し出ると、ほころんだように微笑まれる。


「世話をかけるが、頼めるだろうか。感謝する」

「いえいえいえいえいえいえいえ」


 ぶんぶんと首を横に振り続けると、噴出して笑われた。


「顔は見えぬのに、思っていることは筒抜けだな」


 言われて。

 初めて気づいた。


 はっと両手で頬を包む。

 掌に感じるのは、生成りの生地。

 そうだ。頭巾ずきんのことを今まで一度も尋ねられなかった。


「……あの、これは……」


 どうしよう、顔を見せたほうがいいのだろうか。

 咄嗟に脱ごうとしたが、景親の美貌の前では身体が竦む。


 とても、見せられたものではない。


「よい。なにか事情があるのだろう。わたしとて、桔梗に言えぬことの一つや二つはある」


 だが、景親は鷹揚に言うと、くすり、とからかうように笑った。


「それになんの不便もない。お前の声は心地よく、気持ちは素直に伝わるのだから」


 途端に頬に血が上った。

 声が心地よいなど言われたことがない。素直だ、などと笑顔で伝えられたこともなかった。


 恥ずかしいというより、どぎまぎする。こんなとき、なんと返せばよいかわからず、箱膳を掴んで飛び退った。


「で、では……。私はこれで下がらせていただきます」

 襖の側で平伏すると、景親が応じる。


「ああ、そうだな。もう帰宅した方がよい。日が落ちるのが速くなった。気をつけるように」


「失礼します」


 箱膳を抱えて居室を出、襖を閉める。

 ぱたり、と音を立てて視界が遮られた途端。


 ほう、と知らずに息が漏れた。


(……なんか、一気に疲れた気がする……)


 体力的にはなんら問題がないのだが、気疲れしたのだろうか。


 ほかほかとまだぬくもりの冷めない頬のまま、桔梗は暗い廊下を土間まで歩く。

 厨房で簡単に食器を洗い、ざるに伏せると、布巾をかけて今日は終いとした。


 ちらり、と格子のはまった窓を見る。

 もう、半月が天に昇っていた。


 明朝の段取りを考えながら、桔梗は玄関を出て、門扉まで歩く。


「すいません。今日のお仕事はこれで終了とさせていただきます」


 隙間などなく、ぴったりと閉まった門扉に声をかけると、重いかんぬきが開く音がした。


「また明日、来させていただきます」


 ぱちり、と門扉の側でかがり火が爆ぜ、武士たちが驚いた顔で自分を見ていることに気づいた。どうやら昼来た時に会った武士たちではなかったようだ。


「ああ。そういえば……」「顔を……」


 二人の武士は小声でやり取りをしたあと、咳払いをした。


 やはり、桔梗の風体ふうていをいぶかしんでのことだったようだが、申し送りはなされていたのだろう。


 若い武士はじろじろと無遠慮な視線を向けてきたが、年かさの武士は目じりを緩ませて身体をかわしてくれた。


「ご苦労であった。出るがいい」

「ありがとうございます」


 ぺこりと頭を下げて通り抜けざま、ふと声をかけてみようと思ったのは、年かさの武士の目が優しかったからに他ならない。


「あの。教えて頂きたいのですが」


 案の定、年かさの武士はわずかに首を傾げて促した。


「景親様の食材や衣類はいつ届くのでしょうか。村長様からは、領内やお殿様から差し入れられる、とおっしゃっていましたが」


 言うや否や、ぷ、と小さく噴きだしたのは若い武士の方だ。


 年かさの武士に目で制され、背を向けるようにして顔を隠すが、肩が揺れている。


(……どういうこと?)


 戸惑っていると、咳払いの音がした。視線を向けると、年かさの武士が自分をじっと見ている。


「建屋内にまだ米はあるのか?」

「……ありますが……」


「ならば、当座はそれを使用するように」

「ですが」


 他にはなにもないのだ、と言いつのろうとしたが。


「食材や衣類。必要なものは、一旦村長の家に入れられる。そこから必要とあらば届けられるだろう。それまでは、建屋内にあるものを使用するように」


 断固とした口調で武士は言い、桔梗は仕方なく頭を下げた。


「承知しました」

 深くお辞儀をすると、うむ、と穏やかな声が頭上を通り過ぎる。


「気を付けて帰るがいい」

 年かさの武士の声に押され、桔梗は家路をたどった。


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