第16回 冬の妖精さん

 その日は「ついてない日」ってやつだった。

 国語の音読を間違えた。社会のプリントを貼ってたらノリがなくなった。体操服のジャージを忘れて一時間ずっとぶるぶる震えてた。おまけに給食の時間誰かとぶつかって、こぼれたスープがシャツの袖にかかった。


 そんな日に限ってママは仕事で家にいない。いつもなら「散々だったね」って笑ってあったかいココアをいれてくれるのに、食卓には飲みかけのコーヒーをいれたマグカップだけがポツンと残されてる。ちょっと口に入れてみたけど、冷めきったコーヒーは苦くて変に酸っぱくておいしくない。

 おやつの箱を開けてみたけど、中にはパパの固くてしょっぱいおせんべいしか入ってない。冷蔵庫も開けてみたけど、寒くなってすぐにとびらを閉めた。エアコンのスイッチを入れて、ふかふかのソファに座って、クッションを抱きしめて大きくため息をつく。――ほんっとうについてない!


 ああ、誰でもいいから誰か親切な人が出てきてくれたらいいのに。あったかくて甘いおやつも作ってくれたりなんかしたら最高。そうしたらがんばって冷蔵庫を開けておもてなしするのにな。


 そんなことを考えてたら、急に冷たい風がふわっとほおを撫でた。ひゅっと息を飲んだら鼻の奥がきゅうっと締まったみたいに痛くなって、口の中に水の味が広がる。今朝新聞を取りに行った時の空気と同じ、冬のにおい。

 やだ、もしかして窓が開いてる? そう思ってパッと顔を上げると、目の前いっぱいに水色の布が広がった。続いてくすりと笑う声。


「こんにちは、お嬢さん」


 声は、目の前から聞こえてきた。今までに一度も聞いたことない、一番人気のアイドルよりもっときれいな声。同時にもう一度冷たい風が吹いてきてさっきと同じようにほおを撫でる。ひゃっと首をすくめると、また同じくすくす笑いが聞こえて水色のスカートが揺れた。

 スカートじゃない。よく見たらワンピースだ。空みたいな水色で、ウエストのあたりにはそれより少し灰色っぽい色のリボンが結ばれている。服をたどるように目線を上げると、柔らかそうな金髪をくるっと垂らした女の子が楽しそうに笑っている。


「あなた、寒くないの?」


 だれ?と聞くはずだったのに、気が付いたら口が勝手にそんなことを言っていた。女の子はリボンと同じ色の目を大きく見開いて、それからまた笑顔を見せる。


「寒くないわ。わたしは冬の妖精だから」

「……ようせい?」


 一瞬、言われた意味がわからなかった。ようせい……妖精。おとぎ話に出てくるあの?

 ぽかんとしていると、女の子はくすくす笑いながらその場でくるりと一回転してみせた。言われてみれば、確かに背中のあたりで何かがキラキラ光ってる。それに、スカートがふわっと広がったときにちょっとだけ見えた足――モデルみたいにきれいで真っ白なその足には、スリッパも靴下も履いていなかった。


「うわ、待って待って」


 たった今寒くないって言われたばかりだけど、見てるこっちが寒すぎる。脱衣所に飛び込んで戸棚を開けると、お風呂上がりに履くためのふわふわソックスがいつもの場所にきちんと積み重ねてある。一番上のをつかんでダッシュでリビングに戻ると、女の子はソファの前に立ったままきょとんとした顔でこっちを見ていた。


「これ履いて!」


 差し出したソックスを、女の子は初めて見るものみたいにそうっと受け取る。ほっそりした指先がソックスの表面を何度か撫でて、あのきれいな声が「ふわふわ」とつぶやいた。撫でているうちにぺらりとめくれて、二つに分かれたそれを右手と左手に片方ずつ持った女の子は目を丸くする。


「ふたつあるわ」

「とーぜんじゃん、足って二つあるんだから」

「……足につけたらいいの?」

「そうだけど、履いたことない? あ待ってなんか嫌な予感してきた……」


 言ってる間にも女の子はソックスを片方床に置いて、手に持った方を足首のあたりに巻き付け始めた。かかとの部分をぴんと立てて、履き口にはつま先部分が押し込まれてる。足首はあったかそうに見えなくもないけど指先はむき出しで、びっくりするほど合ってない。

 やけに手際よく足首を飾り付けた女の子は、こちらを見てあれ?という顔で首を傾げた。


「あったかくするものって、こうじゃなかったかしら?」

「それマフラーね!?首に巻くやつね? ソックスはこう、穴のところにつま先を入れて……」


 履いてたソックスを脱いで見せてあげると、女の子は恥ずかしそうに口元をもにもにさせながら巻き付けていたソックスをほどいた。それから履き口の穴に足を入れて、つま先とかかとの位置をきちんと合わせる。


「! あったかいわ。それに、手でさわった時よりもっとふわふわ……!」

「でしょー? やっぱ冬にはこれだよね」


 口元に両手を当てて目をきらきらさせる女の子に、なんだかこっちまでほおが緩んじゃう。しばらく笑いあった後、急に女の子は「あっ」と小さく声を上げて足元のバスケットを手に取った。


「そうだわ。わたし、あなたにこれを届けに来たんだった」


 いつの間にそこに? この子がバスケットを持っていたなんて全然気付かなかった。


「……っていうか、そもそもどうやって入ってきたの? 鍵かかってたよね?」

「ふふ、それは内緒」

「ナイショってねぇ……」

「でもこの中身は教えてあげるわ。ほら!」


 胸の前でバスケットを構えて、女の子は舞台女優みたいな大げさな身振りでふたを開けた。その瞬間目に飛び込んでくる、鮮やかな赤。


「うわぁ……!」


 白いライトの光を受けてつやつや輝いてるのは、映画でしか見ないような真っ赤なリンゴだ。スーパーで売ってる黄みがかったのやくすんだ赤のとは全然違う、宝物みたいにきれいな深い赤。


「おいしそう! これほんとにリンゴ?食べていいの!?」

「もちろんよ。……えぇと、ちょっと待ってね」


 一番端のリンゴを取ろうとした女の子の手がうろ、と少しさまよって、リンゴとバスケットの隙間から水色の紙を一枚引っ張り出す。ひとつうなずいて、女の子は紙をしまうとリンゴをひとつ手に取りにっこり笑って口を開いた。


「わたしのリンゴはちょっと酸っぱいから、今からとっても美味しく変身させるの!」

「……それってもしかしてキッチン使う?」


 おそるおそる聞いてみると、女の子は目をぱちくりさせて首を振った。


「キッチンって火をつけるところよね? 火は危ないから妖精のランプを使うのよ」

「ランプ?」


 バスケットを床に置いた女の子は、リンゴを持ったのと反対の手をバスケットに突っ込んで何か四角いものを引っ張り出した。黒いランタンみたいな形で、バスケットボールが入りそうなくらい大きい。よく見ると、中には何かキラキラしたものが漂ってる。


「ここにまずお皿を入れてね」


 言いながら女の子はランプのふたを外して、バスケットから取り出した白いお皿を中に入れる。


「次に、リンゴの準備をして」


 女の子がふうっと息を吹きかけて指で押すと、リンゴの芯がパズルのパーツみたいにすぽんと抜けた。空いた穴にバスケットから取り出したバターを詰めて、穴がきちんと塞がったのを確かめてからお皿にのせる。


「最後にふたをしたら待つだけ!」


 言葉の通りぎゅっとふたを閉めると、ランプの中のキラキラが急に激しく飛び回り始めた。そうしているうちにランプのそばがじんわりあったかくなってきて、中に入ったバターの表面もぬれたみたいに光り始める。


「これ、焼いてるの……!?」

「そうよ。ランプにはお祭りの好きな妖精がいて、みんなで踊るついでに食べ物を温かくしてくれるの」

「すご……」


 このキラキラ妖精なの、しかも踊ってるの? 焼くのはついでなの? っていうかそれどういう仕組み?

 変なことばっかりで頭がパンクしそうだったけど、すぐに甘いにおいがしてきてそんなことは全部どうでもよくなった。あったかくて甘い――ママのココアとは全然違うけど、間違いなく絶対幸せのにおい。


 そこまで考えてハッとした。あったかくて甘いおやつを作ってくれる、親切な人。人っていうか妖精らしいけど、来てくれないかなぁって思ってた人だ。――おもてなししなきゃ!


「じゃあ飲み物用意するね! たしか飲んでいいお茶があったはずなの、一緒に飲も!」

「! わたしもいいの……?」


 言葉はひかえめだけど、女の子の青い目は晴れた日の海みたいにキラキラしてる。それを見たらなんだか胸がくすぐったくなって自然と顔がにっこりした。

 

「もちろん! っていうかよかったらリンゴも一緒に食べようよ。おやつパーティーしよ!」

「するわ!」


 そうと決まれば、やることはもうわかってる。

 まず戸棚から花の絵がついたマグカップを二つ出す。そこに冷蔵庫から取り出した牛乳を半分くらい注ぐ。

 次にマグカップをレンジに入れて、三番のボタンを押したらスイッチ・オン。待ってる間にもう一度冷蔵庫を開けて、牛乳をしまったら代わりにお茶のボトルを取り出す。ゆうべママが「ホットミルクに入れて飲んでね」って言ってた紅茶だ。ひえひえのボトルが手に痛いから急いでキッチン台にのせる。


「ねぇ、リンゴはどこに置いたらいい?」

「そこの四角いテーブルにお願い!」


 途中で女の子の声がして、焼きリンゴの甘いにおいが部屋いっぱいに広がった。テーブルにお皿が触れる音、それにかぶさるようにレンジが鳴る。

 熱くなったマグカップをそうっとキッチン台まで運んで、それぞれに冷たい紅茶を注ぐ。出来上がったミルクティーを持っていくと、女の子はテーブルの横に立ってそわそわと左右に揺れながらこっちを見てた。


「お待たせ、食べよ! 座って座って」


 マグカップを置きながらそう声をかければ、女の子は「おじゃまします……!」と上ずった声でつぶやいて椅子に腰を下ろした。テーブルには真っ白なお皿に真っ赤なリンゴ、その向こうに女の子が着ている水色のワンピースが見える。


 きれいだな、と少し思ったけどそれよりなによりお腹がすいた。お皿に添えてあった銀色のフォークを手に取って、「いただきます」と唱えたらつやつや光るリンゴの表面にそっとフォークの先を差し込んでいく。


「あ、うわ! じゅわって……!」

「湯気がほかほか……!」


 二人して見えたものを言いながら、フォークで一口大に分けたリンゴをそっと口元に運ぶ。

 甘い。熱い。バターがちょっとしょっぱい。歯を立てるとしゃくっと音がしてたっぷりの果汁があふれ出す。甘い、熱い、おいしい。口元に手をあててはふはふと熱気を逃がしながら少しずつ何度も歯を立てる。甘い、ちょっとしょっぱい、とってもおいしい!


 正面を見ると、同じように手で口を隠しながらはふはふしてる女の子が見えた。目がきらきらして全力で「おいしいね」って訴えてる。しっかり見つめ返してうなずくと、女の子はふわっと笑って小さくうなずいた。


 小さくなったリンゴを飲み込んで、今度はマグカップに口をつける。ほどよくぬるいミルクティーがひりひりする口の中を優しく洗って、牛乳の甘みと紅茶のいい香りが口いっぱいに広がる。

 少しすっきりした口にリンゴをもうひとかけら。こっくりしたバターとみずみずしい果汁のおいしさが味覚をぬりつぶしてくらくらする。しっかり味わいつくして飲み込んだら、もう一度ミルクティーを。


「すごい、この組み合わせずっと食べれる」

「ほんとね。お茶もとってもおいしいわ」


 短く感想を言い合って、あとはもうずっと口の中に幸せを運ぶだけ。時々目が合って笑うたびに「おいしいね」って声にならない言葉が通じ合った。

 なんにも言わなくていい。口ってきっとおいしいものを食べるためにあるんだ。できるなら、この時間がずっとずっと続けばいいのに――。



 ガチャン、と鍵の開く音で目が覚めた。飛び起きると抱きしめていたクッションが床に落ちて転がる。いつの間に寝ちゃってたのか、リビングのソファには頭の形の跡がついていた。部屋はしんとして冷たい冬のにおいだけが漂ってる。

 

「あの子は……? 夢?」


 つぶやきながら立ち上がってテーブルを見るけど、そこにはお皿もミルクティーのマグカップも残ってない。帰ってきた時と同じ、ママのコーヒーのマグカップだけがぽつんと一つ置いてある。

 だけど、口の中にはまだ焼きリンゴの甘さが残ってるような気がした。


 ただいまー、とママの声がする。それに「おかえり」と返しながら、心の中でこっそり付け加えた。

 ――今日はとっても良い日だったんだよ!


 まぶたの裏で、青い目がにこりと笑った。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

空色杯参加作品まとめ 紫吹明 @akarus

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る