第4話 救急病院

 それからは、リビングの椅子に〈ゆきえ〉が座り、俺がソファーに座って、何とも嫌な沈黙が続く。

 酒を飲まないと決めたけど、飲まないとやってられないぞ。

 あぁ、これから毎日こんな拷問が待っているとしたら、俺は必ず病んでしまう。


 「なあ、お願いだから、この前のことをちゃんと話してくれないか」


 「…… 」


 「このままじゃ、俺の精神が本当に持たないんだよ」


 「うぅ、あなたには申し訳ないんだけど、今度のプロジェクトが終わるまで待ってよ」


 「プロジェクトはいつ終わるんだ」


 「一か月後よ」


 はあー、一月もこの生殺しの状態が続くのか、いい加減にしてほしい。


 〈ゆきえ〉は、俺のことより会社のことが大切なんだな。

 愛情がもう無いのだから、給料をもらえる方を優先するのは、当然か。


 「長すぎるよ。それまでは、別居でもするか」


 「いゃー、別れたくない」


 〈ゆきえ〉はそう叫ぶように言って、ゴトンと音を立てて椅子から転げ落ちてしまった。


 俺は「あっ」と大きな声を出して、慌てふためいて〈ゆきえ〉を抱え起こそうとしたのだが、〈ゆきえ〉の身体はダランとして、完全に意識を失っているようだ。


 顔は真っ青だし、床で思い切りぶつけたのだろう、ひたいに血がにじんでいる。

 俺は少し迷った後に、タクシー呼んで一番近くの救急病院まで行く事にした。

 気絶しているし頭を打っているから、このままじゃいけないと思ったんだ。


 何とか急患で診てもらえることが出来て、ストレッチャーで運ばれている時に、〈ゆきえ〉は目を覚ましてくれた。


 「ここは病院なの」


 「そうだよ。君は意識を失って倒れてしまったんだ」


 「そっか。連れてきてくれて、ありがとう」


 「あ……」


 俺が頭は痛くないかと聞こうとしたタイミングで、看護師さんから「これから当番の先生が診察されます」と言われて、俺と〈ゆきえ〉は一個所だけ灯りがついている診察室に入っていった。


 型通りの診察が終わったが、明日検査をしなければ、詳しいことは分からないと言うことだった。


 俺は看護師さんの詰め所で何枚か書類を書いて、病室で寝かされている〈ゆきえ〉に「今日はもう帰る」と告げて病院を後にした。

 大きな病院だから完全看護で、夜間の付き添いは認められてはいないんだ。


 大きな絆創膏を額に張られて、くすんでやつれた感じの〈ゆきえ〉の顔が、帰りのタクシーの中で不意によみがえり悲しくなってしまう。

 本当に愛している男に、〈ゆきえ〉は今寄り添って欲しいのだろうな。


 次の日の朝、看護師さんに指示をされているパジャマやタオルを、紙袋に詰め込んで病院へ持って行くことにした。

 洗面具やティッシュペーパーは、病院の売店で買うことにする。


 実用的な下着の方が良いと選んでいるのだが、どうしても派手な下着にも目がいってしまう。

 浮気相手のために、買った物があるんじゃないかと考えてしまうんだ。


 だけど、新しく買ったセクシーな下着は見当たらなかった。

 〈ゆきえ〉のクローゼットにあるのは、俺が見たことがある下着だけだった。


 ふん、浮気を疑われるような物を、こんな場所にしまうはずがないか。

 俺が気づかないような場所へ隠しているのに決まっている。


 病院に着くと、〈ゆきえ〉はまだ眠っていた。


 俺が紙袋をガサガサとしていたせいだろう目を覚ましたが、一瞬自分がどこにいるのか分らなかったようで、キョトンとした顔つきになっている。


 「タオルや下着を持ってきたよ。ティッシュとかは、売店で買ってくるよ」


 「迷惑をかけたね、ごめんなさい。あなた、会社の方は良いの」


 「まあ、大丈夫だと思う。検査の結果が分かるまで、ここにいるよ」


 この前も休んだから、かなりの顰蹙ひんしゅくを買っていそうだけど、大きな病気だったらそんなことは言っていられない。

 会社もそうなら怒ったりはしないだろう。


 「ふぅー、私は本当にダメな妻なんだな」


 「すごく疲れていたんだろう、ゆっくり休んだら良いよ。それと携帯も持ってきたから、しばらく休むと連絡した方が良いと思うな」


 お礼だと思うが、〈ゆきえ〉は静かに頭を下げたけど、その場で連絡を取ろうとはしなかった。

 俺に聞かせたくない話をするのだろう、邪魔をする気にもなれなかったので、〈売店に行ってくるから三十分程度は帰らない〉と告げて、俺は病室を出た。


 売店で洗面具やティッシュペーパーなんかを買い、缶コーヒーを飲みながら動画を見て時間を潰した後、病室へ帰えると〈ゆきえ〉はパジャマに着替えているところだった。


 俺が持ってきた地味な下着を身に着けているから、見た所で色気みたいのは何も感じ無い。

 俺は同居人へと格下げされているのだから、セクシーな下着姿を見る機会はもうないと思う。


 洗面具を渡すと、〈ゆきえ〉は「私がいつも使っている歯ブラシを選んでくれたのね」と言いわずかに微笑んだ気もする。


 その後午前中は、検査を何種類も受けることになったが、〈ゆきえ〉が一人でも大丈夫と言うので、俺は病室で待つことにした。

 病院の中なら何かあっても直ぐに職員が対応してくれるため、心配は不要だろう。


 午後に内科医の診察があり俺も同席したが、検査結果では特別悪いところは無いと言うことだった、たぶん過労との所見しょけんだった。


 「過労だと甘く見てはいけません。ゆっくりお家で身体をいたわってください」と医者に言われて、〈ゆきえ〉は神妙な顔でうなずいている。


 「病気じゃなくて良かったな」


 「心配をかけて、ごめんね。はぁ、検査で何か引っかかると思ったんだけどな」


 〈ゆきえ〉は良い診断結果が出たのに、全然嬉しそうじゃない。


 「えっ、病気の方が良かったのか」


 「ふぅ、それでも良かったな。あなたが優しいもの」


 「はぁ、何を言っているんだ。病気の方が良いなんて、君の考えが全く理解出来ないよ」


 俺と〈ゆきえ〉は、タクシーでマンションへ帰ることにしたが、看護師さんに言われて用意した物がほとんど無駄だったなと、ちょっと看護師さんに文句を言いたくなってしまう。

 最悪の想定で言ってくれたのだとは、分かるのだけど。


 「君は休んでいろよ。俺はちょっと会社に顔を出してくるよ」


 「うん、分かったわ」


 会社に行くのは嘘だ。

 〈ゆきえ〉が会社を休んでいる間に、同僚の〈ひとみ〉ちゃんに話を聞いてみようと思う。


 〈ゆきえ〉ががんとして真実を話さないため、後で後悔をしないように、やれることは全部しようと決めたんだ。

 〈ゆきえ〉は絶対に嫌がるし、ものすごく怒るとは思うけど、そんなの知ったことか。


 〈ゆきえ〉の会社はこぢんまりとした小さな会社だけど、花を扱っているからか、オフィスの入口に立派なフラワーアレンジメントが飾ってある。


 受付で、〈ゆきえ〉の夫で〈ひとみ〉さんに会いたいと伝えたら、直ぐに受付まできてくれた。

 〈ゆきえ〉が倒れたと聞いていて、病気の話だと思い急いで来てくれたのかもしれないな。


 落ち着いて話をするために、一階の喫茶店へ移ることになった。

 時間帯が悪いのだろう、客は二、三人で、静かな環境を提供してくれそうだ。


 「お忙しいところ恐縮です。〈ゆきえ〉のことで、お聞きしたいことがあるのです」


 「〈ゆきえ〉さんは、倒れられたのですよね。病状はどうなのですか。心配なんです」


 「ありがたいことに、検査結果には異状はありませんでした。ただ過労がひどいようなのです。〈ゆきえ〉は何も言ってくれないのですが、会社で何かあったのかと思いまして。特に親睦会で何かありませんでしたか」


 「…… 、〈ゆきえ〉さんは話されていないのですか」


 「えぇ、そうなんですよ」


 「それなら、私からはちょっと…… 」


 〈ひとみ〉さんは、頼んだコーヒーを飲みもしないのに、手に持ったまま下を向いている。

 俺の顔を見ようともしないのは、何かを隠しているのだろう。


 「何かがあったのですね。〈ゆきえ〉は二次会の後、誰かといなくなったのですね」


 「はっ、誰かなんて。〈ゆきえ〉さんはそんな人じゃないです。旦那さんなら、信じてあげてください」


 「信じたいと思っていますが、隠し事があっては、それは難しいことなんです」


 「うぅ、〈ゆきえ〉さんは何も悪くないんです」


 「どう悪くないのですか」


 「…… 」


 〈ひとみ〉さんは、もう俺の問いかけに応えてくれそうにないな。


 俺の知り合いじゃなくて、〈ゆきえ〉の同僚なんだから、〈ゆきえ〉の意向に沿うのは当然だな。

 これ以上追及しても、何も得るものがありそうにないな、もう諦めよう。


 「これはこれは、奥さんの会社まで押しかけてくるとは、なんとも可哀そうなお人だ」


 いきなりテーブルの横にきて、失礼なことを言うこの男は誰なんだ。

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