第21話「魂の門」




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 ご存知の通り、グンマーとは日本における最後の秘境である。そこに住むグンマー人は独自の言語、文化を持つ脅威の戦闘民族であり、日夜闘争の中にある。永きに渡って交戦状態にあるトッチギーとの関係は修復不可能なほどに悪化し、姿を見れば次の瞬間には襲いかかるほどだ。ちなみに、トッチギー側は特にどうとも思っていない。

 グンマーの不可侵領域には何人も立ち入る事はできない。もし、県境ならぬ国境付近に近付くつもりなら機動隊準拠の重武装と訓練が最低限必要とされ、専門のインストラクター……という名の傭兵かSUMOUレスラーを雇う必要があるほどだ。

 度胸試しで命を失う者もあとを絶たない。もし知人に『グンマーなんて大した事ねーよ、槍しか持ってねーし』などと馬鹿にする者がいたら堅く言い含めて欲しい。一般人には、原始的な武器を持った蛮族が近代兵器相手に戦う姿を想像できないのかもしれないが、その認識は大きな誤りである。彼らにとって銃器の類はむしろ枷であり、槍や弓などの原始的な武器こそが真のポテンシャルを発揮できる得物なのだ。その槍はライオットシールドを貫き、その鋼の肉体は戦車さえ凌駕する。動画サイトにアップロードされているグンマーの実態は決して合成などではないのである。

 決して興味本位で近づいてはいけない。また、稀に出現するグンマーからの転居者も最大限の注意を払わないといけない。文化、風土の違いから、どんな些細な事で怒りを買うか分からない。そう、彼らは人間というカテゴリーに属してはいるものの、本来ならば種族:グンマー人と呼ばれるべき特殊な存在なのだ。


 ……なんて、良くネタにされる群馬県だが、実際のところは普通の県である。住んでいるのは普通の人間だし、県庁が竪穴式住居だったりもしない。近くにある東京や神奈川に比べれば田舎ではあるが、駅前はそれなりに栄えているし原住民が襲ってくる事もない。仮にも首都圏ですぐ近くに東京がある状況にあって、そこまで未開の地でいられるはずもない。というか、どことは言わないが日本全国見渡せば群馬県より田舎な県はある。それくらいは知っている。

 それくらいは知っているのだが、群馬という場所について詳しいわけでもない。前世……少なくとも記憶のある範囲では観光に訪れた記憶もないし、当然住んだ事もない。付き合いのある親戚もいなかったと思う。『群馬? ああ、田舎だよね』という程度の認識だ。

 この山道や風景を見ても当然見覚えはない。暗くて良く見えないが、周りは山ばかりだから赤城山脈のどこかかなと思う程度である。《 魂の門 》の仕組みを考えるに、この舞台も俺の魂とやらで再現されたのだと思うのだが……。


「……まさか、群馬県じゃなく本当にグンマーって事はないよな」


 それだと、いろんな意味でシャレになっていない。群馬県在住の方に怒られてしまう。

 だが、ここが夢のような場所である事、俺がネットで散々ネタにされてきたグンマーを知っているという前提で考えた場合、有り得なくもないと思ってしまうのも確かである。だってロクに知らない分、俺にとっては実際の群馬県よりもグンマーのほうが印象深いのだ。俺の記憶から構築されているなら印象深い方が優先度は高いだろう。俺、群馬の名産すら知らないんだぞ。

 しかしもし、もしも仮にここがマジモンのグンマーだったとする。そうした場合、俺を待ち受けているのは一体なんだ。魂の試練である事を加味するならば、グンマーの戦士たちに勝利しなくてはならないのか。などと頭を過ぎってしまうのも無理はないだろう。まさか、《 原始人 》のパワーアップフラグなのか? これ以上スキルレベル上げたくないぞ。

 ほら、ひょっとしたらあの木の影にはグンマー人がいてこちらを観察しているかも……。


「いやいやいや、冗談じゃない。世界崩壊を回避するための話をしていた直後に、なんでグンマー人と戦うんだよ。意味分かんねえよ」


 ダメだ。余計な事を考えるな。余計な事を考えたら、それが現実になりかねないのが夢って奴なのだ。ここは群馬県、良く知らないけど群馬県だ。アフリカ人っぽいグンマー人たちが闊歩する謎の独立領ではない。ほら、バス停があるって時点で定期的にバスは通ってるはずだし。

 必死である。何が悲しくてこんな事に必死にならないといけないのか。……リリカやエリカも門の向こう側でこんな事になってるとは思わないだろうな。それもこれも、ここが群馬なのがいけないんだ。

 夢なら青少年の夢らしく、エロい妄想を具現化してくれればいいのに。性欲の限界に挑戦するような試練なら喜んで挑戦してやるぞ。必要というなら人類の限界さえ超えてみせるさ。

 しかし、エロい妄想が具現化する様子はない。グンマー人が出てくる様子もないのは助かるが、実に残念である。


 よし、とりあえず山を下りよう。最悪、群馬県を抜けてしまえばアホな事を考えずに済む。

 幸い道はある。それも獣道などではなく、しっかりとしたアスファルトの道路だ。故郷の山で散々鍛え抜かれた俺なら山一つ越える程度は散歩に等しい。冒険者としての身体能力を加味するなら、東京までだって余裕で歩いていけるだろう。

 グンマー人の身体能力ならこんな道は必要としない。むしろ敵に侵攻し易い道を用意するなど愚の骨頂と考えるだろう……ってグンマーはもういい。


「自転車でもあれば楽だったんだがな」


 現在 アイテム・ボックス に入っている乗り物は、数メートルしか移動できないホバーボードだけだ。

 以前訪れた偽物の日本のように無人のバスでも通っていれば楽なんだが、それはないと思われる。似たような状況ではあるが、電灯が灯っていない事から分かるようにインフラは稼働していないようだし、公共機関も動いていないだろう。あそことはルールが異なると考えたほうがいい。コンビニや自販機で補給ができるとも思えない。それを前提にして行動すべきだ。というわけで、一休みしたバス停をあとにする。


 これで歩き始めた先からバスが素通りしていったらお笑いであるが、そんな事もなく時間は過ぎていった。夜だからかもしれないが、やはり交通インフラは死んでいるという事なのだろう。車の音どころか、生活音や虫の音もない。聞こえるのは自分の足音と風の音くらいだ。体内の臓器が奏でる音すら聞こえてきそうなほどの静寂が広がっている。超寂しい。独り言多くなりそう。

 そうして歩き続けても一向に山の麓に着く気配がない。体感的には歩き始めてちょうど三時間程度だが、常人の倍以上の速度で歩いているであろう事を考えると、さすがにおかしい。夜が明ける気配もない。一応、ステータスカードを見たが、ダンジョン・アタック用のタイマーは動いていない。ここはダンジョン扱いではないという事なのだろう。

 まあ、夢のような世界で常識に囚われても仕方がない。これだけ時間が経っても腹が減った感覚すらないのだ。喉も乾かないから、水分補給も必要ない。こうして動かしているのはあくまで精神体。肉体は今もベッドに横たわったままなのだから、おそらく肉体的に死ぬ事はない。

 死ぬとしたら、精神的な死だ。いつでも入り口に戻る事はできるという救済処置はあるにせよ、その判断すらできない状態になってしまったらアウトという事である。リリカとの会話を思い出す限り第一の門ではそんな状況になりそうもないが、一応警戒だけはしておこう。


 足を止める。

 ただ闇雲に移動しようとしても、先には進めない。違うかもしれないが、とりあえずここはそういう場所だと仮定する。なら別のアプローチを試してみる必要があるだろう。

 《 アイテム・ボックス 》は開ける。ここを出た時に中身がどうなるのかは不明だが、アイテムを使う事も可能だろう。もちろん、消費しない本も読める……読めてしまう。まさか、ここで試験勉強をしろと……え、まさかそれが試練じゃないよね。日常でもダンジョンでも夢の中でも勉強なんて、そんな生活は勘弁願いたい。違う、違うって、そんなはずないって。うん。……よし、違うと信じ込んだぞ。


『第一門では肉体の感覚と切り離された上で、抽象的、魔術的に負荷の高い空間に放り込まれ、その中で魔術的なアプローチによって門を探すというのが一般的です』


 エリカが言っていた第一門とは異なる部分も多い……というか共通する部分のほうが少ない状況だが、根本的な部分は変わっていないと思う。負荷が高いとは感じないが、《 魂の門 》の仕組み自体が変わったわけではない。感覚的には普段と変わりないように思えるが、肉体の枷からも解き放たれているはずだ。リリカが言っていた魔術適性を研磨する場というのも間違いではないはずなのだ。魔術的なアプローチというのは良く分からんが、とにかく先に進むにも魔術的な何かが必要と考えるのは極自然である。

 俺は現時点で魔術が使えない。MPはあっても、それを活用するのはせいぜい《 看破 》くらいだ。

 習得するための努力をしていなかったわけではない。魔術の基礎講習にも出席しているし、専門の訓練官に師事したりもしてる。その上で、まだ使えないという事だ。ポンポンスキルを覚えているからといって、魔術も似たような感じで習得できるわけではないという事である。ダダカさんが言うところの、本来HPがMPと同様のものであるという前提を信じるならHP操作だってそうだ。

 これまで魔術に一切触れていない人間がそう簡単に習得できるものではない、というのは聞かされているから、むしろこれくらいが普通。一般的な習得速度なのだろう。

 だが、現在は少し状況……というか環境が違う。

 今の俺は精神体のみで構成された存在。なら、普段ロクに進展のない魔術の訓練……たとえば魔力感知や操作もコツを掴み易いのではないだろうか。第二の門を探すという目的からすれば見当外れの行動という可能性もあるが、そもそもヒントはないし、ここは時間の経過しない場所なのだから色々試してみるべきだろう。関係なくても、コツを掴めれば今後役に立つ技能ではあるしな。

 まずは下準備として、《 アイテム・ボックス 》から眼鏡を取り出す。以前ダダカさんから借りたHPの密度を視覚的に見る事のできる眼鏡だ。デュワッ!


「うおっ!?」


 眼鏡をかけてみると、視界すべてが光っていた。超眩しい。……ああ、そうか。この世界すべてが魔力で構成されているという事か。考えてみれば当たり前である。

 ……周りの風景と自分が区別できないような状況じゃ役に立たないので、諦めて眼鏡を外す。

 さて、いきなり躓いてしまったが、訓練方法は別にもある。眼鏡が使えないのならまず初めに体得すべきは魔力感知だ。周りすべてが魔力で構成されているから、感知するだけなら普段より容易だろう。

 目を瞑る。全身を弛緩させて、魔力を感じるための感覚器官を呼び起こす。それは物理的に存在しているものじゃない。あくまで擬似的に作り上げた第七感覚……小宇宙でも呼び覚ましてしまいそうだが、もっと単純なもの。初めて行う訓練ではない。実にはなっていないが、これまで何度も繰り返してきた方法だ。禅のようだが、無心になる必要はない。ただ、そこにあるものを知覚できればいい。


「…………」


 迷宮都市の冒険者はデビュー前に魔術適性についての検査を受ける。俺とユキに関しては諸事情から少々順序が狂っていたし、冒険者学校の学生たちも時期は違うが、検査自体は例外なく行われる。

 この審査は、簡単に言ってしまえば、どんな系統・属性の魔術が得意で習得し易いかの指標だ。大量にある適性分類ごとに最小で0、最大で100の数値で表され、0の場合は適性なし。逆に100は完全適性といって、その系統に関しては十全に制御する適性を保有、《 魔術適性 》というツリーでLv1のスキルとして表示される。このスキルは少々特殊な扱いで、Lv2以上は存在しないらしい。

 俺は《 魔術適性 》のスキルを保有していない。後天的に変動し辛い適性なので、今後も十全に扱える魔術は存在しないという事になる。

 ただ、適性値100に満たなくても魔術が使えないというわけではない。適性値0の場合はどうしようもないが、1でも適性があればその系統の魔術を習得・使用する事は可能なのである。

 俺の場合、最も適性値が高いものは《 強化 》だ。トカゲのおっさんと同じく、《 フィジカルブースト 》などの身体能力強化を代表とする魔術群に適性があるという事である。というか、適性値50を超えているものはこれしかないという無残な惨状だ。しかも《 付与 》の適性値が低いので、対象にできるのは主に自分のみ。自己強化なら頑張ればなんとか実戦でも使えるようになるだろうという評価をもらっている。

 この適性から考えるに、俺は自分の体内にある魔力のほうが知覚しやすい。まず手始めに感覚を掴むならそこからだろう。

 肉体的な感覚を取り払い、それ以外の存在を探す。世界の魔力の流れを感じ、自らが生み出す魔力と区別する。そうして境界線を引き、知覚し、操る事が魔術を使うための第一歩だ。そう聞いている。ユキのように感覚的に使う事ができる者も多いが、< 魔術士 >と呼ばれる者たちはこれを理解した上で意識的に操作しているのだ。それが魔術士とそれ以外の第一の境界線。


 ……なるほど。これまで何度も繰り返してきて一度も掴めなかった感覚がはっきりと分かる。確かにここは魔術の訓練にうってつけの場所だ。すべてが魔力で構築された魂の世界。ここで魔力を知覚できないようならはっきり才能がないという事。それくらいハードルが下げられている。取っかかりとしては最高の環境だ。

 朧げながら、自分とそれ以外の魔力の違いも感じられる。こうして目を閉じているのに、魔力の色さえ違うように感じられる。

 無色透明な世界の魔力が変換され、色が付く。そうして作られた魔力は自分の一部となる。

 こうして知覚ができたという事は第一段階はクリア。次はこれを操作する。自分の一部とはいえ、物質ではなく触れる事の叶わない、質量のないものを意識だけで操る。


「…………」


 ああ、こうして身近に感じる事ができるようになって初めて実感した。……俺、才能ねーわ。

 何をどうすれば魔術を発動できるかまでは感覚的に理解したが、それを使いこなせる気がしない。不可能とは言わないが、一般的な魔術士と比べても数倍の練習量が必要になるだろう。おそらく、体系化された魔術スキルを使えば発動はできるが、おそらくはそこ止まり。その先にあるものがあまりに遠過ぎる。

 ユキは《 クリア・ハンド 》の制御に魔力を使用している。《 念動具操術 》と呼ばれるスキルツリーではあるが、あれも一種の魔術のようなものだ。あいつは簡単に習得したように見えたし、梃子摺ってはいても無難に制御していたが、こうして理解した事でその難易度を知った。……絶望的なセンスの隔たりがある。

 ディルクの《 情報魔術 》など、理解不能な範疇だ。アレは多分、自分以外が理解できる情報を出力するために何段階に渡って変換を行っている。まともに再現しようとしたら、脳が沸騰するどころでは済まない処理が発生するだろう。

 もっと意味が分からないのはリリカだ。これらの魔術を体系付けられたスキルなしに構築、発動、制御し、かつそれを戦闘用の火力として扱う。加えて、動き回りながら、攻撃を避けながら、最適な距離をとりながら……。次元が違うってレベルじゃない。この《 魂の門 》なんてもっと意味不明だ。そりゃ魔法扱いされる。エリカが超すごい魔法使いと名乗るのも納得だ。

 これを戦闘に使うくらいなら、物理的に殴ったほうが遥かに楽で早い。実際、ほとんどの分野ではそうだろう。レベルを上げて物理で殴れというやつだ。物理反射でもしてこない限り、ボスだって倒せる。

 だが、そういった手順を踏まえてのみ再現できる領域がある。この《 魂の門 》などその最たる例。物理的に再現する事は不可能だ。

 究極まで発展した科学は魔法と見分けがつかないと言われるが、途方もない労力を払えば科学が踏み込めない領域に至る。それが魔術、あるいは魔法と呼ばれるものなのだろう。

 俺はようやくその一端に触れた。




-2-




 目を開く。見える風景は変わらない。相変わらずどこだか分からない山道だ。だが、そこから受ける印象はまるで別物だ。

 剥き出しの魔力だけで構成された世界は不気味なほどに精巧で、美しい。そして、その在り方はどこまでも歪だ。

 究極の造り物。コンピューターとは違うが、人工物の行き着く先にある仮想世界だ。


「っと」


 コケた。感覚の切り替えが上手くできない。肉体的な感覚に移行できていない。ここまで深く入り込むと意識的に感覚を切り替える必要がある。……これはまあ、慣れの問題だろう。多分、この身が精神体である事も関係している。

 これまで散々講習を受け、訓練を行って、理解したつもりになっていた魔術の土台部分……基礎の基礎に触れ、スキルに頼らない本物の魔術士連中が如何に頭がおかしいかを理解した。……あいつら、見えない部分に五十個くらい脳を隠し持っているんじゃないだろうか。

 そんな化け物連中と比べるべくもないが、本当に最低限は理解した。これだけでも《 魂の門 》を潜った意味はある。……今なら使えるスキルオーブだっていくつかはあるかもしれない。


 手に視線を向ける。そこに魔力を集中させる。とてもスムーズとはいえずロスも大きいが、移動できる。

 魔術スキルの方向性を変化させるMP操作の領域には達していないが、HP操作に関してはこれに近いものだと分かった。実戦で使えるような精度ではないが、訓練次第で局所的に壁を厚くする事も可能だろう。

 そのまま手にHPを移動させる。どうしようもなく遅い……が、分厚くはなった。反対側の手で叩いてみると、確かに壁が厚くなったのを感じる。HPを膨大に有する大型モンスターを殴った時の感覚に近い。

 立ち上がり、跳躍。今度は大雑把でも可能な限り早く足にHPを移動させ着地する。これだけで着地の衝撃が大幅に緩和されているのが分かった。多分、今ならビルから飛び降りても問題なく着地できるだろう。ただ、足元だけでなく関節部分も強化する必要もありそうだ。

 ……そうだ。HPは壁だと思っていたが、この感覚なら多分体内にも展開できる。猫耳ができていなかった、関節や内臓の強化も可能なのだ。シンプルなものに限定すれば肉体強化のような真似も可能だろう。


「……ふむ」


 これはすごい。移動させる分はどこからか持ってくる必要があるからその分壁は薄くなるが、制御さえできれば有用だ。汎用性が高い。

 まだできそうにないが、跳躍する瞬間にHPを移動させる事でもっと高く飛べるかもしれない。というか、究極まで突き詰めれば二段ジャンプできるかもしれない。そういうスキルがあると聞いた事もあるが、スキルなしで再現できるのは魅力だ。普段から気持ち悪いと言われている俺の動きも一層気持ち悪く、理解不能な領域に達する事ができるだろう。

 HP操作だけでこの汎用性だ。スキルの方向性を調整できるというMP操作を習得できればどれだけの事ができるか。

 極端な話、魔術スキルが使えなくても魔力操作の技術は有用だ。上を目指す冒険者なら必須と言っていいほどに。

 ……相性やペナルティの問題はあるが、可能な限りここに放り込んだほうがいいな。帰ったらリリカに相談してみよう。


 さて、意外なほど簡単に魔力操作の基礎の基礎に触れる事はできた。思わぬ収穫もあったが、それは副産物。今この時点で言うなら、最大の収穫は世界の構造を一端でも理解した事だろう。

 剥き出しの魔力で構築された夢の世界。魂の試練場。こうして見ればそれが的確な表現である事が分かる。

 ……しかしだ、それだけにこの世界が閉じている事が分かってしまう。おそらく、今立っているこの道をどこまで歩いても出口はない。それが分かっただけでも進展なのだろうが、どん詰まりには変わりなかった。

 ここは俺の魂が持つ情報から構築された世界だが、おそらく自在に改変する事はできない。夢のような突拍子もない事が起きる事はあっても起こす事はできない。そういう世界だ。つまり、抜け道を探さないといけないのは変わらない。

 正直、俺の妄想からグンマー人が出て来る事を心配しなくていいのは助かる。うっかり変な事を考えても問題はなさそうだ。


 では、どうすれば抜けられるか。改めて、それを考えないといけない。失敗しても問題はなさそうだが、とりあえず何から手をつけるべきか。

 ここがあくまで夢とするなら、常識に囚われたままでは先に進めない。ならば、少し視点をずらしてみよう。俺の足元には道がある。ずっと先まで続く下り坂だ。道があるならそこを歩くのは常識だが、別に下へ向かうだけなら飛び降りたほうが早いのではなかろうか。


「そいやっ!」


 ものは試しと、ガードレールを跨いで崖下へと飛び降りた。あまり幻覚っぽくないリアルな浮遊感を感じるが、それも慣れたものである。

 練習がてらHPを操作し、足元へ展開。多少は衝撃が緩和された……気がする。

 着地した先は同じく道路。下には移動したはずなのだが、あまり景色に変化がない。ループ構造か何かなのかもしれないが、はっきりとしない。試しにガードレールを派手に破壊して、更に下へと降りてみた。

 待っていたのは似たような風景。だが、上を見れば先ほど破壊したカードレールが見える。当然、現在いる場所のガードレールは壊れていない。良く見れば、風景には若干の違いが見られる。……ループしてるわけじゃなさそうだが、それはそれでおかしな話である。

 そうして何度飛び降りても一向に麓に辿り着けない。ここが赤城山かどうかも分からないし、その標高も知らないが、富士山よりも高いという事はないだろう。試す気はないが、そこまで飛び下りても麓には辿り着けないんだろうな、と思った。逆に、崖を登って行っても同じ事で、どこまで行っても頂上には辿り着けないんだろう。

 普通なら有り得ない話だが、ここは夢のようなものだ。きっと、この場所も実際には存在せず、俺が無意識の内にそれっぽい場所を構築しているんじゃないだろうか。それなら、見覚えのない場所だって再現できるだろう。パーツだけ用意されて自動生成されたダンジョンのようなものだ。


 飛び降りるのはやめ、再び下り方向へと道路を歩きながら考える。

 ようするに、俺はこの謎の山道に閉じ込められている。これのどこら辺が魂の試練なのか分からないが、とにかくそういう事だ。脱出する事が試練なのかもしれないが、それはそれで意味が分からない。どう考えても、それだけで魂が鍛えられるとは思えない。

 情報を整理しよう。まず、ここは"群馬県"だ。夢の中ではあるが、ここまでに複数その記述を確認しているから間違いない。そこははっきりしている。そして、それ以外の情報がない。掠れたような文字や絵から何か分かるかと思ったが、すべてが読めないようになっていた。つまり重要なのは、ここが群馬県である事"だけ"なのだろう。

 では、群馬県にどんな意味があるのか。真っ先に思いつくのはグンマー……いや、忘れるんだ。そんな展開は望んでいない。思い出すんじゃない。木の陰から槍持った人とか出てこないから……いや、やめて。

 良く知らない場所ではあるが、別に生前群馬県に足を踏み入れた事がないという事もない。長距離の移動中に通過した事もあるし、車の中から眺めた事もある。テレビやネットで風景を見た事もある。しかし、それだけでは印象が弱い。夢に出てきて、魂を研磨する試練の舞台になるほどではないだろう。

 ……それが単に覚えていないだけだったら?

 印象が弱くて忘れたという意味じゃなく、俺の記憶には欠損部がある。そこで訪れていたとしたら?

 もしそうなら、魂の試練はアホな妄想から、途端に現実味を帯びた凶悪なものへと変化するだろう。

 多分だが、ここは試練の前段階なのだ。まず、俺にとってここがどういった場所なのかを思い出さないと始まらない。そんな気がした。


 俺の住んでいた地球は唯一の悪意に滅ぼされた。覚えているわけではないし、どうやって滅ぼされたかも分からないが、まずはそれを前提とする。……その時、俺はどこにいた?


「……っ!?」


 頭に焼けるような痛みが走った。しかし環境から考えるならこれは普通の頭痛ではなく、もっと精神的なもののはずだ。

 ……どうやら正解らしい。門を潜る前から薄々感じてはいたが、この記憶に向き合う事が俺の魂の試練。おそらく、この場所も何かしら重要な事柄に紐付いたもの……。消えた記憶の中で訪れていた場所なのだ。


「……本当に?」


 改めて周りを見渡す。

 本当にそうだろうか。どうしても違和感しか覚えない。俺はこんな場所を知らない。訪れていない。そう感じてならない。俺の中の消えた記憶の断片がそう言っている。

 正解に近付くために記憶を探る。頭痛はひどくなっていく一方だ。

 《 アイテム・ボックス 》から頭痛薬を取り出して飲む。一般向けには販売されない効果の強いものだ。この世界で意味があるのかどうかは分からないが、何もしないよりはいいだろう。プラシーボ効果、プラシーボ効果。

 ……二錠飲んだはずなのに、減ってなかった。……俺は薬を飲んだぞ。くそ、やっぱりここは夢みたいなもんかよ。どう考えても意味はなさそうだが、プラシーボ効果を期待して再度思考の海へと泳ぎ出す。


 確信がある。俺は蓋をしているだけで、正解への道を知っている。そこから目を背けているだけだと。

 世界が終わった日。終わりの始まった日。その時、俺は東京にいた。何故だか突然訪問してきた美弓も一緒だった。迷宮都市に来てからチラチラと蘇る記憶の断片はその事実を示している。

 そうだ。終わりの始まりは東京であって、ここではない。なら、俺はどういう理由で群馬県にいる。理由があるはずだ。


 唯一の悪意が出現したのがこの場所か。……違う。

 それでは、唯一の悪意と俺が邂逅したのがこの場所か。……それも違う。

 俺がアレと邂逅したのはここではないどこかだ。その答えはおそらくここにはなく、もっと深い場所にある。それには、魂に刻まれた部分まで触れる必要があるだろう。

 なら、答えは出たようなものだ。……俺は、俺たちは逃げてきた。東京がどんな状況だったかは別として、群馬なら距離的には辿り着けない事もない。目的地を定めていなかったわけではなく、現実的に移動可能な距離で"人の少なそうなところ"を選択した。そう考えるなら自然である。そんな状況で交通機関が動いているとは思えないから、おそらく移動手段は車。俺一人ならともかく、美弓がいた事を考えると徒歩というのは考えづらい。

 ……いや、そこにいたのは俺と美弓の二人ではない。もっと大勢いたはずだ。難民のような集団。無理やり詰め込んだような大型車。知らない人たち。名前も顔も知らない人たち……。

 ……思い出すのは顔のない名無しの"人間だったモノ"。


 頭痛で視界が歪む。地面に這いつくばる。鋭くて強烈な、とても正気ではいられない痛みがガンガンと頭を刺激する。まるで、脳に掘削機でも打ち込まれているような感覚。あまりに鮮明な痛みは、ここが精神世界故なのだろうか。


 違う。この光景はまやかしだ。こんな光景は有り得ない。

 ……そうだ。たとえ逃げた先とはいえ、こんな平穏無事であるはずがないのだ。ありえない。

 そう認識した瞬間、砕けたアスファルトが視界に入った。


「はは……」


 頭痛を押し殺して無理やり顔を上げてみれば、道路も建物も山すらもグチャグチャに崩壊した風景。空襲でも受けたかのような惨状が広がっている。タイミングを計ったように、山の向こうから陽が昇るのが見えた。

 ……夜が明けようとしていた。




-3-




 歩き続ける。頭痛はひどく、歩くのでさえやっとの状態で歩く。先へと向かう。目指すべきは東京だ。それを確信した。

 そう認識した事で山を抜ける事はできた。ある意味予定通りだ。だが、こんな状態で辿り着けるのか。現時点でさえこんな有り様で、本当に現実を直視できるのか。これはまだ一端で、表層部にしか過ぎない。それを知って尚、真実を見に行くのか。

 原因は頭痛だけではない。俺の中の危機感が全力で拒否している。

 どこかで向き合う必要があるとは思っていた。そう覚悟を決めていた。決めたつもりになっていた。だが、足は地面に張り付き、重さも鉛のようで持ち上げるのも億劫になるほどだ。分かっている。夢の中とはいえ、実際に重くなったわけではなく、単に俺が拒んでいるだけだと。

 気が付けば、あたりは市街地へと変わっていた。初めからここを歩いていたのではないかと錯覚するほど自然に。周りは瓦礫の山だらけだ。道も家も無事な部分が存在しない。崩壊世界をネタにしたゲームだって、もう少しマシな建造物は残っているだろう。

 偽物の日本に似ているなんて冗談じゃない。何も起きない、何も変わらない世界だって、ここよりはマシだ。

 時間の感覚が乏しい。何時間歩いたのか分からない。体内時計もまともに働かない。そもそも歩かずに舞台だけが移動しただけの可能性もある。すべてがあやふやだ。俺と周りの境界線すら怪しくなってくる。

 これはおそらくマズイ状況だろう。自己が確立できなくなれば試練どころではない。おそらくは門の前に戻される。エリカが保険をかけているかもしれないが、それをアテにするのは危険だ。

 再挑戦できるかは聞いていないが、同じ条件でここに来れる気がしない。それ以上に、俺の本能が失敗するのはマズイと感じている。エリカとの話の流れで何気なく始めてしまったが、この試練はきっと取り返しのつかない重要イベントだ。失敗すればすべての可能性が失われるレベルの。

 考えろ。自己を失うな。何を見るべきか、何を知るべきかを忘れるな。この世界は俺に何を見せようとしている。

 分からない。分からないが問い続ける。

 そもそもの話、こうして見える風景は実際にあった事なのだろうか。俺の記憶から再現されているにしては実感が湧かない。

 唯一の悪意に触れた世界が崩壊したのはいい。いや、事実としては良くないが、聞いている限りそうなるのが必然といえる。だが、見える風景は戦争でも起きたかのような残骸ばかりだ。

 ……そうだ。こうして再構成されて形作られた世界だが、まだ足りない。これは本来見るべき世界ではない。

 そもそも不自然過ぎるのだ。この程度の崩壊ならダンマスでも余裕でやってのけるだろうし、最前線組の冒険者でも複数人いれば可能なレベルだ。そこに在るだけで文明が崩壊する超存在が何かをした結果とはとても思えない。

 それだけではない。最も不自然なのは死を感じない事。街は壊れていても死体がない。死を連想させるモノが何も見当たらない。そして、いくら東京に近づこうが大して風景が変わらない。山の時と同様、ループしているようには見えないが、どこもかしこも似たような滅びっぷりだ。

 この状況から察するに、俺はまだ意識に蓋をしているのだろう。世界が滅びたのは受け入れた。だからこの風景がある。だけど、それだけであるはずがないのだ。これは、現実を直視できない俺が滅亡という言葉から作り上げた虚構の風景。夢という虚構の中でさえ更に虚構で上書きする臆病者の風景だ。


――臆病者の渡辺綱。目を閉ざし、過去を忘れたフリを続ける渡辺綱。お前は現実を直視できるほど強くない――


 タイムリミットは近い。思い出さなくても状況は変わらない。思い出さなくては状況は変わらない。変わらないままなら世界は終わる。無限への道が閉ざされる。終わるのは渡辺綱だけでなく、すべてだ。そこに存在するすべてが終わる。これ以上、後回しにするわけにはいかない。

 強者に縋ればいい? ダンジョンマスターや皇龍に投げて、自分がやるべき事に全力を尽くすべきだ?

 なるほど、それは確かに真っ当な手段だ。実際、手を借りる事は必要で、俺だけでどうにかするには力も知恵も情報も足りない。

 だが、この状況において他人任せにするのは違う。それはただの逃避だ。それでは世界の終わりは回避できない。真っ当な方法ではそこから逃れる術はない。真っ当な手段で回避できないから、俺がここにいるのだ。

 何を求められているのかは分からない。しかし、それが純粋な力や賢しい小細工ではないのは確かで、ダンマスや皇龍では対処ができない。何かを起こせるかもしれない渡辺綱の前に、エリカ・エーデンフェルデが現れたのはそういう事なのだ。

 俺にしかできない事がある。この世界の渡辺綱にしか成し得ない事がある。

 終わりを回避するために用意された唯一の道。それが俺が歩んで来た道で、この《 魂の門 》。それ以外の道は用意されていない。

 いや……朧げだが確信がある。どんな世界にも終わりに抗う術は存在しない。……存在しなかった。この試練はその道を無理やり抉じ開けるために用意された在りえぬ可能性だと。


「かっ……はっ……」


 地面に倒れ込みそうになるのを堪えた。

 ……なんだ今の感覚は。知らないはずなのに、間欠泉のように噴き上げるモノは、まるで俺は真実に気付いていて、ただ目を逸しているだけのような……。


――知っているはずだ。見ているはずだ。それが抗いようのない終末だと理解しているはずだ――


 そんなはずはない。俺は何も知らない。無数に存在する平行世界の渡辺綱の事など知るはずがない。平行世界の俺の話も、数多の渡辺綱の中で俺だけが特異な存在である事もエリカに聞いて知った事だ。ましてや存在しないはずの、世界の終わりに抗う方法なんて……。


――その上で在り得ぬ可能性を抉じ開けようとするなら、同様に在り得ぬ代償が必要になるのも必然。それを理解している――


 代償……。

 吐き気がする。眩暈がする。体の……存在の芯から歪み、捩れ、壊れていく感覚。

 それは罪のカタチ。人には背負いきれない業を抱えた者の魂が軋む感覚だ。


――渡辺綱は強い。人として在り得ぬほど強靭な精神力を有し、己を貫く力がある。だが、それだけでは足りない――


 どんな死地からも生還するような、人として規格外のメンタルを持っていたとしても、それはあくまで人のものに過ぎない。しかし、今求められているのはそれ以上だ。人としてではなく、あらゆる可能性から逸脱しなければならない。

 そして、渡辺綱である事が求められる以上、人のままでそこに至らなければならない。別の存在であってはならない。別の存在になってもいけない。挑戦権を持つのは渡辺綱なのだから。あの時、挑戦権を手に入れたのは他ならぬ渡辺綱なのだから。


 少しだけ頭痛が治まった気がする。薬のおかげとは思えないが、マシにはなった。

 代わりに体が震えるのが分かった。寒気ではなく恐怖。それも表層的な事ではなく、魂の底から湧き上がる恐怖だ。

 怖がっている。どんな強大な敵にも感じなかったほどの恐怖が、剥き出しの精神体を縛り付けている。

 だが、足を止めるわけにはいかない。何も持たないままだったら諦めていただろう。だけど、ここまで積み重ねたものが、恐怖で縛られた体を突き動かしている。


――恐怖ごとき、飲み込んでしまえばいい。噛み砕き、飲み干せば糧へと変わる程度のものだ――


 簡単に言ってくれる。それができないのが人間だ。だからこうして現実から目を逸らしている。

 お前はそう在れと作り出されたモノだから、そんな簡単に言えるんだ。


 ……俺は、一体誰と会話しているのか。

 ここは魂の門。魂が見せる孤独な虚構世界。エリカがわざわざ入り口で割り込みをかけたように、ここには渡辺綱しかいない。存在できない。グンマー人だろうが、エロい妄想だろうが、ここに現れるのは俺の魂を元に創り出されたモノ。言ってしまえば自分自身だ。

 知らない事は存在し得ない。存在しない可能性が現れる事もない。ここはそういう閉じた世界のはずだ。

 ならば、こうして語りかけてくる声も自分自身でしかない。


――半分正解だ――


 ……半分?


 それがきっかけだったのか、再び世界が変わる。場所はそのまま、瓦礫もそのまま、ただ無数の死が追加された。

 あるはずだったものが追加される。本来、完成度の上がるはずの追加要素は予想を裏切り、更に現実味のない姿を見せた。

 馬鹿げていると言わざるを得ない風景が視界に映る。




-4-




「なん……だ、これは」


 想像を絶する光景だった。識っていても目を逸したくなるほどに、脳が理解を拒む光景。

 死体があるのは分かる。地面や壁に血痕や臓物、脳漿らしきものが付着しているのも分かる。それは非日常ではあるが、滅亡という要素からすれば当たり前で自然なものだ。死のない滅亡など有り得ない。……そこまではいい。

 問題は、それ以外が到底理解の及ばない世界である事だ。

 あまりに濃密な死臭が充満し、肺を汚染する。正気ではいられない。だが、狂気も飲み込んでくれない。不自然なまでの精神の拮抗。すべてが異常。異常が正常である空間にあって、その風景を見渡す俺はどこまでも冷静だった。

 覚えがない。記憶がない。だが、知っている。少なくとも俺自身はそれを受け入れている。それは在った事だと。

 目の前の非現実は、かつて渡辺綱が通った道だと。


 本来命を持たないモノを含めたすべてが死に、その死がカタチを持って生きていた。

 死体らしき人の肉体が車の残骸から生えている。高層ビルが不自然に曲がり、別の建物と絡み付いている。

 地面に口があった。街路樹が人を飲み込んでいた。空が罅割れ、その奥に目を覗かせていた。人が人を食い、自分を食らっていた。

 死体には顔がない。在るが、"ない"。存在を許されていない。個別の存在である事を否定するかのようにぽっかりと存在の穴があった。

 壊れ、大破したトラックの運転席にいる男の姿に見覚えがある。良く知っている恩人の姿だ。それは分かる。だが、男には顔はない。状況しか識別できない。知っているのに思い出せない。分からない。まるで、そんなものは最初から存在していなかったように、名前ごと抹消された。顔と名前を奪われた哀れな存在たちが、崩壊した世界を彩っていた。


 在り得ない狂気の世界。あらゆるものが歪んだ世界。そして、それが現実の世界を再現したものだと分かってしまった。こんな世界で人が……生命が生き残れるはずがない。そう確信させるほどに世界は終わっていた。


「……はは」


 これが、目を背け続けた世界の最後か。

 渡辺綱はこんな世界を歩いていた。戦っていた。逃げていた。生き延びていた。きっと、大勢の仲間と生き残る道を探していたのだ。

 だが、そんな道はない。ないと分かっていたものを探していた。ないと認めたくなかった。

 未来はなく、明日もない。いつ殺されるか分からない。敵は自分以外のすべて……いや、違う。きっと、自分すら敵なのだ。

 そう自壊するように仕組まれた滅びの病。唯一の悪意に触れるのはそういう事なのだと理解した。自我を残すだけでも困難。こんな世界で五体満足で戦い続けられるはずがない。渡辺綱といえども、渡辺綱のままでいられるはずがない。

 記憶に残る美弓の泣き顔。それが残っている事さえ想像を絶するほどに奇跡的な事で、多大な犠牲の上に実現した事なのだろう。


 気がつけば、左半身の感覚が消えていた。……いや、なかった。

 いつか< 鮮血の城 >で戦った時のような紛いモノの再現ではなく、内側から食い破られ、侵食され、その機能を失っていた。特に左腕は根元から存在しない。


 斬られた? ……いいや違う。

 食われた? ……それも違う。

 答えは右手に握られている。俺は、自分でなくなり変質した部分……左腕を自ら引き千切ったのだ。

 こんな、怪物の一部にしか見えないモノが自分の左腕だと理解できてしまう。そして< 渡辺綱の左腕 >は、この世界で渡辺綱が生き延びるために武器としたモノなのだ。

 故に《 片手武器 》。ギフトは何も間違っていない。そう在る理由がちゃんとあった。


 侵食は続く。自分が自分でなくなっていく。幻の世界であるはずのここでさえ、それは再現される。

 這うように、自分以外の何か……敵性体が蝕み続けている。すでに人間としての部分は大半が失われ、別のモノへと変貌しつつある。これは過去を元に再現された幻覚のようなものだと分かっていても、内側から侵食され食い破られる感覚は抗い難い恐怖を呼び起こした。

 おそらく、人だけではなく動物も植物も、微生物も無機物もすべてが同じ。敵性体を滅ぼすための存在と化したのだ。それがこの惨状を生み出した。知覚できるすべてが悪意。生きとし生けるものすべてを滅ぼすウィルス。

 逃れる事も抗う事もできない最悪の舞台だ。


 歩く。そんな馬鹿げた世界で果てを目指す。逃げた距離は、人が踏破するにはあまりに遠く険しい道のりだった。

 辿り着けるとも思っていなかった。だが、辿り着いてしまった。すべてが狂い、砕けた世界で俺は世界の果てを見たのだ。

 こうして歩いた道を知覚できないのはそのせいだろう。最後まで抗った末が世界の果てとは洒落ている。


 東京。罅割れた空。どこよりも狂気に満ちた世界に、穴が開いている。それが、終わりの始まり。すべての元凶が這い出てきた場所。

 そして、今なら分かる。アレは今の俺が知っているモノだと。

 見るだけなら空間に空いた穴だ。形があるわけではない。おそらく当時と受ける印象もまるで違う。だけど、それが同じモノだと魂が叫んでいる。


「……無限回廊」


 アレは今も俺が挑み続けているモノと同じ存在だと理解させられた。あの先には無限が広がっている。あの先に続く回廊は無数の世界に繋がっている。

 当時の俺が……一般人だった渡辺綱がそれを知るはずはない。なのに、その最果ての地へと足を踏み入れたのだ。

 帰る事は考えていない。そこに何があるかも分かっていない。何かできるとも思っていない。きっと、知るためだけにそこへと至った。

 俺もまた、再現されたそこへと歩き出す。きっと答えがそこにあると。


 邪魔はない。敵もいない。障害物もない。無限回廊の口はむしろ招いてさえいるように感じる。

 今なら分かる。その先にいるのは唯一の悪意と名付けられた災害。俺を待っていたわけではない。俺を呼んだわけでもない。ただそこに在るだけの災害。

 空間に空いた大口は《 魂の門 》の世界にあって、俺の魂を試す第二の門だという事が分かる。あの先には俺の試練が待っていると。

 魂を砕き、構成し直し、形作るための試練。渡辺綱の終わり。そして更なる真実がそこにあると分かった。



――だが、まだ早い。お前にはその資格はない――



 魂が砕かれた半ば人形のような状態でそれを潜ろうと歩み出したところで、すべてが消えた。

 無限回廊の口も、崩壊した東京も、俺の魂が創り出していた世界すべてが消えた。残ったのは俺自身と、何もない黒の空間。そして、その闇に浮かび上がる巨大な眼光。俺とそいつだけが存在していた。

 二つの瞳はこちらを見据えている。じっと観察している。


「……お前か」


 先ほどからずっと語りかけてきたのが、そいつだと分かった。それが、俺の一部である事も理解した。

 ただそこにいると知覚するだけで、それがどういうモノかを思い出した。


「邪魔するな」

――そんな砕けかけた魂で何を見る――


 語りかける。同じ存在であるはずなのに、諭すように。……少なくとも悪意は感じない。


「知らねえよ。必要だから行くだけだ」

――知っているはずだ。あそこにあるのは目を逸らし、蓋をしているだけの真実だけ。我がこうして止めているという事は、まだその時ではないという事だ――

「ボーっとしてたら、世界が滅びるんだとよ。知ってるんだろ」


 俺自身でもあるお前が知らないはずはない。お前は必要な事を隠しているようだが、知らない事はないはずだ。


――ここより先に至れば、世界より先に汝が砕けるだろう。それでは結局滅びる。同じ事だ――

「でも、必要な事だ」


 世界の運命はお前にかかっていると言われれば、愚痴を言いながら血反吐吐いて戦うのが渡辺綱なんだよ。

 楽したい。大変な事は誰かに投げつけたい。自分は安全地帯でのうのうと暮らしたい。でも、それができないから渡辺綱なんだよ。


――あの先へ行く事、知る事自体を止めているわけではない。汝にはまだ早い。資格が足りないと言っている――

「止めてないんだったらどけ。時間がねーんだよ」

――汝が真に望むのなら、道は再び開かれる。おそらくはあと一度。それが最後の機会だ――

「……お前は俺の一部だろうが。なんでそんな事が分かる」


 それは確定していない未来の事。存在しない道の先にあるはずの事だろう。いくらこいつでも、そんな可能性など分かるはずがない。


――汝が分かっているからだ。これから起こるすべて、これまで起きたすべて、起こらないすべてを知っているからだ。渡辺綱が起点となる事象で認識できぬ事などない。我々はそういうものだ――


 だが、お前がそれを止めている。見せないように隠している。蓋されてるんじゃ向き合いようがない。

 それとも、それ自体が俺の意思だとでもいうのか?


「……お前は俺の味方じゃないのか?」

――自分自身に面白い事を問うものだ。……答えは否。敵でも味方でもない。我はただの器官に過ぎない――


 お前がそういうモノだっていうのは分かってるよ。自分の一部に向かってお前は味方か、なんてアホな質問だ。


――我は渡辺綱の原罪。心弱き渡辺綱ができない事を代わりに行うだけの存在だ――


 闇から姿が浮かび上がる。距離感の掴めないこんな空間では大きさなど測れない。ただ巨大という事だけは分かる。

 しかし、そういうものだと知っているから恐怖は感じない。臆病であるが故に知らないふりをしていただけの事。

 その姿は獣。知っているどんな獣にも似ていない。あえて言うなら蜘蛛。しかし、こいつは獣であって虫ではない。

 ……それは名前からも分かる事だ。確かにこいつは俺の一部、何度も表に現れているのだから。


「……《 飢餓の暴獣 》」

――その名は正解であり、誤りだ。我は《 因果の虜囚 》を植えつけられ、形を変えた渡辺綱の本能そのもの。スキル名とはいえ、固有の名など持たない――


 こいつは、本来在るべき姿から捻じ曲げられた本能のカタチ。俺の死地を幾度となく救い煉獄へと叩き込んだ、死へと抗う本能のカタチ。

 俺を食らい、世界を食らい、因果を食らう渡辺綱の原罪。

 名前などあるはずもない。だが、あえて名付けるとしたらこう呼ぶべきだろう。




 ……因果の獣と。



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