イサミ

こたろうくん

イサミ

 学校に行け――大きなレバーが印象的なアーケードコントローラーを胡座に乗せた一見優男なツルギが裏腹、ぶっきらぼうに言った。


 時刻は午後一時。平日。

 彼の言葉が向かう先には立派なソファーがあり、その上にはガイコツの意匠があしらわれた黒いパーカーを着た少女――イサミが四肢をなげうつようにしてうつ伏せで横たわっていた。


「寒いし、眠いしヤダ」


 クッションに顔を埋めたイサミのくぐもった気怠げな声に対してツルギが溜め息を吐く。

 平日の真っ昼間、働き盛りな男はテレビゲームに興じ、学徒であるべき婦女子はだらけきっている。健全とは言い難い光景だ。


「オマエこそツバメにばっかり働かせないで働けよ」

「うるせーよ。世の中不況なんだよ」

「やる気ないだけじゃん」


 仰向けに寝返りを打つイサミ。愛らしい顔立ちで、色白な肌に黒い髪がよく映える。両目は眠気のあまり閉ざされたままだ。


「他の就職難に喘ぐ若人たちに道を譲ってんの。それにツバメちゃんも気にしなくっていいって言ってるし」


 テーブルからペットボトルを手に取りながらちらとイサミを尻目に見て言うツルギ。彼の目は丈の短いスカートから溢れたイサミの太ももを映し、影に沈む下着の存在を期待していた。


 しかし待てど暮らせど影の奥には肌しかない。なにかおかしいと思ったツルギがイサミに問う。


「お前、パンツは?」

「は?」


 彼の言葉にイサミの頭が持ち上がった。聞き返しこそすれど聞こえていなかったわけではないらしく、彼女の顔には不愉快そうな色が浮かぶ。


「いや、だからなんで穿いてねーの?」

「はぁ……ウザ。つーかキモいし、死ねよ」

「ウザかろうがキモかろうがケッコーだからさ、俺の質問に答えなさいっちゅーの」


 うぶなねんねじゃあるまいしとイサミの罵詈雑言にもたじろぐ事ないツルギに彼女が返したのは、それは大きくあからさまな溜め息だったが、さっさとこの話題を切り上げたいと願う彼女は頭を落として答えるのだった。


「そんなのとっくに売っちゃったつの……」


 売った――呆れ果て思わず復唱するツルギへの返答はない。もう何も答える気はないというイサミの意思表示だろう。変わりにぐぅと寝息が微かに聞こえた。

 怪訝な顔をおもむろにテレビ画面へと戻したツルギ。彼はぽつり言う。


「……こんなやつでも稼ぎがある……?」


 俺って一体――そんな彼の疑問も、彼の恋人であるツバメが休憩時間を使い送ったチャットメッセージに気づいた頃にはどこかに消えていったのだった。





「ほぁっ……ねむ。つか、さむ」


 深夜、人気の無い繁華街をイサミが彷徨う。あくびなどして、季節故の寒さに文句を言いながら。

 彼女は一人であり、そんな彼女に返事をする者は居ない。――居ないはずだった。


「下着の一枚でもあれば違うのかもしれないね?」


 人を小馬鹿にしたような声色。男の声だ。

 しかしイサミの他に人は見当たらない。声だけがあった。


「大して変わらないっしょ」


 イサミもそんな異常と取れる現象に戸惑う様子は見せない。

 姿なき声に向かい、手にしたスマートフォンの画面に眼を落としながら気怠げに応える。画面にはチャットアプリが表示されており、アヤメという友人から何気無い日常の出来事にまつわる感想と疑問が送られてきていた。


「つーかさ、イビツいないよね。けど、なんか……」


 この夜、イビツ狩りを目的に出てきたイサミであったがその気配はないという。

 声は沈黙し、イサミもまた口を利くことなく歩みを進める。そしてそれは路地への入り口に差し掛かったときのことであった。


 低く掠れたような唸り声を上げ、靴底を引きずる音とともに真っ白なスーツを赤黒く染めた男が路地から姿を現す。背丈は百八十に迫るか。肩幅は人ひとりが腰掛けられそうなほど広く、首も胸の腹も弾丸すら貫通できないと思えるほど分厚い。

 厳しい角刈りをして、色付きのメガネをかける顔には目立つ切創がある。


 これ見よがしな宝石や、趣味の悪い金色の指輪を着けた巨大な両手は赤く、そしてそれぞれに握りしめているのは――人。

 人の頭部であり、その半分。片方には首から下もついていて、どうやら頭部が割られた人を一人、引き摺っているらしい。


 あまりに猟奇的。そして浮世離れ。

 アヤメへの返事を打ち込む手を止め、立ち止まったイサミがその男をぼんやりと眺める中、男はまるで錆びついたギアとシャフトで動く機械のようなぎこちなさで彼女の方へ向き直った。

 半開きになった男の口から、なにか黒い毛のようなものがチラつき――


「――」


 内容物を撒き散らし、頭の割れた遺体が大の字で、それこそ手裏剣の様に回転しながら宙を舞った。その進行方向に居たイサミは咄嗟にその場に屈み込み、飛来物は彼女の頭上を過ぎ去ってやがて路上に落下。生々しい音を立てて地面を転がってゆく。


 屈んだままでいるイサミの赤茶色い瞳が男の追撃である前蹴りを、革靴の硬い靴底を捉えていた。

 轟と風を切って放たれた男の蹴りは虚空を突き抜ける。既に跳躍してイサミは蹴りを避けており、彼女はお返しにとばかりに中空から男の顔面を蹴り込む。それほどの跳躍力。


 彼女が履いたスニーカーの踵が深々と男の顔面中心部にめり込み、彼が掛けているメガネが粉砕されてグラスが飛び散る中、しかしイサミの身体の方が押し返されてしまう。


 いかんともしがたい体格差。しかし痛みは平等なはずで、普通であれば顔面を襲う激痛に怯みもするであろうが、男にその様な素振りは無い。

 宙返りをして軽やかな着地を果たしたイサミへと、続け様に男のナックルパートによる打ち下ろしが襲う。


 拳の着弾した地面の、硬いはずのコンクリートが粉砕された。人の肉体であれば爆発四散したって可笑しくない威力だ。

 そんな拳に狙われたイサミはというと、寸前で後方回転を行い離脱。あまつさえ振り上げた足でトーキックを男の顎を襲撃したが、やはり男は怯まない。


 舌打ちを鳴らしたイサミの観察眼が捉えたのは男の拳。コンクリートを砕いたその拳は無惨にも手首から先が失われていた。


「ラリってんの……?」


 痛みでは止まらない。し、自壊すら厭わない猛攻から男が正気にはないことをイサミは悟る。おまけに異様な闘争心は休息を不要とし、打ち下ろしの勢いを利用した浴びせ蹴りを男は放っていた。


 身長と体格からして男の体重は百を優に超えているだろう。五十に満たない体重のイサミは彼の攻撃を受けた時点で小枝の様に折られるだろう。故にここまで彼女は男の攻撃を避け続けてきたわけだ。


 浴びせ蹴りも例外では無い。イサミは半身を開いて斧のように振り下ろされた踵を避ける。

 顔面攻撃による激痛も、顎を介した脳への衝撃も通用しない。いずれもスニーカーの分厚い踵と硬い爪先での一撃だった。非力さを補って余りあるはずの威力はあったはずだ。


 ならばどうする――姿無き声が興味深そうに問い掛けた。イサミは苛立ちを隠そうともせず表情に出して、解答となる一撃を放った。

 その解答とは、仰向けになった男の喉に叩き付けられた踵だった。


 吸気を断つ。

 生命維持にとって重大な事態となり、本能は闘争より生存を優先。肉体を硬直させたうえで思考すら鈍らせる。

 決着となりうる一撃だった。


 ――姿無き声の主がほくそ笑んだ。


 直後イサミの肩に、胸に、腹に冷たい熱が走った。

 遅れて届く激痛。彼女の奥歯が強く噛み締められて軋んだ。


 喉を潰す踏み付けは、決着となりうる一撃だった。

 しかしそれは、こと人間の――至って常識的な生命に限っての話になる。


 つまるところ、口腔から鋭く編み込まれた体毛を吐き出し、それで人体を苛むような行動を起こすような存在に対しては通用しない。

 人外には通用しない。


「っ……ダルっ」


 飛び退るイサミの身体から、突き刺さっていた体毛のトゲが抜けてゆく。溢れ出した鮮血が舞い散り、血濡れた体毛が踊りながら男の口へと引っ込む。

 着地したイサミが刺された腹部に手で触れ、まだ温かい己の血を見る。ため息など吐いてみると、喉の奥から熱い鉄の風味が届く。


「おい、メフィスト。イビツじゃない、アイツなに」


 起き上がる男を見ながら、姿無き声にイサミが呼びかける。すると声はすぐに「“禍々”」と答えた。


「……そっか、マガマガ。そういえば言ってたかもね」


 ツイてないと穴が空いて血で汚れたパーカーとシャツ、落として地面に転がったスマートフォンを見て零すイサミ。その間にも男の変容は進み、やがて彼の口から体毛の他に腕と思しき部位が伸び出てきた。


 二本の細長く節くれ立った腕は左右に広がり、男の身体は口から徐々に捲れてゆく。そうして男の中から現れたのは膨大な頭髪で覆われた頭部を持った乾き切った女体。

 男を裏返して出来た血と肉のドレスで着飾った異形。


 よたよたと男の足で歩き、長い両腕を振り回す禍々。たが直後、それの頭部全体から生えた頭髪がいくつものトゲと化して再びイサミを襲う。

 負傷こそすれどまだ彼女の足取りはしっかりしていた。攻め立てるトゲをまるで踊るように巧みに避け続ける。だが埒が明かない。


「瞬殺でいく」


 顔面を狙ったトゲの一突きを躱し、イサミが右手を開いた。袖の中で細腕の血管という血管が膨張し、暴れ出す。やがて右前腕が膨張を始めたとき、直ぐ側の地面に突き刺さっていたトゲ。それを構成している頭髪が解けて弾けた。


 何事かとイサミが尻目にしたのは、地面へと落下する自らの右腕だった。

 周囲を見れば彼女はすっかりトゲに包囲されていた。すべてが炸裂を起こせば細切れは免れないだろう。


 猶予は無い。彼女は残された右上腕を振り回し、自らの周囲に血液を撒き散らした。

 そしてトゲたちが炸裂を起こす。細く強靭な頭髪の一本一本が無差別に周りを引き裂く中、イサミが撒いた血が霧散し、街灯からの光を受けて煌めきを放つ。頭髪は結局、イサミを切り刻むことはなかった。


「――メフィスト」


 右上腕を地面に転がる前腕へと向けたイサミ。すると腕の断面から節足動物の脚らしきモノが無数に這い出して伸び、前腕の断面へと潜り込んでは瞬く間に引き寄せ接着。すぐさま肉と皮膚が癒着され神経すら繋がる。

 その刹那の痛みにイサミは表情を歪ませつつも、先ほどやろうとしていたことを再び行う。


 禍々が毛を差し向けるが、今度ばかりはイサミが勝った――断ち切られてゆくトゲたち。散ってゆく頭髪を前に、手にした大鎌の刃金が煌めいた。


「……なんでコレ?」


 ――が、長大なる得物を手にしたイサミは不満気だ。

 彼女の問いかけに答えるのは姿無き声のメフィストフェレス。彼は逆に満足気に言う。


「だってキミ、中々使ってくれないじゃないか」


 僕のお気に入りなのに――メフィストがそう言い終えるのが先か後だったか、イサミは両手で持った大鎌の柄を自らの膝に叩き付け折ってしまった。

 メフィストは「そうくると思った」と今度は無念そう。


 ――その大鎌は人骨や獣骨、節足動物の脚と言った悪趣味な物で構成されていた。唯一刃のみが無機物といえる。刃を人や獣、虫などの手足が抱えているようなそんな具合だ。


 そんなものが何処から現れたかといえば、答えはイサミの血塗れになった右手にある。切断された際の血ではない。血管を辿るようにして手首から生じた裂傷による出血だ。つまるところ、大鎌は彼女の体内から這いずり出た。


 そうこうしている合間にも禍々からの追撃があった。イサミは身を躍らせながらトゲを躱し、断ち切る。本体から分断されたトゲは静かに解け頭髪の塊として落下し、炸裂を起こさなかった。

 間隙、折った柄を手に持つイサミの左腕が膨張し爆ぜる。袖から溢れ出る鮮血に混じり骨たちが這い出し柄に集まってゆく。柄をより太く丈夫に、そして重く、刃をより頑強かつ鋭いものに変える。


 鎌と言うよりは一種のツルハシに近い。棍棒のごとく太ましい柄を持つツルハシだ。柄尻には赤黒い鎖があり、それはイサミの手首の中へと繋がっていた。


「アンタのシュミ、使い辛いんだもん」


 風が鳴る。

 柄から鎖へと持ち替えたイサミがツルハシを勢い良く旋回させていた。

 そして両者が動く。しかしイサミの方が速い。


 彼女の手から放り出されたツルハシは目にも留まらぬ速度に至り、下方から、弧を描いて掬い上げるように禍々に迫り、ぎらついた鋭利な切っ先が顎下からそれの脳天を貫いた。

 禍々の頭髪がざわめきたち、刹那、標的を選ばず四方八方に伸びる。その様は毬栗かウニの如き。しかしイサミには届かない。残ったもう一振りの鎌で払い除けたからだ。


 ぐんと左手をイサミが引く。繋がれた鎖が張り詰め、引っ張られた禍々が堪らえようとして動きを鈍らせた。その隙を逃さず駆け出すイサミ。彼女の右手では鎌を構成する骨たちが蠢き手斧へと変形、間合いへと到達した彼女がそれを振り上げる。


「死ね――っ」


 彼女が恨む相手は此処に居ない。

 けれど彼女の中で猛り狂う怨嗟の炎は例えそれが“イビツ”でないとしても、己の前に立ちはだかるものの悉くを焼いてゆくのだ。

 蘭と輝くイサミの瞳に映るものはすべて――敵。


 鮮血が跳ねた。

 イサミの身体を無数のトゲが貫いていた。

 そして彼女の眼前には、斧の刃を深々と頭部にめり込ませた禍々がいた。


 イサミが吼える。

 喉に突き刺さったトゲすら意に介さず。火の粉を思わせる血飛沫を伴って。

 みりみりと音を立て、斧の刃がさらに深く禍々へと潜る。頭部から頸部、胸部へ。

 今一度呼吸を。外気を取り込み再びの咆哮。その声は最早人のものではなかった。禍々の身体が左右二つに、桐の実の如く割れた。溢れ出したのは種子ではなく、禍々の体内に詰まった内臓物たちだ。


 禍々が崩れ落ちるとイサミの身体に突き刺さっていたトゲたちも抜けてゆく。

 斧を振り下ろした姿勢のままで居たイサミはそれからもうしばしの合間そのままで、少しして大きく息を吸い込んでは咳き込みながら血溜まりの上に跪いた。

 吐き出されるのは血だ。破られた消化管や喉からのものである。


 何度も吸気と咳を繰り返し、その度に身を震わせる。だが次第に吐血が減ってゆき、咳の頻度も下がる。最終的には呼吸を乱しながらも血に汚れた口元を拭きながらイサミは立ち上がった。

 服の下だったり、血塗れで視認しづらいものの、彼女の肉体に刻まれた多くの傷たちが消え去っていた。肩で息をするイサミ。彼女のいつも通り赤茶色をした瞳には力がない。


「イサミ」


 メフィストフェレスが呼びかける。彼女を心配してのことではない。


「わかってるよ」


 応えるイサミも承知で、そして何事かも察しているようだった。

 深呼吸する。一つ、二つ。それから擦って広がった鼻血と吐血で赤く汚れた顔を彼女が持ち上げると、空には真っ赤に冴えた大きな月が浮かんでいた。彼女の口角は微かに持ち上がっていた。

 鎖を手繰り寄せ、転がるツルハシを禍々の頭部ごと引き摺り。疲労からか重く感じる右手の斧を肩に担いで支えながら赤い月に背くイサミ。


 路上に、植木に、ビルの壁面に――次々と赤い二つの眼が浮かんだ。それも無数。

 “イビツ”と呼ばれる、裏返った世界の住人たち。

 そしてそれはイサミが殺し尽くすと決めた敵。


「死ぬまで殺す」


 地面を覆った血海の中、靴底を引き摺るように死地へとイサミは歩み出した――。

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イサミ こたろうくん @kotaro

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