第17話 王女の覚悟①
顔面をじりじりと炎に炙られるような灼けつく痛みが覆い始める。
やめて おねがい やめて やめて
恐怖に涙が零れそうになる。目を閉じることも赦されないのに。
その時、視界の端から深い藍色の髪が滑り込んできた。
「ルーヴェ!」
髪を掴む兄の手に子供の手がかかる。力が緩み、灼けつく痛みがさっと引いた。
「そんなにひっぱったらエルがはげちゃう!」
エルと兄の間に体を割り込ませて引き離したのは、小さなルヴィだった。エルよりもずっと小さな体で、背の高い王太子を両手で押しのける。
「……はげちゃう?」
兄が驚いたように呟いてから、あの怖い微笑みを崩し、ふふっと楽し気に笑った。
「そうだよ、そんな風にしたらエルが痛いじゃないか!」
その時、回廊の窓から声がかかった。
「なにをしているのかな?」
ヒトがいたことに初めて気が付いた。
それから、ルヴィはエルの手を引いて駆け出した。二人は収蔵庫を抜けて、侍女の迎えに来ている教室に戻ったのだった。
火事の騒ぎが起こったのは、そのすぐ後、侍女と一緒に馬車に乗り込もうとしていたときだ。異変に気付いた侍女が咄嗟にルヴィのことも中に引っ張り込み、急いで馬車を出した。お陰で巻き込まれることなく、王宮に帰り着くことができた。
だが、エルは怖かった。とても怖かった。
回廊で声を掛けてくれたカルゴーダ館長――兄の前でエルがそこにいることを認めてくれた――が亡くなったこと。二人で駆け抜けた収蔵庫が燃えた――ランプの灯は消えていたのに――らしいこと。確かにあの場所で会ったはずの兄が「湖に舟を出して秘密の恋人と逢瀬を楽しんでいた」――兄がそんなことを殊更ヒトに話し、エルにまで伝わるなんて――と言っていたこと。
あの日のことをエルに尋ねる者はいなかった。ルヴィとも話題にはしなかった。もし話題にしてしまったら、一緒に兄を見てしまったことの危うさに小さなルヴィを巻き込んでしまう。兄がいなかったと言ったなら、そこにはいなかったのが正しいのだから。エルが何も言わなければ、誰もルヴィに尋ねはしない。
「3階の読書室が炎上したのは、カルゴーダ館長が研究のために密かに持ち込んでいた、竜の岩が暴発したためと言われています」
ロウエルガの静かで穏やかなのに容赦のない声がエルを現実から逃がさなかった。
「あの強力な結界を破れるほどの強い力が魔法ではないとすれば、確かに竜の岩くらいしかない。そこで、竜の岩をどうやって持ち出したのかを調べるため、白と黒、両方の辺境騎士団領へ調査へ向かいました」
何故そんな調査を。きっと誰も、そんなことをしようとは思わなかっただろうに。
「ところがどんなに調べても、竜の岩は持ち出されておらず、カルゴーダ館長が竜の岩を研究していた痕跡すら見つからなかった。そうなると、残るは『魔法』しかない。誰もが否定した、あの結界より強い力の『魔法』しか」
2年がかりで調べたのだろうか。そしてもう、答えを持っているのか。
「王都の『魔法』を使える者を調べました。もちろん、我が甥のウイのことも。しかし、王立図書館へ行くことができ、尚且つ強力な結界を破れるほどの魔法の使い手はいなかった。ただ一人を除いては」
「兄は……っ」
耐え切れずに思わず口走っていた。
「あ、兄は湖で秘密の恋人との逢瀬を楽しまれていたのです」
「秘密の恋人は大勢見つかりました。ですが、誰も湖には同行できなかった」
「……見つからない恋人がいるのです。秘密ですもの」
「ええ、そうかもしれません。ですが。うちのルヴィが、王立図書館であなたと一緒に王太子殿下に会っています」
ルヴィ……どうして!! エルはすっと体中の血液が凍りつくのを感じた。どうして話してしまったの? 小さなルヴィ、お兄様がどんなにあの子に寛容でも、これだけはきっと赦してはくれない……!
「ルヴィは間違えたのです! 今よりもずっと小さかったのですもの、別の日と勘違いしたのだわ!! そんなはず無いもの! お兄様は湖に……ッ」
「いいえ、ルル殿下。ルヴィが俺に、『ルーヴェを諫めてもいいか』と尋ねたのは、間違いなく2年前の救世の女神ホノの生誕祭の翌日、火事の起こった日の夜です」
「……え…?」
「王立図書館の不審な火事に王太子殿下の関与があると考えたのは、あの日ルヴィにそう尋ねられたからです」
――――諫める
その言葉が、諫める者ヤト家の口から発せられる意味を王女ルル・エルクルイラは知っている。
「ルヴィは図書館で何があったかは話さなかった。ただ、『ルーヴェはエルに間違ったことをした』とだけ言いました。そして、それを見たのは自分だけだから、ヤト家である自分が諫めなければならないのだと」
「ロウ様は………だから2年もかけて……今までずっと、お調べに……?」
「はい。あの火事の原因が王太子殿下にあるのなら、王太子殿下があなたに『間違ったことをした』のなら、我々ヤト家は、それを見過ごすことはできない」
「……駄目です。そんなことをしては駄目です」
「何故ですか?」
「いくらヤト家でも、お兄様をお諫めするなんてできません。お兄様は決してお赦しにならない……ルヴィが………ロウ様だって……消え……」
その先を言葉にすることはできない。言葉は口の中で音にならずに消えた。
「ルル殿下、俺がお聞きしたいのは、あなたの覚悟だ」
「……か、くご……」
「ヤト家が動くならば、決して間違いは犯せない。あなたは、あの日、王立図書館で王太子殿下を見かけましたか? 湖にいたと言う王太子殿下を」
エルはもう一度、同じことを言おうとして口を開きかけ、ロウエルガの琥珀色の瞳に捕らえられた。ただエルを見つめる、ルヴィと同じ瞳。
『なにをしているのかな?』
不意に耳の奥に穏やかな優しい声が蘇った。
驚いた様子だったのは振り向かなくても分かった。エルを気にかけてくれたことも。他の大人のように、エルをいないかのように振る舞うことをしなかった、もう二度と聞くことのできない優しい声。
『僕がここにいる』
そして、ルヴィの声。
まだ、この胸の中に勇気と呼べるものがひとかけらでも残っているのなら。
それを振り絞るのは、―――今だ。
「………ロウ様。あの日、王立図書館で、お兄様に会いました」
涙が零れた。堰を切ったように大粒の涙がぼろぼろと零れた。
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