第20話

 黒狼の噂を聞いてからしばらくして、与市の元に弥吉が顔を出した。

 あの夜の後、北の実家に戻っていた七之助の元からの帰りだった。

 

「ご苦労だったな。で、七之助はどうだった?」

「へい。あいつは亡くなった兄さんの代わりに家を切り盛りしてやした。

 歳の離れた兄嫁をもらい受けるって話も出てたらしいですが、むしろその子供の方がいいんじゃねえかってお袋さんに言われてるみてえで。年も若けえし、あいつもまんざらでもねえ雰囲気でした」

「ははは。そうか、そいつはおもしれえね」

「兄の子って、姪だろうが? ま、年増の後家よりはマシか?」

「そりゃ、違いねえや」


 遠く離れた七之助の行く末を笑い話にしながら、久しぶりの再会を喜んでいた。


「あいつはこれでいいんだ。北の地で田畑耕して、家族と共に生きられるんならそれがいい。もう、そこから出ることもねえだろうしな」


 与市は嬉しそうに呟いた。

 七之助は九人兄妹の七番目の生まれで、冬の間は雪に埋もれる地から仕事を捜して都会に出て来ていた。そんな中、仕事を失い路頭でさ迷っていたところを与市に拾ってもらった。心根はまっすぐで優しい子だった。

 だからこそできるなら、この仕事に染まる前に真っ当な世界へと戻してやりたいと与市は考えていた。

 そんな時に家を継いだ歳の離れた兄が亡くなったと知らせを受け、飛ぶようにして生家へと戻っていった。


 こんな風に縁を切ることができるようになったのも、与市が歳を取り、目が見えにくくなったことも理由だろう。

 昔の与市であれば中抜けは絶対に許さなかったはずだ。

 与市はこうやって歳を取り、その身をさらすことなく死んで行ければいいのにと願ってもいた。

 だが、それを許してもらえるほど世の中は甘くは無いとも知っている。

 お天道様に顔向けできる生き様をしていない身なのは、十分にわかっているのだから。


 しばらくこの地で身体を休めようと思っていた弥吉に、黒狼のことを話して聞かせると、彼もまた難しい顔をして考え込んでいた。

 どうすれば良いのかは与市にもわからなかった。

 このまま黒狼である太一を待ち続け、対峙するのがいいのか。

 それともこの地を離れ、また逃げるようにさ迷い続けるのがいいのか。



「親父。黒狼の噂は俺も聞いてます。子分のような仲間を何人か率いてるみたいですし、あっちは未だ現役だ。足を洗ったに近い俺たちとは違いますぜ。

 逃げる事だけを考え続けてた俺らじゃ、もはや相手にもならんでしょう」


 ガマの油売りに姿を変え、方々を歩きまわって得た弥吉の言葉は今の現実だ。

 その言葉の全てが真実で、誰も反論出来なかった。

 宮浦の地に残り、植木屋と盗みを生業なりわいにしている長松ならいざしらず、権八も銀次ももう悪の道に戻るだけの根性は無い。

 命を捨ててもいいと思えた若い頃とは違う。

 権八には親父と呼ぶ与市を、銀次には妹と呼ぶ鈴がいる。

 守るべき者を得た人間は、強くもあるが弱くもなる。

 

「いざとなったら考えがある。でえじょうぶだ。おめえらの悪いようにはしねえよ」


 与市の言葉の意味を察した権八は、拳を握りしめうつむいたままだった。





 そんな時、銀次が働く湯屋に一人の旅の男が現れた。

 旅装束をした男は、それなりに歳を取っているようだが、屈強とした体つきは若い者には負けなさそうに見える。

 銀次はチラリと横目で見た時にギクリとした。驚きで二度見をしてしまうほどに。気づかれないように正面に周り顔を確かめると、そこにいた男は宮浦の地で岡っ引きをしていた男だった。

 なぜこんな旅籠町に?と思うより早く、銀次は適当な理由をつけて与市の元に駆け込んでいた。

 

「親父! 岡っ引きが、宮浦にいた岡っ引きが湯、湯屋に!!」


 息を切らし駆け込んだ与市の店で、銀次は大きな声で叫んだ。

 ちょうど飯時も過ぎ客はおらず、すぐに察した与市は「暖簾を仕舞え」と権八に指示を出した。

 客のいない飯屋で与市と権八は、銀次の話を聞いた。


「歳も取ってるし、少し痩せて大分薄汚れてるが間違いねえ。あれは、岡っ引きの男だ」


 銀次の言葉を与市は黙って聞いていた。


「俺たちを捜して回っているんでしょうか?」


 権八の言葉はもっともだが、もう十年以上になる。いくら何でも、との思いがあるのも確かだが。


「まあ、そう考えるのが妥当だろうな」

「ど、どうしやしょう。早くこの町から逃げた方が?」

「まあ、落ち着けって。俺らは相手が岡っ引きだから当然知ってる。あの町に居た者なら知ってるさ。なんせ、岡っ引きの旦那なんだから。

 だが、相手さんは俺らのことなんか知らねえはずだ。そうだろう?

 だったら、今下手に動いて目を付けられるよりも、大人しくじっとしてた方がいいってもんだ。な?」


 慌てる銀次に、与市は冷静にそう言ってのけた。

「で、でも……」それでもまだ納得のいかない銀次は、与市にすがる様に問う。


「なあに、十年以上も前の話しだ。俺達だって、顔つきも体つきも変わってるはずだ。すぐに見分けはつかねえよ。それにこんなに長げえ間探し続けてるってことは、目星がついてねえってこった。俺らに辿りつくにはまだまだ先の話しってことよ」


 余裕そうに語る与市の口ぶりで、銀次は少し落ち着きを取り戻していた。


「いいか、いつも通りに過ごすんだ。余計な事を話さず、起こさずだ。

 何か聞かれても、知らぬ存ぜぬで押し通せ。いいな?」


 与市の言葉に銀次は黙って頷いた。

 彼の言葉で間違いが起きたことは今までなかった。彼の言うとおりに生きて来て、生かされて来た人生。

 銀次は素直に与市の言葉を受け入れていた。


「そういや、妹はどうした? 元気かい?」

「え? ああ、元気にやってます。この町にも慣れたみてえで、毎日仕事に行ってます」

「そうか、それは良かったな。そろそろ、嫁に出すような年頃だったろう?

 もう、目星はついてんのかい?」


 突然の与市の言葉に銀次は驚いて、一瞬言葉を失った。


「い、いや。ずっと先の話しです。まだまだ子供ですから……」

「ふっ。子供だなんざ、思ってるのはおめえだけさ。他人の目から見たら、十分嫁に行けるような感じだろうが。

 いつまでも連れ歩けるわけじゃねえんだ。そろそろ考える頃合いじゃねえのかい?」

「へえ、まあ……」


 与市の言葉は銀次の中に重く、重く沈み込んでいった。

 自分の中ではいつまでも子供のはずだった鈴。

 それが、他人の目から見ればいつ嫁に出してもおかしくないほどに成長しているという現実を受け入れることが出来なかった。

 

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