真相からの始まり 2
近づいてくるその手は、夢の中で喉を斬り裂いたのと同じ動作だった。
「――いや……っ!」
痛みを思い出し、咄嗟に顔を覆った。
蘇った恐怖に、体が震える。
ハッ、と短いため息のような、笑い声のようなものが聞こえた。
「あのときお前は、右手で首を押さえた。なのに、左手も血に濡れていた。理由はこれだ」
烈牙が過去を思い出しながら、胡桃の体を操った。
短刀はなかったけれど、爪で皮膚を切り裂いた――
怖いと思った。
それ以上に、悲しかった。
胡桃にとっては「怖い夢」でしかないけれど、烈牙にとってはそれこそが現実だったのだから。
「まったく自覚がなかったとはいえ、お前を傷つけてた。これから先、また同じことが起きないとは限らねぇ」
だから出て行くというのか。
あてもなく、ただ辛い想いを抱えたまま彷徨い続けると。
「でもそれは、自我がなかった頃だから――今はもう、大丈夫よ」
「どうかな。悪霊っているだろ。おれだっていつ、そうなるかわからねぇ」
「だから、大丈夫。これからちゃんと、術のお勉強するから」
今までよりももっと、ずっと真剣に。
は? と問い返してくる怪訝顔に、にっこり笑って見せた。
「もし、万が一烈くんが暴走したって、あたしがちゃんと調伏してあげる。誰かに迷惑かける前に、あたしが止めてあげる。だから――」
「バーカ。それじゃお前に迷惑かけるのは変わらねぇだろ」
わかんねぇ女だな。ひとこと呟いて、苦笑する。
そして、とても霊体とは思えないくらいリアルに、よっと声をかけてベッドから腰を上げた。
このまま、去るつもりだ。
思った瞬間、覚悟を決めた。
五大明王の名と、転法輪印――真言。
意図に気づかないはずもなく、烈牙はまともに顔色を変えた。
「バカお前、金縛呪って――!」
最後の九字を切った刹那、空気がびりびりと震えた。
全身を襲う圧力を、気力でねじ伏せる。一度実感したから、要領はわかっていた。失敗はないはずだ。
否、仮に失敗してもいいと思っていた。そうしたらきっと、烈牙が術の暴走を止めてくれる。
烈牙が、胡桃を見捨てて逃げることは、絶対にない。
「捕まえちゃった」
立ち上がり、伸ばした手で烈牙の腕を掴む。
「烈くん、自分勝手よ。あたしの気持ち、まったく考えてない」
「お前の気持ち?」
「烈くんがこのままいなくなったら、ずーっと心配しちゃうもの。ちゃんと成仏できたかな、どっかで悲しんでないかなって」
「ンなの、お前が気にすることじゃねぇ。おれのことなんかさっさと忘れて――」
「忘れられるわけないでしょ!」
胡桃にしては珍しく、声を荒げる。瞬間、物理的ではない「力」が強まった。
烈牙の眉が歪むのを見て、いけない、と調節する。決して、彼を苦しめたいわけではない。
「伊達に取り憑かれてたわけじゃないもん。すっかり感情移入しちゃってる。とても他人とは思えないし、そうだ、烈くん、責任取ってよ!」
「責任?」
「だってあたし、烈くんのせいで力、開花させちゃったんでしょ?」
「そりゃあきっかけだったろうとは思うが……でもな、お前くらい強けりゃ、遅かれ早かれ覚醒したんじゃねぇか?」
「だったらそもそも、なぁんにも気に病む必要ないよ!」
言い訳じみた発言に、言質を取ったとばかりに畳みかける。
「烈くんのせいじゃなかった。だとすればあたしがただ、なんとかしなきゃいけない問題だったってこと。でもあたしはまだまだ、一人前じゃない。烈くん、そんなあたしを見捨てて行っちゃうの? あたしのことなんか、どうでもいい?」
「ばか、ンなはず――」
「あたしは烈くん好きだよ」
我慢できなかった涙が、頬を伝うのを感じていた。
「大好きだよ、烈くん。迷惑かけられたなんて、全然思ってない。だからここにいて――心配なんか、させないで」
またぽろりと、涙が溢れた。
まっすぐに胡桃を見つめ返す烈牙の、複雑な表情が見える。戸惑いと驚愕、そしてわずかに喜色が浮いていると見えたのは、願望だろうか。
「――へっ」
やがて視線をそらし、俯いた横顔が笑声を洩らす。気まずそうに胡桃を見て、小さく笑った。
「だから言ったろ。おれの顔見たら、お前が惚れちまうってさ」
照れ隠しのための、冗談だった。わかるから、くすりと笑ってそうだねと応える。
俯き、溢れた涙を拭ったとき、ふわりと抱きしめられた。
「――ありがと、な」
耳元で囁きかけてくる声に、涙の成分があった。
泣き顔、見られたくないのかな。微笑ましく思いながら、そっと烈牙の背中に手を回す。
不思議だった。
霊体でも温かい。生きている人間と、変わらなかった。
「けど、脅しながらの告白って、お前どんだけ……」
くっくっと喉を鳴らしながら、烈牙がやんわりと身を離す。見つめてくれる眼差しが温かくて、胡桃も微笑み返した。
「術を解いてくれ、胡桃」
「いや!」
少し首を傾げて笑う烈牙に、反射的に返す。
伝わったと思っていた。烈牙の気持ちも理解できたと思っていたのに、自惚れに過ぎなかったのか。
「頼むぜ、ほんと」
ぎゅっと縋りつくと、苦笑された。
「この、術に捕まってるっての、けっこう痛いんだぜ? もう逃げたりしねぇからさ」
「え、ごめん!」
痛い、の単語に、術を解くのと同時に手を離したのは、無意識だった。
そのあとでようやく、逃げないと約束してくれたことに気づく。
「じゃあ、ここに?」
「おう。お前の言う通り、役に立つ可能性もある。他人とは思えないのも、おれも一緒だ。波長が似てるってことは感性も似てる。まさかとは思うが、おれ達の二の轍を踏まねぇように、見張っといてやるよ」
鼻の頭を指先でカリカリ掻くのは、照れているからか。
言葉を聞く限りでは、大丈夫に思う。
けれど不安に駆られて、重ねて問いかけた。
「えっと、あたしが素敵な人と幸せになるまではずっと、いてくれるってこと?」
「いやぁ、それは約束できねぇな」
だったらあえてそのような人を探さない、というのも手だ。
小賢しく考えたのが伝わってしまったか、烈牙の返事は曖昧だった。
けれど、ニッと刻まれたいたずらな笑顔に、暗さはない。
「だって、それよりも先におれが成仏するかもしれねぇだろ」
胡桃が幸せになるのが先か、烈牙が成仏するのが先か。
前向きな競争は、たとえどちらが勝っても負けても、嬉しいことに変わりない。
「――つぅわけだ。悪ぃな、月龍」
うんうんと、喜びに幾度も首肯していた胡桃から顔を背け、烈牙が苦く笑った。
え、と視線を追った先に、すっと月龍の姿が浮かび上がる。
しかつめらしい顔つきだけれど、気まずそうな雰囲気が漂っていた。
思わず、ムッとしてしまう。
「ずっと、隠れて見てたの?」
「いや――」
「おれが待たせてたんだ」
狼狽える月龍に代わり、烈牙が肩を竦める。
「さっきまでのおれかよ。月龍ってだけで拒絶反応しやがって」
ガリガリと頭を掻く困惑の仕草より、言葉の方が気にかかった。かたんと首を傾げる。
「待たせてたって?」
「こんな変則的に会ったのも運命だと思ってよ。一緒にいりゃ、またなんか動きがあるかもしれねぇし。旅は道連れってな」
なるほど、二人は「またな」と言い交わしていた。あれは「いずれ会うそのときに」ではなく、本当に「またあとで」との意味だったのか。
それを受けて、うーんと悩む。
「二人っきりでいたかった? もしかしてあたし、ラブラブの邪魔しちゃったのかな」
「語弊のある言い方すんな。気色悪い」
ぶるりと大仰に身を震わせて、続けた。
「胡桃の言うことも一理あるし、なにより約束したから。おれはここにいる。だから――」
「わかっている」
眉間にしわを寄せた表情ながらも、月龍にもう、狂気は見えない。静かな笑みを滲ませた唇が、ゆっくりと開かれた。
「今度は本当の――別れだな」
はぁぁぁぁぁ。
ひとりで出て行く。
覚悟のひとことだったのはわかる。
わかるけれど、烈牙と胡桃のため息が、盛大に重なった。
「お前、こいつのことわかってねぇよな」
「ホント」
首を振り振り、呆れる烈牙に、胡桃も腰に手を当てて同意した。
「一人も二人も一緒。月龍と烈くん、二人まとめて面倒見てあげる」
あえて偉そうに言ったのは、きっと彼らはその方が罪悪感を覚えずにすむはずだから。
烈牙はすっかり慣れているからくっくっと笑っているが、月龍は「えっ、いや……」などとまだ戸惑った様子である。
もう決まったことだと示すために、追い打ちをかけた。
「あ、でも月龍はずっとお部屋に一緒って言うのはちょっと。遠からず近からずってとこにいてほしいな?」
部屋にうろうろしてる浮遊霊と変わらないとはいえ、悠哉とよく似た顔を四六時中見ているのは落ち着かない。着替えなども、平気でできるとは思えなかった。
月龍が一瞬、傷ついた顔をした気もするが、気づかなかったふりをする。
現れたときと同様、すっと姿がかき消えた。けれど気配は近くにあるので、もう慌てることはない。
「蓮もお前くらいサバサバしてりゃ、あいつともうまくいったかもな」
くすりと笑った烈牙の気配が、姿と共に薄くなる。
「れ、烈くん?」
(ここにいる)
月龍が姿を消すのとは違う感じに、わずかに焦りが生じるもすぐに納得した。
月龍は外にいる。だが烈牙は中にいる。だから気配が一瞬、途絶えたように感じられたのだ。
ほっと息を吐いて、おかしくなった。
(取り憑かれてるのを自覚して安心するっているのも、おかしなお話)
(違いねぇな)
感想に、ははっと笑う声が、いつも通り自分の内から聞こえた。
ふと、視界の端に見えた窓と、外の天気の良さにつられて、窓際へと進む。オレンジ色に輝く夕日が、とても綺麗だった。
窓を開けると、さわさわと心地よい音と感触がある。
一陣の風に、ふわりと髪が舞った。
冥合奇譚 月島 成生 @naruki666
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