第27話 その頃アースサイドでは

 まるで断崖絶壁から、滝壺に飛び込んだようなものだった。

 圧倒的な水量の濁流に呑まれ、絶えず体の上下左右が入れ替わり、息もできない。紙くずのように翻弄され続ける。


(殺される)


 全身が砕けるがごとき痛みに気が遠くなるが、そこで意識を手放したら一瞬で命が終わるのはわかっていた。

 死ぬのは嫌だ。

 まだ終わるわけにはいかない。

 ダダには使命と呼べるものがあった。そのためにあらゆるものを壊し爆破してきた。魔王復活の悲願も果たせず、同志は敵に捕らわれ、故郷に帰ることも叶わず終わるなんて認めない。


(生きろ)


 絶対に生きろ──。

 閉じた目の奥に、一点の光が浮かんだ。そうだあれだ。意味を感じ取るよりも前に、ただ必死にそちらへ手をのばした。

 そして次の瞬間、ダダ・ドバエクの視界に入ったのは、奇妙な高層建築の谷間に建つ木造二階建ての家と、こじんまりとした池と植栽の庭である。


「…………は?」


 肩で荒い息をしながら、まばたきを繰り返す。

 やはり幻ではない。ダダは庭の一角にある、古井戸の上にいた。井戸の中が淡く発光しており、ダダはその光に押し出されている形だった。

 恐る恐る、井戸から地面に降りる。力に任せて引きちぎった手かせの鎖が、じゃらりと鳴った。


(どこだ、ここは……)


 後ろから魔法で攻撃された時、とっさに目の前にできた壁の穴に飛び込んだことは覚えている。地下の穴掘りが得意なドワーフたちが、総力をあげて作った『大迷宮』だ。

 あそこは迷宮自体が空間を歪める装置であり、中心部にある『額縁』は異世界を含めたあらゆる場所に繋がっているという話は聞いたことがあった。

 うまくすればあの場を逃れて、別の場所に出ることができるかと思ったのだが──。


(違うな)


 ダダは己に見栄を張るのはやめた。そんなことを考えている余裕などなかった。ただ逃げられればなんでもよかったのだ。

 あらためて辺りを見回す。本当に遠い所に出てしまったようで、現在地がまったくわからなかった。

 手がかりとしてはユヨクで捕まった時より、ひどく気温が高く蒸し暑い。北国生まれのダダには、不快すぎる温度と湿度だ。じっとしていても内側に熱がこもって、関節の間から汗が噴き出そうである。


(とにかく、いつまでもここにいるのはまずい。追っ手が来るかもしれない)


 ダダはまだ残っていた腰縄をほどくと、垂れてくる汗をぬぐいながら、建物の裏手へ回った。


(──まずい!)


 人間がいた。

 疲弊していたとはいえ、ダダは自分のうかつさを呪った。

 いたのは、女だ。建物の勝手口にあたる場所に物干し台があり、そこで現地人らしい女が洗濯物を干していた。シーツを竿にかけて皺を伸ばす格好のまま、囚人服を着たダダを見て驚きに目を丸くしている。

 頭の中で素早く計算する。ここで騒がれると厄介だった。

 どうする。殺すか──迷える時間は短く、ダダは口封じをする方向で拳を強く固めた。


「ガガボさん……?」


 しかし女は、ダダを穴が空くほど凝視しながら、まったく別の名前を言った。


「ガガボ・ゴルドバさん……ですよね。合ってますよね、すみません。なんか前よりワイルドな格好されてるから、一瞬自信なくなっちゃって。お久しぶりです」


 ダダは困惑した。いったいこの女は、誰と誰を混同しているのだ。

 こちらが知っているガガボ・ゴルドバと言えば、魔王軍の士官でも人類種族との和解に応じた裏切り者だ。戦後の今は魔族の穏健派がメリアカンに差し出した紅姫、エンリギーニの守り役をしているはずである。

 しかし何よりあれと自分の顔は、まったくと言っていいほど似ていない。仮に似ていると言い張るなら、オーガならみな一緒ぐらいの乱暴さがある。


「言い訳ですけどランズエンドの方って、こっち以上に種族の幅が広いから、人類種族以外の方はなかなか覚えられないんですよね……伊吹に色々教えてもらってるんですけど難しくて」


 そういうものなのか。それにしたって限度がないかと、この状況ですら一瞬思ってしまった。

 言われてみればなるほど、全体に丸い顔に、馬の尾を付けたような髪型も相まって、どことなく間が抜けた相をしている。


「今日はどうされたんですか。エンリちゃんがうちに来るとか? ごめんなさい、なんにも聞いてなくて。伊吹も今会社なんですよ」


 しかし読めてきた。この目が節穴な現地人の女のおかげで、なんとなく事態がのみ込めた気がした。

 恐らくここは、ランズエンドではなく界を異にした別世界だ。次元を歪める『大迷宮』の壁から出たせいで、異界の井戸に流れ着いてしまったに違いない。

 そしてこの女はガガボ・ゴルドバや、紅姫エンリギーニと面識がある。

 さらに『イブキ』というキーワードを、親しげに呼ぶ関係。

 これらの事情を総合して考えると、『イブキ』は人類種族が召喚した、にっくきあの勇者のことだ。女は勇者の配偶者か、それに近い身分だろう。この貧相な家は、異界における勇者のセーフティハウスと考えればつじつまが合う。


 ──これは、使える。


 ダダは内心、興奮に震えた。殺すしかないと思った目の前の女を含めて、うまく使えば最強の交渉カードになるだろう。


「申し訳ない、行き違いがあったようだ」


 こちらも何事もなかったように、全力で女の話に乗ることにした。


「紅姫殿下の行幸について、勇者……イブキ殿と打ち合わせをする予定だったのです」

「そうだったんですか。それは伊吹もひどいですね」

「そのうち彼も来るでしょう。待たせてもらっても構わないだろうか」

「ええ、もちろん! どうぞ中でお待ちください」


 女はダダを、表玄関へ回るよう促した。

 まだ終わりではないのだ。一方的だった魔王バラベスの封印と軍の解体を撤回させ、人類種族がダダたちから奪ったありとあらゆるものを取り返す。そのための闘いは、今この瞬間からこそが本番なのだ。

 女の後について歩いていると、ふと視線を感じて背後を振り仰いだ。

 死角に入りがちな上空から、小バエのような魔物が一匹、飛びながらこちらの様子を窺っていた。


(ガーゴイルだな)


 覗き見と魔除けの使い魔だ。恐らく『MKL』のエージェントが、偵察によこしたのだろう。

 せいぜいこの状況をよく見て、先方に伝えるといいと思った。こちらはいつでも女を殺せる距離にいて、さらに外部の目が届かない建物の中に入ろうとしていると。

 玄関の引き戸を閉める時、ダダはあえて上空の魔物の目を見てやった。臆病な使い魔は哀れなほど慌てふためき、一度隣の建物の植栽に落ちかけてから、よろよろと飛んでいった。

 無様にもほどがあった。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る