第28話 呪いの男
あの事故が起きてから、南亜子は心から笑ったことがない。
日々に脅えながら生きていた。
悪夢ばかり見ている。
あの日、目の前で死んでいった同級生に「おまえのせいだ」と責められる夢。
上野に殺された老人がベッドの下から這い出てきて「助けて……」と呟きながら南亜子の両足をつかんでどこかに引きずっていく夢。
なにより南亜子を憂鬱にさせるのは、
「何も言わなければ何も起きない。わかってるよな。わかってるよな?!」
と迫ってくる上野の声ばかりが延々と響く夢なのだが、これだけは現実でも実際に起こったことだからたちが悪い。
そんな下ばかり向いている南亜子であったが、目の前に現れたヨナの気品溢れる美しさを見ると、久々に温もりを感じた。
初めて富士山を見た観光客のテンションで、
「綺麗な犬……」
と笑みを浮かべた。
気がつけば、とことこ歩くヨナを追いかけていた。
気づくのに十分以上かかったが、同じ道をずっと歩いていることに気づいた。
どこを曲がっても、同じ場所に出る。
同じ信号、同じコンビニ、同じコインパーキング。
交差する人も、コンビニに出入りする人たちも、みんな同じ。
「なにこれ……」
頭がクラクラしてきた。
こめかみのあたりがきゅーっと苦しくなって、道にへたり込んだ。
風間ヤオがふらふら現れたのはその時である。
「凄いなあ。言うとおりにしたら、ほんとに言うとおりになった」
「え……?」
南亜子はヤオをまじまじと見上げた。
誰だろうと思った。
「ちょっと待ってて。今、術を解くから」
桐島クランから教えてもらった詠唱単語を呟いていく。
「さまよう、大学ノート、同軸。永続、顔料インク、非同軸……」
呪術というものは、意味のある単語の間に、意味が無い単語をひとつ挟むと良いらしい。どうしてかはわからないが破壊の女神が言うのだからそうなのだろう。
「不要な言葉のチョイスこそが、実は最も大切なのです」
と仰っていたが、意味はやっぱりわからない。
ただ教わったとおりに呟いたら呪術が発動したのは事実だった。
呪術をとくと、南亜子の閉ざされていた視界が開け、本当の場所が姿を現す。
誰もいない公園の、誰も使っていないジャングルジムの中に南亜子はいた。
「なんで?!」
リアクションが大きすぎて、体のあちこちをジャングルジムの鉄柱にぶつけてしまい、苦しそうにうめいた。
そして、あの事件から三年ぶりに南亜子は怒りを覚えた。
「何なのよ! 警察呼ぶわよ!」
当然のことながら、他人に許可無く魔法を使って、傷つけたり苦しい思いをさせたり、不快にさせたりすることは禁じられている。
ヤオがしたことは立派な犯罪行為であったが、今さらこの二人がそんなことを気にする必要があるだろうか。
ヤオは、彼女の病的なまでに細い指に、例の指輪があるのを確認した。
「その指輪、役に立った? 人から盗んだものじゃ、あまり使い物にならないだろ。そろそろ返してくれないかな」
その言葉で南亜子はすべてを思い出した。
あまりのショックに後ずさり、頭を柱にガツンとぶつけた。
「……!」
最初は戸惑い、その次は報復を恐れた。
しかし目の前にいる男はあの日から何も変わっていない貧弱な掃除屋だったから、結局、全ての感情が苛立ちで塗りつぶされた。
「今さらなんなのよ! あたし何にもしてないじゃん!」
「そうかな。確かに君はあの日ほとんど泣いてただけだったけど、盗みはダメだよ。相手が取るに足らない掃除屋のおっさんだったとしても」
「……」
男の口から呟かれる淡々とした言葉が、かえって南亜子をぞっとさせた。
見た目こそ変わっていないけれど、三年の間に全く別の人間になっていると気づいた。何をするつもりなのかまるで読めない。指輪を返したらそれで終わる気もするし、やっぱり気が変わったといきなり首を絞められて殺されそうな気もする。
結局、南亜子は手を震わせながらあの指輪を風間ヤオの手に乗せた。
「落ちてたから拾っただけ。あんたの物だとは思わなかった」
と、一応の言い訳はした。
「そうかそうか。それならそれでいいよ」
ヤオは南亜子が惨めさを感じるほどの笑みを浮かべながら呟いた。
長らく他人の指に収まっていた指輪を、そのまま自分の指にはめるのに妙な抵抗を感じて、俺って奴はわりと潔癖なんだなと気づいた。
とりあえず指輪をぐっと握りしめると、ヤオは南亜子に伝えるべきことを告げようと、ジャングルジムの鉄柱にもたれかかった。
怪しい商品を売りつける笑顔がうさんくさい営業マンのように、馴れ馴れしく話を切り出していく。
「俺がこのままどこかにいなくなったら、君は電話をするよね。君のまわりで何かおかしなことが起きたら電話しろってあらかじめ言われているからだ。誰がそれを言ったのかは大体予想はつく。ずいぶん大物になったね、彼」
「……」
「だけど言っておく。そいつが君に電話をもらって、おっかない人を集めてそいつらに俺を処分させたとして、その次に処分されるのは君かもしれないってことを、考えるべきじゃないかな?」
「……」
南亜子の表情が険しくなる。
「っていうか、俺の連れは言ってたよ。あんなおっかない男に毎日見張られて、よく殺されずに済んでるって」
「……」
もはやこの男を前にして、1ミリも優位に立てないと南亜子は痛感したし、今まで考えないようにしていたことを指摘されて、途方もなく怖くなった。
そう。自分はいつ殺されてもおかしくないのだ。
「あんた……、あたしに何をさせたいわけ?」
どこかの週刊誌に本当のことを話せ。
あるいは弁護士を雇っているから知っていること全部話せ。
どこかの配信者の動画に出て、真実を話せ。
どちらにしろ、あたしは今、どん底にいる。
さようなら、いびつで、綱渡りで、嘘ばっかりの、最高で最悪な日常。
しかし、掃除屋は言った。
「指輪を返してくれればそれでいい。だけど、それだけじゃ今後の君が心配になる。
君の日常を俺が変えてしまった。その責任を取りたい。それだけだ」
「……はぁ?」
「あと少し待ってて。連れが来るから」
ヤオはそう言って、桐島クランがここに現れるのをヨナと待つことにした。
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