第二十七話 少年期(小学5年生) その20

「はぁ………はぁ……………」


淡く輝く夕日が、遠くの方でぽっかりと浮かんでいる。


茜色の空の下、俺は息を乱しながら、腕を振り緑地公園の外周を走っていた。


帰路を歩くサラリーマンと時々すれ違う。


遠坂家の屋内練習場からの帰りに、俺はこの緑地公園でランニングを続けていた。


とはいえ、まだ二日になる。


不意に、この前のファイターズとの試合の光景がフラッシュバックする。


よろよろとしながらベンチへ向かう足取りや、身体中を巡る倦怠感も同時に呼び起こされる。


あそこまで体力がないとは、正直思いもしなかった。


そして、それがここまで試合に影響するということも。


この二回目の人生において、スタミナをつける練習というのはほとんどやってこなかった。


その必要性すらも、あまり感じていなかったのだ。


遠坂監督は、俺と凪乃の怪我を恐れて、これまで長いイニングを投げさせるということをしてこなかった。


だから、試合で疲れ果てるという経験もあまりしてこなかったのだ。


街灯に灯りが灯り始めた頃、ちょうど俺は決めた分の周回を終えて、ベンチに置いたスポーツドリンクを飲んだ。


あとこれを3セット繰り返していく。


前の人生においても、こうまでストイックに体力作りをしたことがない。


そんなことをしなくても、投手として完投することはできたのだ。


つまりは、これが今回の身体のポテンシャルというわけか。


休憩を終えて立ち上がる。


日中の練習の疲れもあって、身体を重だるい倦怠感が包む。


「あと3セット………」


もうあんな醜態を晒すわけにはいかない。


次はいよいよ地区大会の決勝なのだ。


あの藍染のいる八王子オリオンズのことが頭に浮かぶ。


地区が違うから決勝で当たることはないが、あの実力ならきっと決勝まで上っていることだろう。


なんとでも決勝に勝ち、全国大会の場で肩を並べたい。


俺は二回目の人生なのだから、同じ学年の人間に負けるわけにはいかない。


ただでさえ、この前の試合は莉里相手にホームランを打たれたんだからな。


絶対に負けられない。


そんな思いを胸に、俺はまたランニングを再開するのだった。


***


そうして迎えた次の日の朝。


俺はベッドの上で横たわっていた。


脇には体温計、頭には冷感シートという、誰がみても状況がわかる出立ちで。


ピピピッ、と体温計から電子音が鳴り、俺は重だるい手でそれを引っこ抜き画面を確認する。


37.8℃。


「……………ああぁ〜〜〜」


やってしまったっっ……………!!


完全に、この数日のランニングの無理が祟った結果だ。


今日は木曜日だから、試合は2日後ということになる。


これはとんだ大誤算だった。


当日のコンディションも気になるが、そもそも2日で熱が下がって出場できるかすらも怪しい。


俺は見事に、判断を誤ったわけだ。


「これはお休みねぇ。学校に連絡しないと」


隣にいた俺の母親も体温計の画面を見て、首を横に振った。


「食欲はある?おかゆは食べれる?」


「吐いてでも食べる……………」


「吐くなら食べないでよね。もったいない」


母は立ち上がり、俺の部屋を出て行った。


学校に連絡しに行くのだろう。


俺は壁掛けのカレンダーを眺める。


あと2日で決勝戦。


俺がいなければ、当然先発には凪乃が出ることになる。


凪乃の仕上がりも心配だが、それ以上に後続のピッチャーの問題がある。


うちの三番手のピッチャーは6年の田井中くんだが、決勝で投げるには力不足の感が否めない。


去年であれば、6年にいいピッチャーがいたが、中学に上がり卒団してしまったのだ。


是が非でも決勝にはコンディションを戻さなければならない。


何か、できる限り身体を動かさずしてできるトレーニングはないものか。


イメージトレーニングか?


いや、頭がぼうっとしてそんなのおぼつかない。


ネットでレッスン動画を観ることもできたが、身体を動かさない状態で頭にだけ入れてもほとんど役には立たない。


………よし、寝よう。


休むことが今できる中での最適解である気がする。


握りしめていた体温計を勉強机の方に放り投げ、布団に潜り込む。


すると、ものの数十秒で驚くほどすぐに睡魔がやってくる。


よほど身体が疲れているのだろう。


これならすぐに眠れそうだ。


そんなまどろみの中で、階段を上がる音がする。


それから、ドアが開く音。


最後に聞こえたのは、母親のため息混じりの声だった。


「健人、あんたおかゆ食べるって言ったじゃないのよ……………」


***


そうして、再び目を覚ました時には、時計は午後4時を指していた。


頭が重だるい。


半日寝ていたのだから当然だろう。


「ああ、起きたのね」


声のする方向に目をやると、馴染みのあるツインテールがあった。


「夏鈴か」


夏鈴は俺のデスクチェアに座って足を組み、表紙に『高慢と偏見』と書かれた文庫本をペラペラとめくっていた。


「どうしてここにいるんだ?」


「明日の予定、持ってきてあげたの。自分が持っていこうと、他の女の子たちがこぞって手を挙げようと牽制し合ってたけど、真っ先に手を挙げたらなんとかなったわ」


「助かるよ」


このタイミングで俺のことが好きなクラスの女の子が来た時には、落ち着いて身体を休めてなんていられないからな。


俺は起き上がり、ベッドの淵にもたれかかる。


「辛いの?」


「まぁな。でも、朝よりかはいくらかマシになった気がする」


夏鈴は勉強机の上に置かれた体温計を手に取り、俺に差し出す。


脇に挟んでいる間、夏鈴は物珍しげに部屋を見回す。


「貴方の部屋に来るのは久しぶりね」


「確かにな。いつが最後だっただろうな」


俺と夏鈴は保育園の頃からの付き合いだったが、その頃から良くお互いの家に遊びに行っていた。


転生者同士、話したいことが山ほどあったが、保育園児の姿で、公共の場で話せることではない。


だから、誰にも会話を聞かれないお互いの部屋で一緒にいることが多かったのだ。


「おばさんは買い物に行っちゃったみたいよ」


「そうか、ちょうどいいな」


「………それ、どういう意味?」


訝しげな顔で俺を見る。


「突然部屋に入って来られる心配なく、気兼ねなく話せるだろう。他にどういう意味があるんだよ」


「……………」


夏鈴は何も言わずに、本に目を戻した。


しっかり眠ったら、腹が減ってきた。


勉強机には、小さな土鍋に入ったおかゆが盆に乗せて置かれている。


夏鈴にそれを取ってもらって、俺はすっかり冷めてしまったおかゆを一口食べた。


静けさの中、時計の秒針だけが音を立てている。


時々、トラックやバイクの走行音。


夏鈴は時折足を組み替えて、上品にページをめくる。


今は練習量を増やしたからあまり一緒に過ごせていないが、それまではよくこうして一緒に過ごすことが多かった。


夏鈴は、俺と二人きりで部屋にいても、平気で本を開く。


だがそれが返って気を遣わなくていいと思えるし、俺は俺でゲームや、好きなことができた。


それにかれこれ5年以上の付き合いだからだろう、一緒にいてとてもリラックスができた。


「そういえば、この前の試合」


本から目を離さないままに、夏鈴は言った。


「終わった後、栗原莉里となにか話はしたの?」


「いや……………」


莉里は試合終了後もえらい荒れようで、周囲にたしなめられながらグラウンドを後にしていた。


俺と話している余裕なんてなかったのだろう。


「あの試合、貴方とても疲れてたでしょ?あれが祟って熱が出たんじゃないの?」


「いや、それもあると思う。だけど、別で理由があってだな……………」


俺は試合後、毎日練習の後にハードなランニングのトレーニングをしていたことを打ち明けた。


夏鈴はまるで残念な生き物でも見るように首を振った。


「呆れた………」


「だろうな」


「きっと、とびっきりの馬鹿なのね」


「そこまで言うか」


夏鈴はため息をついて、また首を横に振った。


「合理性を欠きすぎて、私には到底理解できない」


「だろうな」


「……………でも、それほど情熱を持っている人間が、スポーツの世界では大成するのかもね」


「それって、褒めてくれてるのか?」


夏鈴は今日初めての微笑みを見せた。


「今となっては、慰めるくらいしかできないでしょう?」


長い付き合いだから、夏鈴の気持ちはわかる。


皮肉屋な彼女なりに、元気づける言葉をかけようとしているのだ。


夏鈴って、なんだかんだ、優しいところもあるんだよな。


そんないい感じの雰囲気の中、下の階でインターホンが鳴った。


俺が立ちあがろうとすると、夏鈴が手で制した。


「私が出るわ。何かの勧誘やセールスなら断っておくから」


そう言って、彼女は階段を降りていった。


その後ろ姿を見届けて、俺はおかゆを口へ運んでいく。


しばらくの静けさ。


しかし突然、ドタドタと階段を駆け上がる音が聞こえた。


「七海さーん!!」


現れたのは、ユニフォーム姿の葵だった。


「どうしたんだよ、練習着のままで」


「心配で心配で、慌てて駆けつけたんです!本当は練習も休もうとしたけど、濱北さんが許してくれなくて………」


「まぁそうだろうな」


「学校もお昼から早退して駆けつけようとしたんですけど、その時も担任の先生が許してくれなくて…………」


「そこまでか」


気持ちは嬉しいが、いくらなんでもそれはやりすぎだ。


そんなことを話していると、またインターホンが鳴る。


「行ってくるわ」


夏鈴がまた階段を降りていく。


そしてまた、ドタドタと階段を駆け上がる音がした。


「な、七海くーん、だいじょうぶー?」


「ああ、凪乃か」


やってきた凪乃は、胸を押さえて肩を上下させながら、息をしていた。


「ふふん、私の脚には流石の凪乃さんも勝てないようですね」


ここまで競争してきたのかよ。


練習終わりだというのに、元気なことだ。


「七海くん、遅くなってごめんねー。本当は練習を休んでお見舞いに行こうとしたんだけど、濱北さんが許してくれなくて………」


「お前もかよ」


濱北さんも俺が休んだくらいでこんなことになって、大いに困ったことだろう。


申し訳ないことをしてしまった。


「七海さん、ご飯の最中でした?」


「ん………?ああ、そうだよ」


俺はレンゲで一口おかゆを口に運ぶ。


「うまく食べれますか?あーんして食べさせてあげましょうか?」


「今俺食べたの見えなかったのか……?」


なんのことかわからない、とでも言うように、葵はつぶらな目をパチクリさせる。


「まぁ、それはさておいて、七海さん」


「なんだ?」


「うまく食べれますか?あーんして食べさせてあげましょうか?」


「え、デジャヴ?」


これもしかして、要望が通るまで繰り返すつもりなのか?


RPGの強制選択肢のやり口じゃん。


「お願いします!半あーんだけでもいいので!!」


「なんだよ半あーんって!」


「あーんして、口に入れる直前までで我慢するので!」


「それならいっそ食わせろよ!」


俺たちがおかゆを真ん中に押し問答していると、その渦中のおかゆの土鍋が、ひょいと取り上げられた。


「もう、葵ちゃんー。七海くんは熱が出てるんだから、あんまり大きな声を出させちゃダメだよー?」


「……………ハッ!」


葵は我に帰ったように、大きく目を見開いた。


「すみませんでした。なんだか私、七海さんのことを思うあまり、暴走して………」


「いや………」


モテオーラを抑えられるようになってから、ここまでグイグイ来られたのは久しぶりだな。


「試合も近いんだし、七海くんがちょっとでも回復できるように、ゆっくり休まないとだね」


「ああ、そうだな」


「じゃあ七海くん、あ〜〜〜ん」


「うおぉぉおおい!!」


凪乃の持つレンゲと俺の間に、葵は強引に割って入る。


「今凪乃さん、仲裁キャラでしたよね!?仲裁キャラ然としてましたよね!?」


「え、なんのこと?」


「止めたら自分がやっちゃダメなんです!そういう立ち位置的なのがあるんです!」


葵は必死に訴えるが、凪乃はよくわからないといったように首を傾げて見せる。


「葵ちゃんは、私があーんすることに反対なのー?」


「当然です!私の半あーんを取られて、凪乃さんだけ全あーんをかっさらうのは不公平です!」


なんだよ全あーんって。


「んー。じゃあこうしない?葵ちゃんは手前までの半あーんをして、そこから私が七海くんの口に入れて半あーんするの」


「なんですかそのリレー方式のあーんは!それに、凪乃さんのはもうそれ半あーんじゃないです!口に入れるのはあーんのメイン部分なので、2/3あーんくらいあります!」


なんだよ2/3あーんって。


「じゃあ、手前までが1/3あーんってこと?んー、じゃあもう、私は一回でいいから、葵ちゃんが1/3あーんを二回すれば、お互い合計2/3あーんで平等じゃない?」


「まぁ、それなら………」


あーんされる側の俺がそっちのけで、謎の駆け引きが行われていく。


「いえ、待ってください!私が1/3あーん二回で、凪乃さんが2/3あーん一回の場合、合計1と1/3あーんで、最後の2/3あーんが足りません!」


え、分数の計算?


小学5年の教育要領がまさか、あーんで活用されようとは。


「つまり、二回目の最後に口に運ぶ人が足りないってことだよね?」


「そうです!その場合、流石に凪乃さんが二回目も担うのは不公平です!」


「じゃあ、二回目は自分で食べて貰えばいいんじゃないー?」


「なるほど………!!」


なるほどじゃねぇよ。


それなら最初から自分で食ったほうが早いだろ。


二人はお互いに頷き合い、俺の方を向く。


「では、そう言う話になりましたので」


どういう話だよ。


反論したい気持ちにもなったが、身体も気だるく言い返す気力もない。


俺は夏鈴の方を見て、視線で助けを求めるが、当の夏鈴は我関せずといった様子で『高慢と偏見』に目を戻してしまっている。


そうして流れに身を任せた結果、実に30分に渡って、1/3あーんと2/3あーんの合計値が等しくなるようにレンゲを手渡しする、複雑な食事が繰り広げられたのだった。


「ふぅ…………」


食事が終わり、凪乃と葵は額の汗を拭った。


「満足しましたが、疲れましたね」


「そうだねー」


疲れたのはこっちの方だ。


熱が出ているというのに、このお見舞いでかえって余計に体力を使ってしまった。


「七海さん、今日はお見舞いの他に、実は別の要件もあって来たんです」


葵はカバンから一枚の紙を取り出す。


「オーダーが決まったんです」


それは葵が手書きで書いたオーダー表の写しだった。


スターティングメンバーと控え選手がそれぞれ書かれている。


先発は凪乃のようだった。


打順は、一番に凪乃。これはいつも通りだった。


驚くことに、二番には葵が選ばれていた。


「おおっ。葵、スタメンに入れたんだな!」


「はいっ!」


葵は嬉しそうな笑顔を見せる。


続けて、順番にオーダーを見ていく。


「……………えっ?」


その中で、あることに気がついた。


スターティングメンバーに、俺がいない。


いつもの四番の場所に俺の名前がない上、センターのポジションも他の子が担っていた。


慌てて探すと、隣の控え選手の欄に、俺の名前があった。


「俺、スタメンじゃないのか………?」


この言葉に、夏鈴は本から目を離し顔を上げた。


「えっ、どういうこと………?」


凪乃と葵は互いに顔を見合わせて、なんと答えたものかといったように困った表情を見せる。


「お父さん、前の試合で七海くんを消耗させすぎちゃったことを反省してるみたいで………。それで、熱も出ちゃったから、いくら決勝でも試合に出すことはできないって」


「私たちも、七海さんがいないと勝てないって、監督には言ったんですけど、聞いてくれなくて………」


監督は自身が現役時代にケガで引退を余儀なくされたことから、選手の安全に人一倍気を配っている。


今回も、無理をさせない方が俺の将来にとっていいと判断したのだろう。


凪乃の全国大会デビュー、そして世界大会の代表選抜の可能性を捨ててでも、そうすると決めたのだった。


俺は、やりきれない気持ちで俯く。


こんな時期に、無理して練習なんてしなければ。


もっと前からきちんと体力作りをしていれば。


どうしようもない後悔ばかりが、胸中を巡るのだった。





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