序幕

 気付けば、闇の中に佇んでいる。

 なので、ぼくは理解した。これは夢である、と。

 足元どころか、目の前に掲げた指先すら見通せないのだから、正真正銘のまっくらやみである。だというのに、目を閉じれば自分が何処に立っているのかが不思議と分かってきて、裸足の裏を撫でる土の冷たさに、ぼくは懐かしさを感じるのだった。

 眠っている筈なのに、夢の中でも目を閉じるとはこれいかに?

 もしやぼくの無意識、その深層には「だるい、ねむい、何もしたくない」という、怠惰な願望が隠されているとでもいうのだろうか。そんな馬鹿な、隠した覚えはないぞ……などという、我ながら阿呆な事を思っている間にも、脳裏の光景は形を顕わにしていく。

 端的に言えば、土蔵の中だ。

 何一つとして物が置かれていない故に、そうと言うより他がなく、イメージのしがいもない。それでも埃だけは舞い積もっていて、実に退屈な、まるで現世うつしよのような空間である。

 嫌気が差すほどにリアルなかびの臭いが鼻腔をくすぐる。そうして徐々に、自分の身体が縮んでいく——否、“戻っていく”感覚がやってくる。

 我が身は何処いずこへ参らんとしているのか、それもすぐに見当が付いた。八歳の、純粋無垢だった頃のぼくへと退行しているのだ。

 夢が時間の不可逆性に逆らう事は、決して珍しい事じゃあない。つまりぼくは今、過去の記憶を夢に見ている。右も左も分からないまっくらやみに、閉じ込められた経験がぼくにはある、というお話。

「かあさま」

 か細く呟き、ぼくはその場にへたり込む。渇いた喉と、ひび割れた唇では、それっぽちを紡ぐだけで苦しい。それでも呟かずには居られなかったので、溢したのだった。

「か、ぁさま」

 まるで巣から落ちた雛鳥が、ぴいちく鳴くみたいに、同じ発音を繰り返す。

 呼んだって親鳥がやってくる事は無い。分かっている。だって、ぼくをこんなところに閉じ込めたのは、他ならぬ“かあさま”なのだから。

「かあさ、ま」

 それでも呟き続ける。 

 呟いている、つもりだった。実際には、舌のこすれる感覚があるばかり。最初はもっと声を張り上げていた。重く閉じられた扉を力いっぱいに叩きながら、裂けるくらいに泣いていた。泣きながら、叫んでいた。


 かあさま、かあさま。

 だして、だして。

 たすけて、かあさま。

 かあさま、かあさま。


 どれくらい、そうしていただろうか。

 分からない。何度目かせたところで胸骨の軋みに耐えきれず、膝をついた。それでも鳴き続け、気付けばへたり込み、今は横たわっている。

 冷気が体温を奪い、腫れた両手がじんじんと痛む。飢えが沸き立ち、意識が不規則に断続して、まるで切れかけの電球のように明滅する。ちかちかと暗転する度、かあさまの声が聴こえた。

『貴女は、たたりを受け継ぐのよ』 

 つらい。

 けれど「どうして?」とは、思わなかった。

 かあさまは言った。『ゆえに』と。

『これは儀式よ。為さねばならない事なのです』

 どうして為さねばならぬのか?

 其れはちっとも分からない。けれども、かあさまはぼくの全てだ。閉じられた檻のような屋敷の中で、ぼくに全てを教えたのはかあさまなのだ。

 昼夜の仕組みも。

 花鳥風月の趣きも。

 鋼刃の研ぎ方も、撃鉄の起こし方も。

 首塚たたりの使命も。

 全てはかあさまから与えられたもの。そのかあさまが言うのだから、絶対なのである。

『母を憎みなさい。母を拒みなさい。わたくしを怨みなさい』

 かあさまがぼくにそう教えた。

『それこそが、貴女を貴女たらしめるのです』

 そう教わったのだから、そうなのだと。

『貴女は、祟りとなる』

 ぼくは心の底からそう、思っていたのだ。

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