第四十一話 シニアリーグ篇(中学生2年生) その5

練習が早めに終わった日の夕方、俺は凪乃の家へと向かった。


手には、昨日怜奈と一緒に選んだ誕生日プレゼントの入った紙袋を提げている。


インターホンを鳴らすと、凪乃のお母さんが応対してくれる。


「来てくれたのね。今日も部屋に居るから」


「お邪魔します」


玄関で靴を脱ぎ、階段を上がって凪乃の部屋へ向かう。廊下を歩いていると、微かに甘い香りが漂ってきた。アロマの香りだ。


ドアをノックする。


「凪乃、入るぞ」


返事を聞いて扉を開けると、予想通りの光景が広がっていた。


カーテンは完全に閉め切られ、窓も締まっている。室内は薄暗く、唯一の光源はテレビモニターの青白い輝きだけ。


空気はじめっとしていて、部屋の隅に置かれたアロマディフューザーから立ち上る甘い香りが、その湿気に混ざり合っている。


凪乃は床に座り込み、ゲームのコントローラーを両手で握りしめていた。画面には見慣れたゲームのロゴが表示されている。


「目、悪くなるぞ」


凪乃は振り返り、ほんわりとした笑顔を見せた。その表情は相変わらず穏やかだが、以前のような屈託のない明るさとは少し違う。どこか部屋の薄暗さに馴染んでしまったような、そんな雰囲気があった。


俺は部屋の隅に置かれた椅子に腰掛け、画面に目をやる。


街中を背景に、二人の男が向かい合っていた。格闘ゲームだ。


「今、オンライン対戦中なんだー。ちょっと待っててねー」


凪乃の指が慣れた動きでボタンを操作する。


彼女が操るキャラクターは、素早いステップで距離を詰め、連続技を叩き込む。相手キャラクターは防御に回るものの、凪乃の攻撃は容赦ない。


フレーム単位の精密な入力が要求される連続技を、彼女は淡々と決めていく。


「……お前、めちゃくちゃ上手いじゃないか」


俺が感心していると、画面に「K.O.」の文字が表示された。相手のライフゲージはゼロ。


完勝だった。


「見て見てー。レート、すっごく上がったんだー」


凪乃は嬉しそうにプロフィール画面を開いて見せてくれる。


レートの数値を見ても、凪乃がどれほど強いのか、正直なところ俺にはよくわからない。


だが、その下に表示される千を超える対戦数が、プレイ時間の多さを雄弁に物語っていた。


野球の練習でもそうだったが、凪乃は一度集中し始めると、同じ作業を淡々とこなし続けることができる子だった。


単調な反復練習を飽きずに続けられる才能——それはアスリートにとって何よりも大切な資質の一つだ。


だが今、その才能はゲームに向けられている。


複雑な気持ちが胸の中で渦巻いた。


「そうだ」


俺は持ってきた紙袋を凪乃の前に差し出す。


「誕生日おめでとう」


一瞬、凪乃の目が大きく見開かれた。


そして次の瞬間、彼女の顔がぱっと明るくなる。


最近見ることの少なくなった、あの朗らかな笑顔だった。


「覚えててくれたの?」


「当然だろ」


凪乃は袋を受け取ると、まるでガラス細工でも扱うかのように、そっと中を覗き込む。


「開けてもいい?」


「ああ、もちろん」


袋の中から、一つずつ丁寧にプレゼントを取り出していく。


まず現れたのは、『アテナ・クエスト』の紋章をあしらったストラップ。続いて、ゲームのキャラクターをかたどったアクリルスタンド。そして最後に、二つのマグカップ。


マグカップには、それぞれ異なるキャラクターのイラストが描かれていた。


二人とも、凪乃が特に好きだと話していた主要キャラだ。


「わぁ……ッ」


凪乃はマグカップを両手に取り、交互に見比べる。その瞳には、久しぶりに見る輝きがあった。


「もしかしてこれ、一緒にゲームするときのために買ってくれたの?」


凪乃の言葉に、俺は一瞬反応が遅れた。


「えっ……? あ、ああ……そうだ」


それを聞いて、凪乃はますます目を輝かせる。


………なるほど。


そういうことだったのか。


怜奈が買い物カゴにマグカップを二つ放り込んだとき、俺はキャラクターを絞り切れなかったのかなぐらいにしか思っていなかった。


だが、ようやく合点がいった。


二人で飲むためのペアマグだったのか。


「うれしいなぁー」


凪乃は本当に嬉しそうに笑う。ここ最近で一番の、心からの笑顔だった。


その笑顔を見て、胸の奥が少しだけ温かくなる。


「さっ、今日もゲーム進めてこ? ご飯一緒に食べてく?」


「ああ」


凪乃はマグカップを持って立ち上がり部屋を出る。


弾むように階段を下りていき、お母さーん、と呼びかける。


それから二人でゲームをしていると、しばらくして凪乃のお母さんが夕飯を運んできてくれた。


豚の生姜焼き。


そのお盆には、お茶の入れられた二つのマグカップが並んでいたのだった。


***


翌日の学校。


俺は自分の席で教科書を開いていた。隣の席では夏鈴が、いつものように難解そうな本を読んでいる。


「夏鈴、それ何の本だ?」


夏鈴はページから目を離さずに、背表紙をこちらに向ける。


トマ・ピケティ『21世紀の資本』。端には近所の図書館のラベルが張られていた。


「それ、面白いのか?」


「面白いわ。久しぶりに読むとまた違った視点で観れる」


読むの初めてじゃないのかよ。


俺がこれまで読み返したことある本なんて、マンガくらいなもんだ。


「そんな小難しそうな本、面白いなんてとても思えないけどな」


「知的好奇心。これに目覚めれば、逆に世間に溢れるゴシップやフィクションがひどく退屈に思えるようになるわ」


そんな他愛もない会話をしていると、教室の扉が開いた。


入ってきたのは、金髪を緩やかにウェーブさせた怜奈だ。


「やっほー、お二人さん、今日も仲睦まじいですねー」


怜奈は軽やかな足取りで俺たちの席まで歩いて、ポンと俺の背に手を乗せる。いつものように明るい笑顔で、周囲の視線など全く気にしていない様子だった。


「なに話してたの?」


「夏鈴は頭が良すぎて、アイドルの恋愛沙汰もマンガやアニメのフィクションも楽しめないんだってさ」


「えっ、人生の6割方損してるじゃん。マジ可哀そう……」


怜奈は心底憐れみを込めた目で見つめる。


明らかに、夏鈴は苛立たしげだった。


「……小馬鹿にしてくれるけど、貴女の人生の中に4割程度しか知的好奇心が入る隙間がないことの方が、私には余程憐れに思えるわ」


「知的好奇心が4割?いやいや、2割くらいは美味しいもの食べたりすることだから」


10―6―2=2。


残り2割。


「あとは、1割5分くらいは友達と遊ぶことかなぁー。それと、旅行にも行きたい!」


「知的好奇心が入り込む隙間は……」


「んー……あっ、この前ピタゴラスイッチのビー玉がカチッとハマってたの見たときはくすぐられたわ!じゃあ、2分くらいはあげる」


「2分……」


あまりもの価値観の違いに、夏鈴は頭を抱え込む。


……というか、ピタゴラスイッチは知的好奇心に含まれるのか?


「なぁ、怜奈」


「なに?」


うなだれる夏鈴をよそに、俺は昨日からずっと気になっていたことを尋ねることにした。


「選んでくれた誕生日プレゼント、マグカップにしたのって、俺と凪乃が二人で飲むためだったのか?」


怜奈はポカンとした顔で首を傾げる。


「当ったり前じゃん。他にどういう意味があるの?」


「いや、普通に選ぶのが難しかったから、二つとも買ったのかなって」


「服の色、黒と白で悩んだから思い切って両方買っちゃえ、的な?」


俺が頷くと、怜奈は堰を切ったように笑い出した。肩を揺らし、本当に楽しそうに。


「ウケるー! ななみんって、そういうとこマジ鈍感なんだね」


ショックから少しばかり回復した夏鈴も、呆れたような表情で溜息をついている。


「まぁ、貴方らしいといえばらしいわね」


「なんだよそれ……」


怜奈は笑い終わると、俺の机に手をついて身を乗り出してきた。


「ねぇ、今日は練習ないんでしょ? 遊びに行こーよ」


この前一緒に買い物に行ってから、さらに怜奈とは距離が近くなった気がする。


まだ出会って間もないのにそれを感じさせないのは、彼女の人柄によるものなのだろうか。


「どこ行くんだ? また服選んでくれるのか?」


「買い物は前回行ったからなー。また今度、気が向いたらね」


怜奈はそう言うと、夏鈴の方を向いた。


「かりんっちも一緒に行こー」


「えっ、私も?」


夏鈴が驚いたように目を見開く。


「二人でボーリングなんかしてもつまんないじゃん。他、誘いたい子いる?」


俺は少し考えてから提案した。


「葵とか、多分怜奈と合うんじゃないか?」


「いいね! 陸上でレギュラー取った子だよね? 私、話したことあるよー」


下の学年にまでつながりがあるのか。


ギャル、恐ろしい。


「かりんっちは?」


怜奈が夏鈴に尋ねると、夏鈴はさらりと答えた。


「私、友達いないから」


「えっ、あっ、そうなの……?なんかごめん……」


怜奈が小さくなって申し訳なさそうに謝る。


その様子が夏鈴の癪にさわった様子で、どうしようないというように小さく首を振る。


一見、怜奈と夏鈴は相性が悪いようにも思えるが、俺は違うと踏んでいた。


このクラス、いや学校全体でも、夏鈴に話しかけてくる女子はほとんどいない。


それはどこか、夏鈴自身がふれあうのを避けているようにも感じる。


その理由を俺は聞いたことはないが、聞けば恐らくは「時間の無駄」と返ってくるだろう。


だが、怜奈だけは、夏鈴のガードをすり抜けて、懐に潜り込んできた。


そして不思議にも、夏鈴もつっけんどんには扱わずにきちんと会話をする。


これもまた、怜奈の人柄によるものなのだろうか。


そんなことを話していると、授業開始を告げるチャイムが鳴った。


「じゃ、また後でねー」


怜奈は手を振り、短いスカートをはためかせて、自分の席へと戻っていくのだった。

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