応援コメント

二人の戦い 一対一で」への応援コメント

  • うううん。難しい話だ。
    若い頃「ケンカなら外でやれ」と言った経験があったような気がするが…シチュエーション忘れた💧

    >「ケンカなら、一対一でやれ」
    たぶん、そのくらいの覚悟をせよ、覚悟できないならやるな、という意味合いだったんじゃないのかな、と勝手に推測します。一対一で堂々と主張できる動機なのかどうか、見世物になってでも譲れない気概なのか、殴るだけでなく同条件で殴られる覚悟はあるのか。あと武器は使用厳禁。
    …それだけの覚悟がないならケンカなんてしちゃだめだよ、的な?
    それでもケンカせずに流すことはできないという主張があるなら、「コブシで語ってみろ」的な?
    (いや知らんけど💧)
    当時としても、いいような悪いような、ですね💧

    >当事者同士の争いに無関係の者が入っていくのを…
    ネットが普及してから顕著になった気がしないでもないですね。匿名でできるせいか。

    作者からの返信

    「ケンカなら外でやれ」

    おおお。あの言葉をミナキ様が……。なんと勇ましい。
    ミナキ様は、ミナキ様は巻き込まれずに無事でしたか?

    覚悟、ときましたか。
    ふふふ。ジョ◯◯ラーの血が騒ぎます。
    『お互い』に覚悟できるのなら、まぁいいよう……ごほんごほん。
    少なくとも、

    「俺は覚悟を決めた。お前も覚悟を決めろ」
    「い、嫌だ」
    「問答無用」
    「わあああ(ぼ、僕は、戦いたくなんかないのにいぃ)」

    決着後。

    「覚悟、お互いにしてましたよ」
    「……(嘘だ)」

    なんてのは、やめてほしいです。
    強者が暴力を振るう絶好の理由になることだけは。

    実力が拮抗したうえでの、双方の覚悟。
    うん。これなら、当時であればいいような悪いような。
    (皆様、時代は変わりました。殴り合いのケンカはやめましょう)

    当事者同士の争いに無関係の者が入っていく。
    ネット……、本当ですねぇ。
    匿名という強気で叩く、か。
    開示請求であったり、少しは整備が進んでいるでしょうか。
    自分の戦う場所は、見極めていきたいものです。

    最後になりますが、『一対一』といえば私は『最終的なアレ5』の彼らを思い出します。
    (ジョ◯◯の覚悟と共に『?』であれば、申し訳ございません)

  • 決闘罪やな。
    とはいえとてもいい先生だと思う。
    『ケンカをするな』という教育…あれは口頭でのケンカさえも抑制してしまい、悪口を共有して徒党を組む。

    口頭の喧嘩は自分の思いを伝え、相手の意見も聞き折り合いをつける練習になるし暴力のケンカは殴られたら痛いという事、殴った手も痛い事を学べる。

    ちなみに私の先生は
    「肉体的欠陥は治るものではないから言ってはいけない」
    ルールだった。

    だからデブ!とかチビ!とかはルール違反だった。

    子ども達がケンカもままならない今は生きづらいだろうなぁと思う。

    ちなみに大人になって通りがかりで小学生男子の殴り合いのケンカを止めに入った事がある。

    かなりの力でビックリした。
    先生って大変だと思った。

    作者からの返信

    決闘罪。
    『先生、決闘罪なんていうものがありましてね』
    心の声として作中に入れようとしたのですが、うまく入れられずにやめました。
    それを見透かしたかのように、このワードを出してくるとは。
    さすがは姉様。
    そして、件の先生に肯定的な意見。
    なるほど。
    抑制した結果、目に見えてのケンカはしなくなっても、水面下で悪い評判が流れて、いじめに近い状態になる可能性はありますね。

    口頭の喧嘩は、悪口ではなくて意見のぶつかり合いなら、それはもう喧嘩じゃあなくて議論でいいんじゃあないかな、と。
    暴力のケンカは、おっしゃっているとおりのはずなのですが……。

    「殴ろうと思ったらさ、殴られた痛みを想像して殴れなくなるだろ?」

    「そんなことあるの?」

    暴力のケンカ経験済みの二人の会話です。
    ケンカも競技と捉えているのか、いろんな人がいるようです。
    一対多や、一対一だとしても大きな戦力差。
    いいケンカがあるとして、そのケンカができるかは難しそうです。

    「肉体的欠陥は治るものではないから言ってはいけない」
     ↑
    これ、大人にも持っていてほしいルールですね。
    ケンカじゃあなくて愚痴だとしても、身体的特徴に触れて貶める人を見ることがありますから。

    子ども達がケンカもままならない〜
     ↑
    今の子ども達のケンカ事情を真には知りませんけれど、上記の抑制云々のように、ネットいじめなどに繋がっているのかもしれません。
    そういうのがなければ、娯楽過多の時代。楽しいとは思いますけれども。いや、選択の苦痛があったりするのだろうか。

    ケンカを止めに。
    いや、よく止めましたよ。
    精神的にも肉体的にも。
    二十歳前後だったかな。小学生(一応高学年ではあったと思う)とドッジボールをする機会があったのですが、普通に負けましたから(笑)ハンデはあった……か?
    身体能力、侮れません。

    先生、大変ですよね。
    殴り合いのケンカを止めるだけでも大変なのに、止め方によっては暴力とされかねない。
    かなりの力の相手であるかもしれないのに、ね。
    暴力を肯定するわけではないですが、状況によっては先生にもう少し寛容であってもいいように思います。

  • 当事者じゃないのに絡んできて勝手に応援する様子、ネットとかフェミニスト界隈でよく見掛けますね。
    面白がっている、流行りに乗っている、自己PR、騒ぎを利用しているなどなど出張って来る理由は色々あると思いますが、大体は自分に何等かのメリットがある時ですよね。
    当人がそれらの声を使って主張するケースもありますし、そうなってくるともうどっちもどっちだなぁと……。

    本当に応援や支援を求めてないなら「いらんから一切関わんな」と言っておけばいいのに、それを言わないということは意識下で関係することを認めている訳ですから、Yくんも優越感じゃないですが、そんなような感覚になっていたのではと推測します……。

    作者からの返信

    おお。
    もも様からフェミニストと言葉を聞くことになろうとは。
    フェミニスト界隈への思いも、聞いてみたいところです。

    当事者じゃあないのに、動く人たち。
    そして、それを期待しているかのような当人もたしかにいますねぇ。

    (行け、フ◯ンネルたち)

    真相は分かりませんけれども。

    Yは、どうでしょう。
    私が到着する前に「うるせえぞ、お前ら」くらい言っていたかもしれませんし、声は聞こえていたものの目の前のケンカが重要で声を無視していたのかもしれません。
    あと、描写不足で申し訳ありませんでしたが、Yの「一対一で戦っていたのに」は教室とかでみんなに言い訳のように言ったのではなくて、たしか私と二人きりの時に語ったことです。
    本当に、望んでいなかったように思いましたけれど、ね。
    まぁ、小学生ですし、もも様のおっしゃる感覚も意識下にはあったのかもです。

  • 成野先生の自伝風創作を一日千秋の思いで待っておりましたぁ。

    さて今回のテーマは〝一対一のケンカとは?〟

    そもそもケンカなんて計画的にやるものじゃないので決まり事の事前確認自体が成り立つのでしょうか。
    ます、レギュレーションが不明です。
    体格や格闘技能の差が何故考慮されないのか?
    理由や始めた方は?
    種々の事柄が疑問です〝なんだその先公は〟と思わざるをえません。

    後、対峙者以外の人物の振る舞い方が非道い件。ですね。

    外野からのケンカ参加者の無軌道さや嗜虐性はまず醜い。
    耽美派な成野先生には耐え難いものがあったと存じます。

    闘争はルールとレギュレーションがあった場合のみギリ認められるものでしょうね。たぶん。

    たとえばボクシングとか昔は私も会場に行き試合観戦などしていました。
    しかし観客側にいることがなんか後ろめたく感じる心情はありました。

    人間は争い好きです。
    人間は群れで生きる動物なので必ず〝ペックオーダ〟めいた心理が発生するのでしょう。
    よく知りませんが。

    それと〝先生というものは学校で強者だった者がなるなんていうけど〟のあたり。

    ちなみに私は教職についたことはないのですが教職資格がありましたので教員になる人たちを割と見たのです。

    その際に思ったことは学校の先生で〝学生時代にクラスの主要な位置にいた〟と見受けられた方は体育や技術の教員の方に居たかな。
    というくらいで、学科の先生方は割と目立たない方が多い印象でした。

    私見ですが〝先生らしさ〟は職業的態度や社会的な役割の振る舞い方を習得された結果なような気がします。

    ともあれ。
    今回も、成野先生の作品、堪能させていただきました。
    ぜひ、また書いてください!

    作者からの返信

    おおぅ。
    木山様。
    突然現れますねぇ。
    さながら疾風のように。
    疾風の木山、か。いや、疾風の喬鳥のほうがいい感じですね。
    ところで、今更ながら喬鳥はなんと読むのでしょうか?
    どこかに書いていたら申し訳ないのですが、次の機会にでも教えていただけたら幸いです。

    話を待っていてくださって、ありがとうございます。
    そして、三ヶ月も更新がなくて申し訳ありませんでした。
    これからはそんなに空かない——、んじゃあないかなぁ。
    自信ないですが(←おい)、頑張ります。

    レギュレーション。
    弱い者いじめになってしまうような差や理由があるケンカは、起こらないものとして考えていたのかもしれませんね。

    「そんな奴、いねぇよなぁ! 私の少年時代にはいなかった」

    というような感じで。
    知らんけど。

    先公。
    若いで片付けられるかは分かりませんが、若さゆえの視野の狭さがあったのでしょう。ご容赦くださいませ。今はきっと——。
    ちなみに、その思想はともかく普通に人気の先生ではあったと思います。
    不人気の先生がいることがめずらしいような子供たちからの人気ですが。

    対峙者以外の人物の振る舞い方が非道い件。
    そうですね。
    ケンカも嫌でしたが、周りの野次のほうがもっと非道く、嫌であったように思います。
    耽美派ではありませんが、当時の私の想いを慮ってくださってありがとうございます。

    闘争はルールとレギュレーションがあった場合のみギリ認められるもの。
    そう思います。
    だからこそ、相撲大会は本気で挑めました。
    でも、そんな闘争と同じような感覚で、ルール無用のケンカができる人がいる。
    なくならない、わけですね。

    先生というものは学校で強者だった者がなるなんていうけど。
    あ、これは『いわれているようだから』とのことでの引用ですね。
    私自身はそんなに強く思っているわけではありません。
    『学校で嫌な思い出しかない人はならないだろう』はありますが、それにしたって『だからこそ、同じ思いをする人がいなくなるように先生になるんだ』という人もいるでしょうからね。

    教職資格。
    なるほど。
    知的な文章にも納得です。

    教員になる人たちにどのような人がいたのか、貴重な情報をありがとうございます。
    私見の〝先生らしさ〟も新たな発見です。

    長くなってしまいました。
    ええ、また書きますとも。

    次はその疾風、とらえてみせます。

  •  こんにちは。お邪魔しております。

     その先生も、一対一だからって力士相手にケンカとか、遥か目上の方とケンカはしないのでは、と思ってみたり(←最早ケンカとは呼べない……)。
     それに、譲れないことがある当事者同士は兎も角、周りがやいのやいの言ってるのを見ているのも、辛くなっちゃいますよね……。

     ケンカではなく、意見交換、互いを尊重する気持ちが大事だと思うのです。

    作者からの返信

    いらっしゃいませ。いつでもどうぞ。

    おおおお。
    右喬くん、読んでくれると思っておりました。
    あのころのように二人して更新(続きや新作)が途絶えていたので、私が更新することでメッセージを届けたつもりです。

    右喬くんの更新も待っているよ、と。

    さて。

    そうですね。小学生同士、力の差がない者同士を前提にした話だとは思います。
    でも、小学生同士でも力の差はありますよね。先生は学生時代に強者だったのかというのは、力が上位の生徒だったために気が付かなかったのかという意味もありました。

    「同じくらいの強さの人とやるように」などと付け足しておけば。

    日間田様への返信コメントでそう書きましたが、私が知らないだけでそのようなことも言っていたのかもしれませんけれど、ね。
    だったら、ケンカはオーケーというわけではないですが。

    周りがやいのやいの。
    はい。
    ケンカ以上に、周りの野次のほうを酷いと思ったような気がします。

    ケンカではなく、意見交換、互いを尊重する気持ちが大事。
    そのとおりだと思います。
    世の中が右喬くんみたいな人ばかりなら、平和であるのですが。
    意見交換、互いを尊重。そのような気持ちで、生きていきたいですね。

  • うーーん。喧嘩ですよね。「一対一で」というのは殴り合いが前提のように聞こえます。教育者なら喧嘩するなと言って欲しいかな。話し合いで解決できると思っているのは日本人だけという人もいますがどうなんでしょう。
    百歩譲って子どもの喧嘩なのだから多少の殴る蹴るがあるとしたら誰もいない原っぱとか川原とかで思う存分やってから仲直りな昭和のヤンキー漫画を期待します。
    先生も一教師ではなく昭和の親父目線としての言葉ならあるあるとか思ってしまいました。

    作者からの返信

    殴り合いが前提ですよね。
    もしかしたら、もっと広い意味だったのかもなんて考えましたが、だとしたら二人の喧嘩後に「こんなの、一対一じゃない」なんて出てこないと思うんですよ。「こういう喧嘩のことを言ったんじゃない」とかになるかと。
    当時でも「殴られた? 当然、やり返したんだろうな」が残る時代でしたから(先生方が言った覚えはないですが)、当の先生の学生時代はそのような思想がもっと強かったのでしょう。そして、先生は若かったです。学生のころの感覚も抜けていなかったのかもしれません。
    この一件で「間違っていたのかもしれない」と思い直し、「喧嘩するな」になった可能性はありますね。少なくとも、もう少し時代が進んだ後にはきっと——。

    話し合いで解決できない人もいる。
    でも、そこで何かの力を使ってしまっては、もっと上の力に叩き潰されてしまう。
    なんて思うのは、少年漫画の読み過ぎでしょうか。
    自らのためにも、話し合いを選んでほしいところです。

    昭和のヤンキー漫画のような展開。
    実力が拮抗していれば、あるいはあり得るのかもですね。

    「やるなぁ、お前」
    「お前もな」

    うん。
    でも、一方的だったら厳しそうです。
    仲直りというより、無理やりな解決に。
    は!
    先生も「同じくらいの強さの人とやるように」などと付け足しておけば——いや。

    昭和の親父目線。
    あるあるですね。
    上記にも似たようなことを書いていますが「やられたらやり返せ」の時代。

    「ただし、一対一でだ。複数でなんて、卑怯な真似はするな」

    本当に、どこかで言っていた父親がいそうだなぁ。

  • こんばんは。
    今と時代が違うって言うのもありますが、「ケンカなら、一対一でやれ」今でしたら絶対に言わないセリフだとは思います。

    んんん、難しい問題ですぐにはパッと思いつかないのですが、一つにケンカはやっぱり嫌だなということが一つですね。

    参考にもなりませんが、自分は高校時代空手をしており、道場とやらにも行っていました。
    ある時、高校を卒業して少ししてから、道場に通いました。
    その時、中学生の大柄な男の子と試合をさせられてぼこぼこにやられて、私は大泣きしながら相手をしたことがあります。その理不尽な力の差に涙が止まらず、悔しさに泣いてこぶしを突き出したことを20年以上たった今でも覚えています。
    確か、その時、19歳か20歳くらいだったと思います。

    屈辱と悔しさ、悲しさで胸が張り裂けそうでした。我を忘れて戦いましたが、手も足も出ずに突き飛ばされました。それを機に道場へは行くのをやめました。

    もし、戦いをするのであれば、ケンカではなく「一対一の戦い」もあったかもしれません。
    しかし、それでも傷となって覚えている。そこに、まわりが手も足も出せずに見ていたのは、なんだったのでしょうね。
    何のための戦いだったのでしょうか。
    成野様が思い出すのは、その意味が分からなかったからかもしれませんね。
    納得できない、何かがあるのかもですね。

    おかしなコメントですみません( ;∀;)
    考えさせられる内容でした。
    ありがとうございました。

    作者からの返信

    お疲れ様です。
    「ケンカなら、一対一でやれ」
    今は、言わないでしょうねぇ。
    「ケンカはしないように」
    でしょうか。いや、当時にしても。

    ケンカ……。思想の違いがあってぶつかるとしたら、やはり話し合ってほしいですね。

    は、春野様が空手を。
    まったくイメージがございませんでした。
    今までの無礼、どうぞ煮るなり焼くなり。

    中学生の大柄な男の子と試合。
    ええぇっ! 空手のことはよく分かりませんが、性差と体格差を考えるとあり得ないように思うのですが。状況からしても春野様の段位が圧倒的に上でもなさそうですし。
    悔しさを感じたことが凄いですよ。理不尽な状況に悲観と絶望しての涙ではないのですから。やはり、春野様は強いお人のようです。

    手も足も出ずに突き飛ばされ。
    中学生男子、手加減を知らなかったのか。
    いや、男女であろうとも手加減は失礼にあたるのか。
    こちらまで痛くなるようなほどに、痛々しい。
    重大な事故に繋がらなかったのは幸いでしょうか。
    ご無事で、本当によかったです。

    まわりが手も足も出せずに見ていた。
    春野様の空手の件であれば、試合を指示したのが先生だからでしょうか。
    その先生が止めない以上、生徒が止めるのは難しいと思います。

    「先生、この組み合わせはおかしいと思います」
    「先生、もう止めてください。怪我をしますよ」

    このような発言も、先生の気質によってはためらわれるところです。
    それでも誰かに——いや、先生が止めるべきだったかと。

    私の件であれば、観戦を楽しんでいたり「気が済むまでやらせてやれ」と放っておいたであろう人たちを除けば、止めたい人たちもいたはずです。
    ただ、体格のいい男子二人(ケンカも強い)です。

    自らが止めに入る。
    「邪魔すんな」
    「わー」(やられる)

    先生を呼びに行く。事が終わったその後。
    「チクったな」
    「ぎゃー」(やられる)

    茶化して書いてしまいましたが、こんな感じでちょっと詰んでいます。
    場所を書いていなかったのですが、校庭だったので「先生が自ら気が付いたことにしてください」とでも言って「報告しに行った奴? いないでしょ。ここは校庭だよ。先生が気が付いたんだって」と知らんぷりすることに考えが及べば動けたのかもしれません。

    実際に動いた人はいた?
    どうだったかは覚えておりませんが、いたような気もします。
    「てめぇ、チクったな、てめぇ」
    こうしたことは、先生に報告せずに当事者たちで解決させろ。
    チクリは大罪。そんな小学生の社会ですね。
    そして、今回の件は男子。男子社会(男子ルール)。
    そう、切り込める人はいたのです。男子社会の枠外、女子が。
    報告が知られたとしても、枠外。枠内であったとしても、女子に手を上げるのもまた大罪。(※ いや、性別関係なく駄目ですよ)
    なので、女子が報告に行っていたような。どうだったか。
    こうして書いているとですが、報告に行った人がいることをすでに知っていたから動かず待っていた人たちもいるかもですね。

    何のための戦い。
    春野様は、さて。
    時を経て、私が春野様の強さを再確認できたなんてのはありますが。
    あの二人は、男の意地とプライドをかけてってやつですかね。

    納得できない何か、か。
    あの時、どう動くのが正解だったのか、でしょうか。
    遅れて現場に来たとはいえ、何かできることがあったのではないか、と。
    ……。
    いや、どうでしょう。
    無事に解決したと、大して気にしていない人間かもしれません。

    私も追記をしながら、いろいろと改めて考えることができました。
    そのきっかけとなるコメント、ありがとうございます。
    長文、失礼いたしました。


  • 編集済

    ふたりだけの対決なら場所を選ばなくちゃ!
    対決肯定派? わからんけどそんなことがあってもええんやないかな。
    ただし怪我せん程度に。

    追記
    言いようによっては心が深く傷つくこともあるやもしれん。
    喧嘩はやめたいね。でも澱のように残ることもあるし。人ってムズカシ。 

    作者からの返信

    双方が納得していても、決闘罪というものがありますからね。
    そこは場所を選んでうまくや——ごほんごほん。

    私はその先生が担任のクラスではありませんでしたので、発言の真意には理解が及んでいないのかもしれません。
    物理的なケンカはよくありませんが、お互いがお互いを理解するための、口喧嘩(議論)であればありでしょうから。
    その延長上で物理的なケンカも——いや、理解よりも憎悪が生まれる気がしますが。うーん?

    話し合いましょう。
    (物理的な怪我はないぞ)

    追記、確認いたしました。
    意見をしっかりと言いつつも、優しくありたいものですね。
    難しく辛いこともありますが、楽しく生きていきましょう。

    編集済