第15話 結婚と自由恋愛

「うぅ……大旦那さまに怒られた……武さま客人に使い走りさせるなって」

「あ~上女中かみじょちゅうの誰かが告げ口したんだ。災難だったねくるみちゃん」


 町中の銭湯。

 くるみはぶくぶくと湯船に沈んだ。

 同じく湯に浸かりに来た下女仲間のタマが、くるみを慰めてくれる。誰に聞かれるとも分からないお屋敷では愚痴も吐けなくて、肩が凝る。そうでなくても、たけるからのちょっかいは止まなくて、張り詰めた身体はなかなかほぐれなかった。


「まあ裏山へのごみ捨てを代わってもらうわけにはいかないもんね。裏山の彼との逢引あいびき、まだ続いてるんだ?」


 タマが猫目をさらににんまり細める。おおやけにはできない男と裏山でひそかな逢引してると思い込んでいるので(だいたい合っているのだが)くるみには同情的だった。そんなタマも来月には嫁入りでいなくなる。本当はもっと早く辞めるはずが、たけるの居候が決まったため、ひと月だけ退職を伸ばしてもらったのだ。


「でもさあ、実際どうなの? たけるさん、将来有望だし、めかけは作らないって公言してるし、紳士だし、悪くないと思うよ?」

「えぇやめてくださいよ〜タマさんまで」

「そうかなあ。くるみちゃんだって結婚を考えてないわけないでしょ?」


 結婚。嫁入り。年頃の娘であるなら、もちろん頭をよぎらないことはないけれど、今のくるみには心を占めることがある。


「やっぱり、裏山の彼が気になるんだ」


 あっさりと心の内を見透かされて、くるみは口をつぐんだ。今日の別れ際の寂しそうなあくたの眼差しが浮かぶ。くるみを引き留めたくてたまらないのに、あくたは言葉を飲み込んだ。それが手に取るように分かるから、余計に胸がつまる想いがした。あくたの寂しがりや欲張りは、深い孤独の裏返し。それでも、最近は以前より落ち着いて、ささいなことで本当に楽しそうに笑うようになったのに。


「……気になります。たけるさまのこととか、どうでもいいくらいには」


 ぶくぶくとくるみはまた湯船に沈む。素直に気持ちを吐露すると、タマは肩をすくめた。


「気持ちは分かるけど、結婚と恋愛は違うよ。自由恋愛は憧れるけど、あたしは恋愛小説フィクションで充分。だって先がないもの」


 いや、恋愛的な意味では、とくるみは慌てたが、じゃあどういう意味なのだろうと自分で気づいて押し黙る。芥のこと、どういう意味で気になってるのだろう。タマはそんなくるみを横目に見た。


「くるみちゃんって、田舎からその身ひとつで飛び出してきたんだってね。純朴そうに見えて意外と大胆で無鉄砲。全然タイプは違うのに、そういうところが美乃里みのりお嬢様も気に入ったのかな」


 なんの話か分からず、くるみは首を傾げた。タマは銭湯の洗い場ではしゃぐ母子ははこに視線を移した。


「お嬢様がさ、あたしのこと下女じゃなくて料理人として雇いなおしたいって言ってくれたの。異人さんを理解するには食事も大切だから、これからは和食だけじゃなくて、いろんな國の料理を作れる人間が欲しいって。……嫁入りする以外の道も考えてくれないかってお願いされちゃった」

「えっ……それはすごく素敵ですね。タマさんの腕だったら、きっとうまくいくと思います。私もタマさんの洋食、食べてみたいなあ」


 くるみは純粋に目を輝かせたが、タマはあっさり笑った。


「断ったよ。すごく悩んだけど」


 そうして、すぐ笑みを引っ込めて真面目に続けた。


「あたしはさあ、くるみちゃんのように無鉄砲にも、お嬢様のように大胆にもなれない。人と違う生き方をして、もし失敗して〝それみたことか〟って周りに指差されるなんて怖くてできないんだ」


 文明開化を迎え、進学する女性や職業婦人が生まれた一方。女性は家に仕えるものという考え方は根強い。自分の能力や才能で食っていくなんて、一部の人間に限られている。だからこそ、美乃里の申し出はまたとない機会チャンスだとくるみは思ったけれど、タマは首を振った。


「お嬢様があれだけのびのびと異国のモノへ憧れることができるのは、理解あるご両親がいたからだよ。あたしの両親も嫁入り先の両親も、古い人間だからね」


 タマの気持ちも分かるだけにくるみは押し黙った。くるみだって美乃里と出会わねば、何も考えず誰かに嫁入りしていたに違いない。けれど、〝新しいモノはそれだけでいろんな選択肢を与えてくれる〟と語った美乃里の理想は、間違っているは思えなくて──タマにも美乃里の気持ちはそれは伝わっているようで、柔らかく目を細めた。


「いいお嫁さんになるとか、いい母親になるとか、そういう理由じゃなくて、ただあたし自身の腕を認めてくださったのは、本当にうれしかった。お嬢様の言う通り、料理人として生きていけたら、どんなに楽しいだろうね」


 だったら、とくるみは口をついて引き止めたくなってしまったが、タマは朗らかに笑った。なんの迷いもない笑顔だった。


「でも、同じくらい、あたし、結婚をして──自分の子どもを抱いてみたいんだ。それもお嬢様には、古臭いって言われちゃうのかな?」


 やっぱり、くるみは何も言えなくなり、「そんなことないです」と静かに答えた。自分で考えて自分で決めたこと。それが今までの慣習となにも変わらなくても、タマの横顔は美乃里と同じように芯のある女性に見えた。



***


(結婚かあ……)


 翌日になっても、くるみはぼんやりと考え込んでいた。昨夜のタマの結婚に対する思いが真摯だっただけに、あえて考えないようにしていた自分が恥ずかしくなったのだ。


(私もいつか結婚して、このお屋敷を出ていくのかな。……芥を置いて)


 ずきりとくるみの胸が痛んだ。芥のこと、どう思っているか。よく分からない。一緒にいて楽しいと思うし、寂しがりな芥が楽しそうにしているとくるみの気持ちも晴れやかになる。もっと、喜ばせたいとも思う。けれど、芥はあやかしであり、人間ではない。当たり前の事実を思う。どちらにしても、このままの状態が長く続くわけがないのだ。


(先がないのに会いに行くのは不誠実かな……でも、芥がずっとひとりぼっちなのは嫌だ。どうしたらいいんだろう……)


 くるみはため息をつきながら、豊穣邸ほうじょうていの一階の和室。武が居候している部屋に赴く。洗濯物を渡しにきたのだが、武は外出しているようだ。こっそり安堵して、留守のうちに置いておこうとふすまを開けた途端、ぶわりと突風が吹いた。小窓の障子戸が開いている。文机の上の鉛筆やらノートの切れ端やらが、風に煽られて散乱していた。くるみは慌てて障子戸を閉めて、洗濯物を置き、散らばった文具を片付けた。積み上げられら教材や辞書は難しい漢字や異国の文字が並んでいた。その中には巷で話題の恋愛小説もあった。


(武さま、几帳面だって聞いたのに、窓閉め忘れたのかな?)


 勝手に私物に触るのは気が引けたが仕方がない。本をそろえていると突然、ごろん、と重みのある丸い鉄が滑り出た。目新しい持ち物の中で、それだけは古びた蔵から飛び出してきたような異質さがある。


(なんだろ、これ? 刀のつば?)


 円形の鉄の塊。菊花の文様があしらわれたつばは、古めかしいながら格式高さを感じる。そっと触れると指先にすすがついた。学生寮が火事にあったと聞いたから、武が燃え後から拾ってきたのか。ずっしりとした重さがある。


「なにしてるんだ!!」

「えっ……!?」


 突如、背後から怒鳴られてくるみは飛び上がった。和室の入り口で武が睨みつけていた。その視線の強さに、身震いし。


「君、なにか触った?」

「えっ、ちが、その」


 何故か、刀の鍔のことは言えなくて、洗濯物の下に滑り込ませる。とっさにくるみは積み上げられた恋愛小説を指差した。


「れっ、恋愛小説! 恋愛小説が気になったんです! 窓が開いてて、紙や鉛筆が散らばってたから! 勝手に片づけてすみません!!」

「恋愛小説……?」


 ほら、とくるみが手に取る。有名な文豪が綴った巷で流行りの恋愛もの。武は怪訝な表情を、ふ、と緩ませた。


「なんだ、言ってくれれば貸したのに。他でもないくるみさんのお願いとあれば」


 いつもの調子に戻った。今回ばかりは、くるみはほっと息をついた。


「なにがいい? 異国が舞台の小説もあるし、女性が書いた小説もあるよ」

「え、ええと。実はよく知らなくて。おすすめを教えていただけると……」


 自分で言いだした手前、いつものようにさっさと退散するわけにいかなくて、くるみは数冊適当にパラパラめくった。女中の仲間内で何回か耳にした小説もある。武はさっそく解説しだした。


「〝恋愛〟も翻訳語のひとつでね。異国のロマン主義の影響で、個性や自我を尊重する文学が流行りなんだ。〝恋愛小説〟もそのひとつさ。男女の仲といえば結婚や存続に直結する今までのこの國の在り方とは違う。個人の幸せを追求する物語。ふしだらだって怒る年寄りもいるけど、俺はそうは思わない。恋愛はもっと自由であるべきだ」


 武が意味ありげに目配せしたので、くるみは明後日のほうを向き、曖昧な笑みを浮かべた。けれど、〝結婚に直結しない恋愛〟には少し興味を惹かれた。「ただ、でもまあ」と武は付け加えた。


「たいていは悲恋で終わるけれどね」


 その一言で、くるみは表情を暗くさせた。


「やっぱり、家のためとか子どものためとか、そういう結末に行きつかない関係ってダメなんですかね」


 芥のことが頭をよぎったあと──異人さんを想い続けた祖母の小さな背中を思い出した。


「そうかな? 俺はいいと思うけど」


 武はあっさりと否定する。


「身分も、家柄も、生い立ちも、人種も、関係なく。ただありのままのその人を想う気持ち。そういう感情はあっても当然だろ。たとえその恋がなにも生まなくても。結実しなくても。──結婚に繋がらなくても。どうしようもなく惹かれることはある。それを異国では恋愛loveと呼ぶんだって」

「……いいんですか? そういう関係でも」


 くるみは顔をあげて、武を見つめた。


「いい悪いというより、そういう考え方もあるってだけだよ。選ぶのは〝自由〟さ。これからの時代は、自分自身で、なにが大切か、決める時代になるだろうから」


 最後の言葉だけは、武は少し苦々しい口調で目を伏せていたが、くるみは目が覚める思いで聞いていた。後先を考えない恋もあると。そういう感情を、気持ちを、言葉として、文学として。ちゃんと存在することが、うれしかった。

 くるみはその恋愛小説をぎゅ、と抱きしめ。


「あの、この本、お借りしてもいいですか?」


 にっこりと微笑んだ。武は少し驚いたように目を瞬いた後、「もちろん」と微笑みかえした。


 

 ──わずかに開いた障子戸の外で、音もなくカラスが飛び立つ。羽根を巻き散らかして、逃げるように裏山へ芥は帰った。薄暗い雑木林の中、変化を解いて、人型に戻ると、両腕で自分を抱くように身を抱えた。


(だれ、あいつ。あんな奴、お屋敷にいなかった。くるみはなんで楽しそうに笑っているの)


 くるみだって、芥と会えなくなって寂しそうにしていたはずなのに、なんだか裏切られた気持ちになる。我慢しているのは自分だけなのかと。胸の中で、どろりと黒い感情が渦を巻いた。


「……大丈夫。くるみは約束を破ったりしない──僕を置き去りにはしない」


 声に出して、確認してみたけれど、あまりに頼りない響きに、余計胸苦しくなった。


「……いやだ。くるみをとらないで。とらないでよ」


 言わねばよかった。この裏山から出ることができないだなんて。

 くるみが会いにこなければ、芥は追うことすらできない。彼女はどこにでも行けるのに。役立たずの黒い翼は、どこにも飛べない。


「くるみ、はやく、ぼくのものになって。はやく、はやく」


 そうすれば、この飢えも乾きも。胸の穴も。全部埋まる気がするから。


「食べちゃいたい──だめ、それは」


 鋭く伸びる鉤爪かぎづめで顔を覆った。指の隙間から、琥珀色こはくいろの鈍い光がぞろりと光る。


「ちゃんと我慢するから我慢我慢我慢、するから」


 最後にこぼれた声は、幼い少年の悲鳴のようだった。


「僕を、置いていかないで」

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