第9話 こわくて意地悪な(ソフィア)


「これが、ソフィアの兄になるダリウスだよ」


初めて会ったときから、おにいさまのことはこわかった。



ママがいなくなって、それから『おとうさま』が来てくれて、今、ソフィアには『おにいさま』ができた。

これだけが、ソフィアに残されたものだとわかっていた。


おにいさま、とは、仲良くしていかないといけない。仲良くなりたい。

でも、ずっとママと二人っきりで暮らしてきたソフィアに兄弟なんていなかったし、ましてや『おにいさま』なんて、どうすればいいのかわからなかった。


目の前に、『おにいさま』がいる。

黒っぽいくらい濃い紺色の髪に、濃い紫色の目の、年上の男の子。じっとソフィアのことを見てる。

ソフィアそっくりのキラキラした金髪や、お土産屋の海の絵みたいな明るい色の瞳の、ママとは何もかも違う。

その全部に緊張した。


でも、ソフィアの『おにいさま』だから、かぞくになるんだからって、頑張って。


「俺に近づくな。愚民」


ソフィアは泣いた。




ソフィアはふかふかの絨毯に俯いて、目の前に並ぶズボンの脚を眺めていた。

ソフィアに挨拶をしてくれた、たぶん、お客さん。知らない人。

お屋敷にはまだ慣れない。昔ママと暮らしていた小さな家よりずっと広々として、窓も大きいはずなのに、重たげに垂れるカーテンを一人で見るたび、なぜだか暗い陰がかぶさるような気になった。

「ほう、これが...」「噂の...」「想像以上に...」これ以上の言葉は、難しくてよくわからない。

でも目はちゃんと乾いていて、視線がこちらに向くたび、ぎこちなくても微笑めてたはずなのに。


「ソフィア」


鋭い声が、大人たちの間を切り裂いた。


それだけでジワッと涙が飛び出した。

絨毯を踏みしめる音が近づくにつれ、突然、思い出したみたいに、ヒクッヒクッと呼吸が揺れてくる。


チリ、と後ろで鉄が鳴る。おにいさまの剣のおと。

目の前のおじさんたちの何人かも、ヒクッと息を揺らした。


「来い」


冷たい男の子の声。街のどの男の子も、こんな声を出してるのをソフィアは聞いたことが無い。

ソフィアは肩を跳ねさせて、慌てて声の方へ走った。暗がりはどんどん背後に遠ざかって行った。




「っぁ...!」


ソフィアは外の草の上に投げ出された。

ゴロゴロ転がってからようやく止まると、ソフィアを投げたおにいさまは、大笑いをしている。

陽光に当たる毛先が青色に透けて、陰になっているところは、真っ黒に見えた。


「あっはっは!」


男の子に馬鹿にされてる。

それだけでカッと顔が燃え上がって、恥ずかしくて、うまく喋れなくなる。どうすればいいかわからなくなる。


なんとか体を起こして、汚れたスカートに泣きそうになりながら、立ち上がろうとして。靴がスカートの裾を踏んだ。


「あぅ...っ」

「どうした? 立たないのか?」


真横にしゃがまれる。

ソフィアが真っ赤になりながらスカートを引っ張ったり、立とうとして尻餅をつく間、おにいさまはニヤニヤして、ソフィアのスカートをグリグリ土に踏みつけてる。


ソフィアはまた泣いて、それをおにいさまは楽しそうに見ていた。

上からぐしゃぐしゃ、頭を抑え付けられる。涙で頬にはりついた金髪を掻き上げて、笑う紫色の目が覗いてきて、「またな」って。



意地悪されて泣かされるソフィアも、ソフィアを泣かして笑っているおにいさまも、みんな見てみぬフリをする。


この屋敷に来てから、ソフィアは少しのことで涙が出るようになった。


正確には、ちょっと違う。

ママがいなくなってから、ソフィアは少しのことで涙が出るようになった。

空っぽの大人用マグカップを手に握ったとき、朝起きても開いてないカーテンを見たとき、エプロンからママの匂いが薄れてるのに気づいたとき。些細な瞬間に。

でも玄関扉を見つめて、ソフィア以外にこれを開ける人はいないんだ、と気づいたときには、もう泣かなくなっていた。


いつもママと通った小さな神殿に、優しくしてくれる神官さんがいた。そこにはママとパパがいない子たちがたくさんいたけど、神官さんたちと一種に暮らしていたはず。

そういうことを思い出せるようになったときも、ソフィアは泣かなかった。

それからソフィアが神殿に行く前に神官さんが慌ただしく迎えに来て、聞いたこともない『おとうさま』に引き合わされたときも。

神官さんに促されて、笑った方がいいのかな、と気づいたときも、ちゃんと『おとうさま』に微笑むことができた。


一度泣き虫になったけど、泣かなくなったのに。

このお屋敷に来て、おにいさまに虐められるようになってから、ソフィアはまたほんのちょっぴりのことで泣いてしまうようになった。


でも他に行くところもなくて、こわくて意地悪なおにいさまの後を、ソフィアはついて回った。




だって、おにいさまはこわいけど、本当の「怖い」をソフィアはもうわかっている。


優しくしてくれた神官さんが来てくれて、それから放された手。

『おとうさま』に連れてこられたはずなのに、その後何日も『おとうさま』の姿が見えない広いお屋敷。

お屋敷で働く人たちから痛ましそうな目で見られるのに、ソフィアが「ご飯をください」と言いに行かないと、何もしてもらえないこと。

本当に怖いのは、ずっとずっと開かない玄関の前で膝を抱えて、泣いても、笑っても、誰も見ていてくれない時間。


泣きすぎてぼんやりする頭で、溶けた熱で潤む視界で、それでもちゃんとソフィアを見ているおにいさまを見上げて......今のソフィアを、おにいさまは好きなんだって。

これを思うと、体の輪郭をぼやかす熱がチリっと胸を焦がしながら広がって、ポロリと涙になって零れる。



ソフィアはちゃんと覚えていた。

おにいさまがソフィアに意地悪をするのは、嫌なことをしたいんじゃなくて、泣いてるソフィアが好きだから。

泣かせるほど嫌な思いをさせたいんじゃなくて、泣いているソフィアが好き。


...なぜだかママに「ソフィアの笑ってる顔が大好きよ」と言われたのを思い出した。

「なんで? この顔は嫌いなの?」ソフィアは変顔をする。するとママは大笑いして、ソフィアの髪を優しく撫でる。

「その顔も好きよ」

「どうして?」

「それはママが、ソフィアが可愛いからよ。どんなお顔もね」



ソフィアのママはいなくなったけど、ソフィアには『おにいさま』ができた。


頭の輪郭をがっしり確かめるように被さって、わしゃわしゃソフィアの金髪を撫でる手。

地面へ突き放される一瞬前、しっかり引き寄せて受け止めて、ソフィアの手首を掴んでる掌の熱。

ソフィアがポロポロ涙を流す目に、近くから合わさる笑ってる目元。


本当に倒れそうになったら力強く引き上げられて、本当に疲れて寝てしまったら背中で揺らされていて。ソフィアは振り回されっぱなしなのに、ぽーんと投げられた先には、絶対に受け止めてくれる手があるという確信があった。

ソフィアは、今よりもずっと、ずっと小さいとき、ママに何度もねだった高い高いを思い出した。

こわくて、楽しくて、安心できる。

お腹がふわっとする、変にドキドキする高揚感。


ソフィアを泣かせるのはおにいさまだけど、泣きやませるのもおにいさま。




きっと、これが『おにいさま』なんだ。

前のお友だちの女の子たちも、みんな言っていた。男の子はバカで意地悪で、しかも兄なんてサイアクだって。

街の男の子たちのことは、今までよくわからなかった。ソフィアの前ではずっとボソボソ小声で、汚くて、すぐ怒って、意地悪をしてくる。

おにいさまは意地悪をするけど、ソフィアには怒らない。


おにいさまはどの男の子とも違う。

おにいさまはソフィアより頭が良くて、気取った話し方で、でも開けっ放しの大声で笑う。軽く突き放したと思ったら、乱暴に頭を撫でる。

その高低差にどぎまぎして、それだけで慌てて泣きそうになってしまう。


ソフィアが思っていた男の子と違うけど、なんだか話に聞いた兄弟とも違うけど、でも。

これがきっと『おにいさま』。





そう思っていたのに。


「あんな子を招き入れて、わたくしを馬鹿にしているのですか?」

「そんなことはない! わかっているだろう、グラディウス家を継ぐのはダリウスだ、あの子が私の嫡男だと」

「————嫡男ではないから問題なのではないですか!」


今日は、家族で夕食だと言われていた。

家族。おにいさまだけじゃない。おとうさまとおかあさまもいる。

だから初めての綺麗な服を着て、おにいさまに連れられて、いつもは来ない食堂に来た。緊張でカチコチになって泣きそうだったけど、おにいさまは「一度は耐えろ」と言うから。

でもたぶん、おとうさまも、おかあさまも、忘れちゃってるんだと思う。


「ただでさえあの子はっ、わたくしとあなたの子ではないのに...!」

「シッ! 大きな声で言うな! しかし一応、ダリウスはグラディウス家の正統な血を引いている...」



食道の扉の隙間に踏み込む直前、おにいさまに手首を掴まれて、ソフィアとおにいさまは立ち止まっていた。

床に落ちる細い光の線を、おにいさまの横顔はじっと見つめてる。


ソフィアは固まって、息さえ止めて、おにいさまを見上げていた。

そうしたら視線に気づいたのか、おにいさまはこっちに振り向いて——おにいさまは、わらった。

いつもみたいに。



吊り上がる唇から薄く白い歯が覗き、暗がりでナイフのように浮かんだ。


指を一本、唇に立てる。




「......っ!」


口を塞いでコクコク頷くソフィアに、小さくニヤッとして、握ったままの手を引いて。いつものおにいさま。なのに。

明るい扉が遠ざかる。


その、暗がりに背く横顔が。


違うおにいさまに見えた。...違う男の子に見えた。



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