⑥-5 不穏な予兆①

「義兄様、おはようございます」

「ティトーが誤解してびっくりするから、それはやめてくれ」

「あら。そんなことはありませんわ。ティトーちゃんは賢いですもの」


 サーシャはそういうとティトーとレオポルトが顔を洗いに行った川辺を見つめた。その眼差しは優しく、悲しげである。


「どうした。ティトーに何かあるのか」

「そうですわね。何もない訳がない、と云う事は義兄様がよくご存じでは?」


 霊峰ケーニヒスベルクから暖かな心地の良い風が立ち込め、ある意味で不穏な、不可思議さを誘っていた。




 一方、川辺ではティトーが顔を洗い終えた所だった。川の流れは穏やかであり、初夏ともいえる緩やかな流れだが、レオポルトの過保護さは過熱していた。


「ティトー、それ以上行くと川に落ちる」

「わわ、ごめんなさい。顔洗ってると、バランス崩れちゃうね」

「洗い終わったら、俺が変わるから、少し待っていて欲しい」

「うん、待つよ。お兄さま」

「……その」


 レオポルトは躊躇いながら言い淀むと、ティトーが安全な位置に座ったことを確かめて顔を洗った。タオルを受け取ると一瞬表情を強張らせた。


「どうしたのですか、お兄さま?」

「いや。なんでも……その、お兄ちゃんでいい。様なんて、仰々しいだろう。無理をするな」

「でも、お兄さまは王子さまだから」


 またしても表情を曇らせたレオポルトは、急にそっぽを向き、屈んだ。突然のことに、ティトーはあたふたと兄へ向かう。


「あんまり好きじゃないのですか。王子さまって」

「…………ああ、それはな。俺はもう、ルゼリアでの地位はな」


 レオポルトはティトーを手で静止させると、そのまま遠ざけるように手を振るった。


「お、おにいさ……。じゃなくて、どうしたのですか」

「………………ゴホッ」


 一瞬だけ咳払いしたかと思うと、立て続けに咽始めた。そのまま体勢を崩し、地面に手をつく。


「おにいちゃん! …………ああ」


 レオポルトの手には赤い鮮血が垂れており、口は赤く染まっている。その光景に圧倒され、ティトーの顔まで青白く血の気が引いていく。


「ゴハッ…………いいから、騒ぐな」

「お兄ちゃん!」

「すまない、すぐに、納まる」


 ティトーはレオポルトの背をさすりながら、半泣きで兄を見つめていた。レオポルトは深呼吸をすると、青ざめた顔を上げた。髪は白髪に戻り、その顔色の悪さは素の青白い肌をより酷く見せてしまう。


 レオポルトは鮮血を川で洗い流すと、ティトーの持ったタオルを受け取った。タオルに鮮血はない。


「お兄ちゃん……」

「あいつ等には、特に、アルには黙っていてくれ」

「で、でも…………」

。心配するな」


 レオポルトはティトーの頭を優しく撫でると、手を伸ばした。ティトーは躊躇したものの、すぐに手を受け取ると、ギュッと手を繋いだ。ティトーの手は震え、それは嫌でも兄へ伝わっていく。


「大丈夫だ」


 説得力のない言葉に涙を流す弟を、兄は優しく抱き留めると、優しき弟の震えは収まっていった。


「お医者様に」

「身分がバレてしまう」

「おくすりは」

「もう何年もこうだ。だから」


 レオポルトは抱き留めた弟を強く抱き寄せると、耳元で優しく囁いた。


「早く、真相を突き止めなければならないのだ。わかるな」


 優しき弟は頷くこともせず、ただただ兄の胸を濡らすことしか出来なかった。

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