第二十八話 少年期(小学5年生) その21
翌る日の朝。
俺はベッドの上で体温計を脇に挟みながら、葵の手書きのオーダー表を眺めていた。
そこにメモされた背番号の一桁台に俺の名前はなく、スターティングメンバーにも入っていない。
それは何度見ても同じだし、そんなことはわかりきっていた。
わかってはいても、見ずにはいられない。
俺はこの七海健人の人生を歩み始めてから、ずっと野球において同年代を圧倒していたし、試合でもポジションは確約されていた。
スタメンを降ろされたことなんてなかったのだ。
さらに言うなら、それは前世の時だって同じことだった。
俺は早くから野球に打ち込んで、小中では早々にエースとして活躍していた。
だからこそ、名門高校で一年生にしてベンチ入りして、3番手の投手にまで選ばれたのだ。
そのせいで、俺は先輩の妬みを買っていじめられたわけだけれど。
自慢じゃないが、俺はろくに控え選手を経験しないままここまで来た。
だから、5年生にして控え選手入りしたこのショックは、到底簡単に消し去れるものじゃない。
体温計が、小刻みな電子音を鳴らす。
抜き取ると、36.5℃とあった。普段通りの平熱だ。
俺は冷感シートを額から引き離す。
とにかく、少しでも状況を良くしなければ。
立ち上がるとまだ気怠さは残っていたが、随分と身体は楽になった。
キャッチボールくらいなら、今日からでもできるだろう。
今からでも動けることをアピールして、登板の機会をもらわなければ。
そうしないと、きっとチームは優勝できない。
唐突にドアが開く。そこから、エプロン姿の母親が中に入ってくる。
「あら、治ったみたいね。顔色もいいじゃない」
「ああ。試合は明後日だし、休んでなんかいられない」
「ほんと野球ばっかりの子ねぇ。前世はバリー・ボンズか何かだったのかしら」
「その人まだ生きてるよ」
ご飯作るから降りてらっしゃい、と言って、母親は下の階へ降りていく。
俺はタンスから洋服を取り出して着替える。
バリー・ボンズだなんて、前世はそんないい人生だったわけじゃない。
ろくに結果を残せないままこの世を去ってしまった。
果たせなかった、甲子園の夢。
そのために、まずは目の前の試合に立ち向かって、次に繋げていかなければならない。
やるぞ。
気持ちを新たに引き締めて、俺はドアを開いたのだった。
***
「いや、ダメだ」
放課後の、河川敷のグラウンドで行われたカルムズの練習。
休憩時間中に、俺は遠坂監督に決勝の試合の出場を相談した。
その相談の結果が、これだった。
「オーダーはもう決まってるんだ。変えるつもりはない」
監督は腕を組み、断固とした表情を見せる。決意は固いようだった。
「でも、俺ちゃんと回復しましたし、練習だって参加できてるじゃないですか」
「お前がどうしてもと言うから入れているだけだ。そもそも、お前昨日寝込んで、まだ本調子でもないんだろう。当日しっかりと結果が出せると、言い切れるのか?」
「それは……………」
自信はあるが、いつもよりいくらか劣るのは間違いないだろう。
だが、それでも他を圧倒するほどの実力がある自負が、俺にはある。
「きっと、後続ピッチャーのことで心配しているんだろうが、田井中だって調子を上げてきてる。病み上がりのお前と、本調子の田井中、どっちがいいかはわからないだろう?」
「俺の方が絶対いいピッチングしますよ」
しばらく監督は俺の目を見ていたが、やがて息を吐いて表情を崩した。
「なぁ健人、別に今回が全国大会のラストチャンスってわけじゃない。お前が6年になってからだってあるんだ」
「でも、監督だって、凪乃を世界戦の代表にさせてやりたいでしょう?」
そのためにスカウトに顔を売る。それが、監督のこの地区大会を優勝して全国大会に出場する、一番のモチベーションだったはずだ。
「もちろんそのつもりで今日まで頑張ってきた。だが、選手に無理をさせてまで掴みに行くものじゃないと思う。世界戦に出られたところで、あくまで経験の一つなんだからな」
「……………」
これまでも凪乃中心の生活をしてきた子煩悩な監督がここまで言うのだから、もうこれ以上俺が入る余地はないようだった。
「ななみくーん」
後ろから、凪乃が声をかけてくる。
「お父さん、試合に出させてくれるって言ってた?」
「いや、無理だってさ」
「そっかー……」
凪乃は純粋に落ち込んだような、しょんぼりした顔を見せる。
成長して、凪乃も段々と、プライドの高いところや自分を曲げないところ、いろんな一面が見えるようになった。
だが、昔からの純粋で優しいところは変わりがない。
「なぁ、凪乃も監督に言ってくれよ。この際、ライトでも守って、バッティングに専念するでもいい」
「無理だよー。お父さんは決めたら絶対に曲げないから」
それは俺も長い付き合いから十分にわかっていた。
だが、それでもなお、どうしてもこの決勝戦は制したい。
そのためには、俺も試合に出る必要があるのだ。
アラームが鳴り、休憩時間が終わる。
俺はうなだれながら、グローブを取ってグラウンドに向かう。
「健人」
その時、後ろから濱北さんに呼び止められた。
「聞いたぞ。お前、体力をつけようとして、無理してランニングしてたんだって?」
「まぁ………」
濱北さんは俺の背中を叩き、ベンチに座るように促す。
他のメンバーが守備練習の位置につく中、俺は濱北さんと隣り合う形でベンチに座った。
「努力を否定するつもりはないが、どうして俺に相談しなかった?これまでずっとそうしてきただろう」
「………わかりません」
きっと、相当に心が乱れて、焦っていたのだと思う。
それに、体力がないという課題が明確だったのもあるのだと思う。
二度目の人生だというのに、基礎体力をつけておくなんて、基本的なことが抜けていた自分を恥じてもいた。
「準決勝は、お前にとってスタミナ不足っていう課題が浮き彫りになった試合だったとは思う。だがな、それはランニングをすれば解決する問題でもないんだ」
「そうなんですか?」
「それで解決するのなら、野球選手はみんな狂ったように走ってるはずだ」
濱北さんのいう通りだった。
プロの選手だって、人によって体力の有る無しがある。
みんな相当な訓練をしているのに、やはりパフォーマンスには体力にされている。
「俺のみる限り、人間っていうのは、肺活量や筋肉量では測れない、基礎的なスタミナがある気がしてる。それは人それぞれあらかじめ決まっていて、伸ばすことはできてもどこかで限界がくると思ってる」
濱北さんに珍しく、いくらか抽象的な話だった。
俺が固まっていると、濱北さんはポケットからスマートフォンを取り出した。
「スタミナがスマホのバッテリーだとしよう。世界中には何千何万種類とスマホがあるが、それぞれバッテリーの容量は違う。仮に俺のスマホのバッテリー容量が100だとすると、海外産の安い機種は80くらいかもしれないし、最新のiPhoneは150くらいあるかもしれない」
そこで、ようやく俺は合点がいく。
あらかじめ決められた、人間の先天的な体力というものがある、という話だ。
「バッテリーを大容量のものに交換して、120くらいにすることもできる。だけど、俺のスマホの規格に合うものでは限界がある。150にはきっと永遠に届かない」
「つまり、俺がランニングをどれだけしても、俺の80の体力は100くらいまでにしかならない?」
「人間はスマホじゃないから、お前のスタミナが元から80なのか、あるいはかまけていて80まで落ちていたのかはわからない。だが、今後ともお前のハンディになることは確かだ」
俺は前世の記憶があり、その上で二回目に得た身体だから、比較ができるしわかる。
この身体は、先天的なスタミナには恵まれていない。
「この先天的なスタミナは、単にランニングの持久力の話じゃない。社会に出てみれば、筋肉質でもすぐに風邪を引いて仕事を休む奴もいるし、逆にヒョロヒョロでスポーツなんてしていないのに、長時間働いてもへっちゃらな奴もいる。その体力の部分は、ある程度食事や運動や睡眠の習慣で良くはなるが、元々持った差は存在する」
スタミナに恵まれていない。それはわかった。
だが、運動で抜本的に変わらないとなると、一体どうすればいいのか。
「話はわかりました。それで俺は、どうしたらいいんですか。先発投手を諦めろって言うんですか?」
「それも一つの選択肢だ。完投型の投手に向いていないなら、違う起用をしてもらう他ない。それに、ピッチャーというのは野球のポジションの中でも一番運動量が激しい。外野にでも転向すれば、その問題は解決する」
少し考えるが、俺は静かに首を振る。
他のポジションに転向するなんて、あり得ない。
もちろんこれまで、投手以外のポジションも色々と経験してきたが、俺にとって投手ほど面白いものはなかった。
それに投手をする以上は、先発で完投する投手を一番に目指すものだ。
最初から中継ぎのワンポイントを目指す奴なんて滅多にいない。
「まぁ、そうだろうな」
言葉にはしなかったものの、濱北さんは俺の意思を感じ取ったようだった。
「これまでのお前は、同年代の中で圧倒的な速球とコントロール、それに勝負勘で戦うピッチングをしてきた。それは、誰もに実力差を感じさせて、自信をなくすような、力でねじ伏せるような戦い方だ。それで、これまで通用してきたし、前回の試合だって途中まではうまくいっていた。だが、それでは体力がついていかなかった」
「その通りです」
「それなら、戦い方は二つしかない。お前がやったみたいに体力を無理矢理にでも上げていくか、もしくは違う戦い方をするかだ」
違う戦い方。
頭に、一つだけ浮かんだ。
「打たせて取るピッチング、ですか?」
「そうだ」
準決勝の後半、スタミナが切れて延長の中でも戦うための苦肉の策として、俺はそれをした。
濱北さんが言っているのは、これまでの全力を出し切るピッチングではなく、あえてスイングを誘って凡打を量産するという、技巧派の投げ方だ。
これを主軸に置いていくということは、俺のプレースタイルに大きな変革が伴うことになる。
「気に入らない、といった顔だな」
「そんな顔してます?」
俺は冗談めかして顔に触れる。
だが、正直のところそう思っていた。
狙ってとはいえ、あえて誘うような球を投げるなんて、ピッチングとして華がない。
真剣勝負で相手を打ちのめすから、対決をして楽しいし、観衆も盛り上がるのだ。
それに、そんな誘い球をうまく当てられてヒットになったとなれば、俺も不完全燃焼だ。
「まぁ、お前の気持ちもわからなくはない」
グラウンドのノック練習の姿を眺めながら、濱北さんは言った。
「だけどな、お前もここまで野球に打ち込んでいるのなら、当然プロを目指しているだろう。本来、プロの投手というのは三振よりも打たせて取る方がいいんだ。お前の肩は消耗品だから、使えば間違いなくすり減っていく。3球投げて三振を取るよりも、1球でゴロで討ち取る方が遥かに省エネで身体の消耗も少ない」
「それは、わかるんですが…………」
俺だって、故障のリスクを恐れていないわけじゃない。
だが、全力でいかずに負けるのは、納得がいかない。
金属バットが音を立てて、遠坂監督がセンターのフライをあげる。
俺はその弓なりの軌道をぼんやりと眺める。
「臙士の現役時代を知っているか?」
俺は濱北さんの顔をみる。
それから頷く。
「みんなが見惚れるような華々しいピッチング。あいつには華があった。だけど、あいつも身体が強い方じゃなかった」
「え、監督がですか?」
俺は思わず聞き返す。
意外だった。そんな噂も特に聞いたことがない。
「臙士は一試合を完投できるだけのスタミナは持っていた。だけどそれも後天的につけたものだったから、翌日の身体にはしっかりと影響したんだ。肩や肘の張りが目立ったし、シーズンの後半になると、近くで見ている俺には日に日に球威が下がっていくのがわかった」
「でも、シーズン終わりでもちゃんと結果を残してた記憶がありますけど」
「本人は必死に調整していたからな。身体が強くないことを隠して、なんとか結果を残そうともがいていた」
あの遠坂臙士が、そんな見えない苦労をしていたなんて。
さすがのプロ根性だ。
「もしかして、だから監督は結果的に肘の故障につながったんですか?」
「さぁ、それはわからない。だが、球団側も臙士に無理をさせすぎたことは事実だろう」
だから、あそこまで監督は俺が登板することを拒んだのか。
もしかすると、監督は自分自身と俺を重ねているのかもしれない。
「俺に、打たせて取るピッチングを教えてください」
「ああ。本当のことを言うと、そのピッチングこそ、俺の得意とするところだ」
濱北さんは立ち上がり、グローブをはめる。
「俺も、それに臙士も、お前なしには決勝に勝つ事はできないと思っている。二日間の練習でちゃんと打たせて取るピッチングができれば、俺からも臙士を説得してみる」
濱北さんが前向きになってくれている。
まだ、チャンスはある。
「試合に出るなら、体力は温存した方がいい。集団練習を抜けて、ストレッチでもしていろ。チームの練習が終わった後、俺と個人練習をしよう」
「はい!」
俺は拳を握りしめる。
次の試合に勝って、絶対に優勝する。
俺は力強く自分に誓うのだった。
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