第三十六話 少年期(小学5年生) その29
心臓が、身体を揺らすほどに鼓動を打っているのが感じ取れた。
俺はバッターボックスの白線の内側を二度足で払って、地面を馴染ませる。
10回表、ツーアウト、ランナー1塁。
前の打席でバントに失敗したのは痛かったが、それでも敵の外野の守備力からして、一打いいのを飛ばせば、ホームに帰ってくることも視野に入ってくる。
それがわかってか、先ほどまでマウンドで、憎いまでの不敵な表情を浮かべていた和葉の顔からも、もはや笑みが消えている。
バットを構える前、キャッチャーの高津和喜の方に目を向けた。
キャッチャーマスクの向こうの目が、こちらと合う。
「さっきはうちの下手くそを狙ってバントなんてしてくれたが、また卑怯な手を使う気じゃないだろうな」
「次は前に飛ばしてやるよ。何度もカットして嫌がらせしたお前らとは違うからな」
「……………」
向こうは何も言わずに、顔を背ける。
これ以上会話をする気はないようだった。
さっきまで好き放題言ってくれたのに、勝手なものだった。
バットのグリップを握りしめ、まっすぐ立てたバットを見据える。
黄金色の塗装が太陽の光を反射して、眩しく輝く。
きっと相手は、凡打を狙いにくるはずだ。
これまでの和喜の配球の傾向からして、外角少し甘めのコースに誘い球を置きにくる。
それをすくい上げて打つこともできるが、ここは長打が欲しい。
狙いは、内角を狙って中心に寄った球だ。
そいつを強振で打って、ツーランホームランを決める。
和葉は二度一塁を見やった後、いよいよ投球フォームに入った。
そして投じた、一投目。
それはこれまでになかった、緩やかすぎるほどの軌道。
スローボール。
向かっていった先は、俺がまったく予想をしていなかったコースだった。
「ボール!」
球筋を見送ったその視線の向こう、ホームベースを挟んだ右手のバッターボックスの端に和喜は立っている。
ストライクゾーンから大幅に離れた場所で捕球されたその球の意味は、誰の目から見ても明らかだった。
続けて投げられたのも、まったく同じコース。
それがあと2回、計4回続いた先。
「フォアボール!」
「……………」
俺はやりきれない思いを抱えながら、バッターボックスの外へ力無くバットを放る。
遠くで直立する和喜を、じっと見据える。
「……睨むなよ」
「卑怯はどっちだよ。ここにきて敬遠なんて」
「………仕方ないだろ。父ちゃんの指示なんだから」
急激に、頭に血が昇っているのを感じる。
あれだけ大口を叩いておいて、勝負から逃げるなんて。
俺はさらに何か言ってやりたくなって、和喜の元へと一歩一歩と近づいていく。
そこで、後ろから肩を叩かれた。
「君、早く一塁に向かいなさい」
主審のおじさんだった。
「……………」
仕方なく、俺はバッティンググローブを外し、一塁へ走る。
この展開は腹立たしいものではあったが、チャンスであることにも変わりはなかった。
続くバッターは、凪乃なのだ。
ツーアウトで、ランナーが一塁二塁。得点圏にランナーがいる。
バッターボックスに立った凪乃は、前髪を払ってから宙を見た。
それから、一度俺の方に視線を移す。
目が合うと、俺はエールを込めて頷いた。
すると、凪乃も小さく頷き返す。
そして、静かにバットを構える。
その表情は、冷静。
だが、その裏には負けず嫌いな彼女の、はち切れんばかりの闘志が隠れているはずだ。
幸い、様子からして緊張に押しつぶされてはいない。
普段こそふわふわしているが、こういったときには強い。
一塁側から和葉の横顔を確認すると、彼女は闘志を隠す様子もなく、ギラギラとした目で凪乃の方を睨んでいる。
しばらくの間があり、ようやく和葉が動き出す。
突如として、素早い動作で二塁を牽制。
虚をつかれたランナーの子は慌てて戻るが、幸いほとんどベースから離れていなかったため、無事に戻る。
「危ないな………」
ヒヤヒヤものだった。
こんなところでアウトを取られたんじゃ、あまりにあっけない。
ベンチからは応援の声。
数度、和葉は首を降った後、キャッチャーのサインに応じる。
少しの間。
そこから急に動き出し、コンパクトな動きで、投じられる。
「ボール!」
初球は、外してくる。
そこを凪乃も読んでいたようで、微動だにしなかった。
続く二球目は、内角ギリギリを突くいいコース。
これを見逃し、ワンストライクワンボール。
「……………」
流石に、上手い。
なかなか簡単には打たせてはくれない。
そこからは、ボール一つとファールが続く。
これでツーボールツーストライク。
早くも追い込まれた。
二塁の方を見ると、ランナーは最低限のリードだけをしてピリピリした表情でピッチャーの挙動を確認している。
もしも二塁ランナーが俺だったら、リードの強弱や盗塁を匂わせることで揺さぶりをかけていただろう。
だがそれもできない今、俺は凪乃の対戦を固唾を飲んで見守ることしかできない。
五球目。
厳しい外角ボール気味の球を、凪乃はカットする。
白球は軌道を逸らされて、バックネットにぶつかる。
そこからは、ファールが三球続いた。
「……………チッ」
和葉は苛立ち、悪態を突くように大きく舌打ちをする。
対して凪乃は、冷静にバットを構え直している。
この連続のカットは、さっきの打席のように、自分がされたことをやり返しているわけじゃない。
勝負を決めに行くための打ち頃の球が来ないのだ。
そして次に投げた球は、苛立ちが手元に出たのか、大きくすっぽ抜けた。
キャッチャーは機敏な反応でなんとか捕球する。
これで、フルカウント。
ここまでくると、フォアボール覚悟のボール球、という選択も考えられる。
相手にとっては満塁のピンチになるが、葵のバッティングはまだまだだから、大した脅威にはならない。
相手の作戦勝ちか。
そして次の一球。
キャッチャーが構えたのは、ストライクゾーンだった。
ここは、あくまで勝負でくるか。
和葉は身体を捻り、腕を振り上げる。
その瞬間、俺の中で不意に、違和感が湧き起こる。
わずかに、フォームが違う。
投げられた球は、やや中心寄りの内角高め。
「…………ッ!!」
凪乃はすかさず反応。
そして、身体を畳んだフルスイング。
重心を全てバットの先に集めるような、豪快な一振りが白球を捉えて、甲高い打撃の音がグラウンドに響く。
それと同時に、俺と二塁ランナーはスタートを切る。
「やったか!?」
カルムズのベンチは歓声に沸く。
だが、まだ早い。
打球が高すぎる。
白球はセカンド頭上を飛び越し、ぐんぐんと飛距離を稼ぐ。
はるか上空の球の軌道を目で追いながら、二塁を蹴る。
「どけっ!!」
そう叫んだのは、高身長の少年。
「俺が行く!!」
そこにいたのは、高津嘉喜。
ショートを守っていたはずのこの男が、今センターの位置まで到達している。
打球の飛距離は、ホームランコースギリギリ。
入るか、入らないか。
嘉喜が身を乗り出し伸ばしたミットの先に、白球が触れる。
そしてその球は………。
落ちることなく、そのままミットの先に留まった。
「アウト!チェンジ!」
今度は、相手チームの声が湧き上がる番だった。
攻守交代で選手が動いていく。
その最中、俺はさっきの最後の投球を思い返していた。
あの球の軌道。
凪乃の手元で、微妙にブレた気がする。
あれって………。
「ツーシームじゃないのか………?」
***
「ゲームセット!」
そうして試合は、延長12回まで続いた末に、終了した。
2対1。
高津嘉喜のタイムリーによって、MKスラッガーズのサヨナラ勝ちとなった。
「礼!」
俺たちは一礼して、相手方チームが喜び盛り上がる様を、呆然と眺めていた。
それは俺たちの全国大会が、潰えた瞬間だった。
帰りのバスの中は、すすり泣きの声が各所から聞こえる、これまでにないほど重苦しい空気に包まれた。
「私が、きちんと打っていたら………」
凪乃までもが、自分のプレイを振り返って泣いていた。
その背を葵は撫でながら、自身も涙を流している。
そんな中で、俺は呆然と、その結果を受け止めていた。
泣いたりはしない。
前世でも今回の人生でも、全国の切符を逃したのは、何もこれが初めてじゃない。
感情は別のところにあった。
「濱北さん」
信号待ちになった時、俺は席を移動して、前方の濱北さんに声をかけた。
「なんだ?」
「凪乃が最後に打った球。あれ、ツーシームじゃなかったですか?」
「延長11回の打席か?」
濱北さんは難しい顔をして、顎を撫でる。
「故意に投げたんじゃないか、と言いたいのか?準決勝の栗原莉里みたいに」
「そうです」
「なんとも言えないな。正直、あの高津和葉って子も、球筋は綺麗な方じゃなかった。確かに最後はツーシームとも取れるかかり方だったが、審判が反則と取るかは、微妙なところだろう」
事実、俺は試合後に、このことを主審に伝えてみた。
だが、彼はなんでもないように首を振ってこう言っただけだった。
『普通のナチュラル変化だろう。少年野球じゃよくあることだよ』
まるで相手にしてもらえなかった、と言ってもいい。
あれが、言ったのが投球の直後で、相手が監督や濱北さんだったら、違ったのだろうか。
濱北さんは俺の肩を二度叩く。
「考えても仕方のないことだ。全部終わった今、それを言ったところで仕方がない」
わかっている。
だけど、今回の大会は、本気で全国大会を目指していた。
そして、今回のチームなら、全国に行けると信じて疑わなかった。
今泣いている選手たちと同じかそれ以上に、悔しさはある。
だが、胸の内に巻き起こっていたのは、悔しさ以上に、不安だった。
これまで出会った中だけでも、藍染や高津兄弟といった、才能に溢れた選手がいたのだ。
彼らと俺を比べて、圧倒的優位差があるのかと言えば、決してそうじゃない。
俺は本当に、この二度目の人生で甲子園に出られるのか………?
そのことを思うと、自然と、俺の目からも涙が溢れ始めたのだった。
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