第三十九話 シニアリーグ篇(中学生2年生) その3

土曜日。


河川敷の緑地にある野球場で、高円寺シニアの球児たちが練習に励んでいた。


春の陽光が降り注ぐグラウンド。


白線が引かれたダイヤモンドの上を、ユニフォーム姿の中学生たちが駆け回る。


バットを振る音。グローブに球が収まる音。


そんな聞きなれた日常の音が、グラウンドに響いていた。


俺が中学から所属することになった高円寺シニアは、地域でも強豪とは呼べないチームだ。


メンバー数は46名。


決して結果を出していないわけじゃないが、トップクラスかと言われればそうでもない。


いわゆる、“中堅どころ”。


実際のところ、都内の強豪チームからの誘いがいくつもあった。


残念ながら小学生時代の目標だったU-12の日本代表には選ばれなかったものの、カルムズで結果を出していた俺は、強豪チームにとっても是非とも欲しい戦力だっただろう。


だが、俺はその誘いをすべて蹴って、この高円寺シニアを選んだ。


あれから約一年。


今では、このチームに入ってよかったと思っていた。


休憩時間。


グラウンドの脇、ベンチに腰を下ろしてスポーツドリンクを飲んでいると、背後から声がかかった。


「せんぱぁ〜い」


その声の主がわかった瞬間、俺の背筋に冷たいものが走る。


ゆっくりと振り向くと、肩まで伸びた茶髪をポニーテールにまとめた、小柄な女の子が立っていた。


栗原莉里くりはらりり


彼女は俺が5年生のときに地区大会準決勝で戦った、桜庭ファイターズの相手ピッチャーだった。


当時4年生で、今よりもさらに小柄だったが、異常なほどに身体の扱いが上手く、俺にとってはその大会で唯一ホームランを浴びた相手だった。


莉里は、かつて俺と同じ保育園に通っていて、モテオーラを抑えられなかった当時の俺を好きになっていた。


そして、小学校は離れてしまったものの、俺に振り向いてもらうためだけに、6年間野球の技術を鍛えてきたのだった。


そのことを考えれば、俺の所属する高円寺シニアに莉里が入るのも、当然の流れと言えた。


「何考えてたんですかぁ~?もしかして、リリのこと~?」


「そんなわけあるか」


「じゃあもしかして、リリの裸を思い浮かべてたとかぁ~?せんぱいのエッチ~」


「ば、バカ言え!」


慌てて顔を背ける俺を見て手ごたえを感じたのか、莉里は小悪魔的な笑みを浮かべた。


そう。


まだ同じチームになってそれほど経ってもいないのに、彼女は会うたびに平気で俺にアプローチをかけてきていた。


最初はチームメイトも好奇の目を向けていたが、休憩の度に繰り広げられるこの光景に、今では自然現象のようにスルーされていた。


「せんぱぁい、練習終わったら、一緒にカラオケ行きませんかぁ?リリ、クーポン持ってるんですよ~」


「悪いけど、練習で声張ってるからさ。高い声出ないし」


「実はリリもです。奇遇ですねぇ~」


「なら、なんで行くんだよ」


「密室だから」


「………………」


油断も隙もあったものではなかった。


色仕掛けも含めて、ここまで露骨に言い寄ってくるのは、現状莉里だけと言ってもいい。


莉里は中学でも俺とは校区が違うから、学年の女子がけん制し合うあの輪の中にいないこともあるからかもしれない。


だが、例え周囲がライバルだらけで圧力を感じていたとしても、莉里なら止まることなどしない気はしていた。


「じゃあ、お昼ご飯だけでも一緒にどうですか?実はリリ、ファミレスのクーポンも持ってるんです」


「親が昼飯作って待ってるから」


「それなら、駅前の喫茶店でお茶するのはいかがですか?この前割引クーポンをもらったんですよね」


「今日、昼から予定あってさ」


「なるほど。それじゃ、コンビニでちょっと駄弁るくらいならどうです?リリ、スムージーの無料クーポンも持ってて……」


「お前どんだけクーポン持ってるんだよ」


莉里のアプローチがしつこいのは毎度のことだ。


何度でも何度でも食い下がってくる。


俺に注目されるためだけに野球を極めたのだから、これくらいのことはなんとも思っていないのかもしれない。


莉里はようやく、やれやれといった様子でため息をついた。


「仕方ないですね。今日はせんぱいの強情さに免じて許してあげます」


俺、許される側なのか……?


「せめて、一緒に帰りませんか?それなら邪魔にならないでしょう?」


……まぁ、それくらいが落としどころか。


俺が返事しようとする前に、莉里は上目遣いのまま、赤らんだ頬を耳元に寄せてきた。


「ひと気のないところに行けば、リリ、色々サービスしてあげますよぉ?♡」


「えっ!?」


鼻にかかった、甘えるような高い声で囁く。


不意に、俺の心臓が高鳴った。


「……楽しそうですね。なにを話してるんですか?」


その声に、俺は凍りつく。


ゆっくりと振り返ると、そこには葵が立っていた。


いつもの明るい笑顔。


だが、その目はまるで笑っていない。


「七海先輩、莉里ちゃんと仲良くなったみたいでなによりです」


「いや、違うって」


「そうなんですか?なんだか、いかがわしいワードまで聞こえた気がしたんですけど」


さっきの会話、聞いてたのか。


「おまけに、手まで繋いじゃって」


「手……?」


俺は手元に視線を下ろす。


俺の右手の指は莉里の指と交互に絡み合い、貝殻つなぎをつくっていた。


……いつの間に。


俺は慌てて、莉里の手を振りほどく。


「これは、その………」


「いいんですよ。先輩がモテるのは、今に始まったことじゃないですから」


葵は、にこりと笑う。


だが、その笑顔が無言の圧力。


震えるような怖さを感じさせる。


「今日は、三人で一緒に帰りましょう」


「でも、リリは先輩と約束を……」


「莉里ちゃん、ダメなのかな?」


「………いえ」


今の葵は、鬼や阿修羅も後ずさるような圧力を放っていた。


さすがの莉里も、聞かないわけにはいかないだろう。


「じゃあ、決まりですね」


葵は、にこりと笑う。


俺はスポーツドリンクに手を伸ばし、緊張で乾いた喉を潤す。


ちょうどその時、監督から練習再開の号令があった。


「そ、それでは、リリは行きます!」


そう言って、莉里はその場を逃げるように立ち去る。


「じゃあ七海先輩、また後で」


葵も俺に手を振り、駆けていく。


ベンチには、俺一人が残される。


スポーツドリンクをまた一口飲み、そしてため息をつく。


……まったく。


練習の度にこんなんじゃ、甲子園に行く前にメンタルが崩壊してしまいそうだ。



***



「それじゃ、またな」


「今日はおつかれさまでした!」


帰り道の途中で莉里と別れてから、最後に深々と頭を下げて塀の向こうへと消えていく葵を見送って、俺は自転車のペダルを思い切り踏み込んだ。


二人のペースに合わせて帰っていたら、ずいぶんと遅れてしまった。


駅前の駐輪場に停めて、ホームへと向かう。


その改札口の前で、すぐに怜奈の姿が目に入った。


金髪をウェーブさせた、派手な出で立ち。


デニムのショートパンツにオーバーサイズのパーカー。


首元、手首、耳には、ジャラジャラとシルバーのアクセサリーがついている。


中学2年でこの格好。


まごうことなきギャルだった。


「やっほー、ななみん」


怜奈は、軽く手を振る。


「悪い、待たせた」


「え、そうなの?」


彼女は左手首の腕時計を見る。


「わ、ほんとだ。ゲームしてたから全然気づかなかった」


怜奈はスマホを肩掛けのバッグにしまった。


「じゃあ、行こっか」


そのまま駅の改札を通ろうとする怜奈を、俺は呼び止める。


「なぁ、駅前で探すんじゃなかったのか?」


「そんなこと、一言も言ってないじゃん。別に私はいいけど、ななみんが困るんじゃないの?」


「えっ、どういうことだ?」


怜奈は、にやりと笑う。


「ほら、同級生の女の子に見つかりでもしたら、大変なことになるでしょ?」


「……………」


たしかに。


俺が女の子と二人で買い物なんてしているところを見られたら、それこそ月曜日に暴動が起こってもおかしくない。


「モテ男はつらいですなぁ〜」


怜奈は、にしし、と笑う。


その表情は、完全に楽しんでいる。


「お前、俺のこと面白がってるだろ」


「バレた?」


「バレバレだよ」


電車に乗り込み、着いたのは3つ先の駅に隣接したショッピングモール。


土曜日の昼下がりとあって、モールの中は買い物客や遊びに行く学生たちで賑わっていた。


「とりあえず、どこ行く? まずは無難に雑貨屋とか?」


「そうだな。そのあたりから探し始め……」


そのとき、突然怜奈は俺の腕を掴んだ。


「おい、いきなりなにするんだよ」


「シッ! しゃべんないで!」


怜奈は俺を引っ張って、そのまま子ども服のショップの陰に隠れる。


「なんだよ、一体」


「いいから!」


怜奈は、壁の端からわずかに顔を出して向こうを覗き込む。


俺も同じように壁の端から見る。


そこには、着飾った同年代の女の子3人が歩いていた。


「あれ、たしかうちのクラスの女子だよな」


「もう! ななみん早く隠れて!」


頭を掴まれ、両手で押し戻される。


怜奈の手が、俺の頭を壁側に押しつける。


その力が、意外と強い。


「ええっ。天津あまつちゃんもいるし、あそこマリコのグループじゃん。………うわっ、ユイカ先輩たちまでいる………」


怜奈は、壁際から覗き込みながら、次々に指差す対象を変えて、つらつらと名前を列挙していく。


むしろ、ギャルの人脈の広さにこちらが驚く。


「なんでこんなにうちの学校の子がいるわけ………!?」


怜奈は、頭を抱える。


そんななか、頭上のスピーカーから、店内アナウンスのジングルとアナウンスが流れ出した。


『You Generations<ユージェネレーションズ>トークショーは、14時より6階特設会場にて行います』


「えっ、ユージェネ!?」


怜奈は素っ頓狂な声を上げ、服屋の子どもたちが一様に俺たちを見た。


よく見ると、モールの天井からは、派手な衣装に身を包んだ6人の若い男が描かれた懸垂幕が等間隔にいくつも下がっていた。


「あちゃー、これが原因かぁ〜」


怜奈は、がっくりと肩を落とす。


「なんだこいつら」


「ななみんユージェネ知らないの!? "遅れてる"通り越してもはや"化石"だよ?」


「えっ、マジで?」


「そうだよ!"化石"通り越してもはや"打製石器"かも」


それはよく意味がわからないが。


「あたし、アイドルとか全然興味ないの知ってるから、誰も声かけてくれなかったんだろうな」


俺も、壁際から状況を確認する。


正直なところ、俺は学校の女子の顔と名前をあまり覚えていない。


だが、怜奈の反応を見たあたり、ショッピングモールの中は、うちの学校の女子生徒がかなりの数いることが想定される。


スマホで時間を確認する。13時24分。


トークショーが始まるまでの30分もの間、この陰に隠れているのはさすがに無理がある。


「これだけ知り合いがいれば、見つかるのは時間の問題か」


「そうだね」


見つかってしまえば、クラスの雰囲気が変わり、最悪の場合学級崩壊に至ることも考えられる。


かの小学一年生の頃の悪夢が再現されることになる。


思わず、俺の身体は震えだす。


どうやってこの場を切り抜けるか。


俺たちは、窮地に立たされていた。

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