捨てようとすると、かえってその感情は膨らんでしまう。
あらゆる記憶が、彼女の元に舞い戻ってきた。
首相殺害。そうだ。ステンノーとともに、共和国のアンゼルム・コルネリウス首相の暗殺に来ていた。それが、ステンノーの言っていた「お仕事」だった。とても重要な「お仕事」だ。
なぜ? どうして私はそんなことをしにきたのだ? まったく動機がない。首相を殺して私が得することなんて、なにひとつ思い当たらない。
ステンノーが仕事としてそれを与えられていた。私もそれに同行することになっていた。あのときはたしかに、そうしなければならないという気持ちでいた。
〈首相が死ぬのを、きちんと見届けておかなければならない。私はそのことに使命感を感じていた。ルーンクトブルグの首相がちゃんと死んだかどうか、この目でしっかりと確認するべきだ。それは何よりも重要で、仮にもし「お仕事」に失敗したならば、それはステンノーと一緒に、私も恥じるべきことなのだ〉
レナエラははっとする。私は同じ思考を経たことがある。
ステンノーはそもそも、誰かにその仕事を言い渡されていたはずだ。
誰かに。
また、思い出せない。その誰かは非常に重要な人物であるはずだった。その人物には、会ったこともあるはずだ。私はその人物を知っている。知っているはずなのに、手繰り寄せるべき糸が見当たらない。その人物につながるすべての糸は、きれいに取り除かれているようだった。
そしてその人物を思い出そうとすると、今度は強烈な恐怖に襲われた。
その恐怖は大きな蛇の姿をしている。顔はない。しかし同時に、あらゆる人物の顔をしている。そして私を激しく
中央広場に面したあるホテルのロビーに行き、まず憲兵を二人食い殺した。それから階段を登り、三階の廊下で四人、ある部屋の扉の前でひとり、やはり大きな牙で速やかに処理した。そして最後にコルネリウス首相の喉元を食いちぎり、私の役目は果たされた。
身体が急に冷え始める。震えが止まらなくなる。うまく息ができず、水面に顔を出す鯉のように、懸命に口を開け閉めしなくてはならない。額から熱い汗が吹き出る。脳みそが溶け出し、頭が混乱し始める。震えがよりいっそう激しくなり、ベッドをがたがたと揺らす。涙が溢れる。
私じゃない。
それは、あの蛇がやったことだ。決して私じゃない。
「私じゃないっ!」
レナエラはひとしきり、大きな声で叫んだ。
自分でも、こんなに大きな声が出せることを知らなかった。耳の鼓膜が振動し、破れてしまいそうだった。もちろん喉も焼けるように痛んだ。しかしそれでも、叫び声を上げずにはいられなかった。
「大丈夫、落ち着いてください!」そばにいた男はレナエラの肩をとり、ベッドに押さえつける。「僕たちはあなたに危害を加えません! 安心して。あなたを襲うものから、あなたを守るのが僕たちの役目です! 大丈夫、大丈夫――」
「医者を呼んでくる」
もうひとりの男がそう言って、急ぎ足で部屋から出て行く。
「大丈夫、大丈夫ですから――」部屋に残っているほうの男は、レナエラの右手を強く握る。「あなたは、人に責められるようなことはなにひとつしてない。心を正しく、もとの位置にゆっくりと戻して」
「私は、全然――」レナエラは切れぎれに叫ぶ。「どうしてこうなったかわからない! わからないの!」
彼はレナエラの熱い涙が染み込んだ頰に、手を当てる。
「あなたはとても怖い思いをした。たぶん、誰にも想像できないほど怖かった。そしてとても辛かった。まずはその感情をゆっくり飲み込むんだ。捨てようとすると、かえってその感情は膨らんでしまう。より怖く、より辛くなってしまう」
彼は右手を握り続け、頰に手を当て続けた。
レナエラは少しずつ呼吸を整えていった。心臓が元の位置にもどり、喉が正しい声の出し方を思い出していった。彼女の目は彼の瞳をじっと見つめていた。
「怖い――怖いよお」
彼女は彼の手を握り返す。とめどなく涙が溢れている。
「うん、怖かった。でももう安心して。その恐怖は、長くは続かないから」
「私は殺してない。私じゃない。信じて」
「もちろんだ。信じるよ」彼は頰を流れる熱い涙を優しく拭う。
レナエラはより強く彼の手を握り返す。
「誰かに操られていた。たぶん。でも、誰だかわからない。思い出せないの」
「無理に思い出さなくてもいい。覚えていることから、ゆっくりゆっくり言葉にしていこう。何も心配はいらない。きみが辛い目に遭うことは、絶対にない」
彼は笑顔でそう告げる。
よく見ると、少し疲れを含んだ顔だった。両目の下にうっすらとくまができている。だがそれでも、きれいで済んだ瞳だとレナエラは思った。
彼には見覚えがある。首都で声をかけられ、人探しをしていると言っていたあの男性だ。そのときレナエラは、
本当にそのとおりだ。行くべきではなかった。
彼に手を握ってもらいながら、レナエラは少しずつ心を落ち着かせた。目から勝手にこぼれ落ちる涙も、やがて止んだ。駄々をこねて泣き出したあと結局親にあやしてもらっている赤ん坊のような気分になり、彼女は赤面した。
医師が到着したころにはだいぶ気持ちが落ち着きを取り戻していた。彼は脈や血圧を測ったあとにっこりと笑い、「なにか食事を用意しますね」とだけ言って部屋を出て言った。
「ラルフ・アルトマン准尉だ」
手を握ってくれていた彼が自己紹介してくれた。軍人だとわかりレナエラは少し驚いたが、なぜか納得もした。彼はダークブラウンの短い髪に端正な骨格の顔つきをしている。綺麗な水色の瞳だ。
「ヘンドリック・バルテル。階級は少尉」大きな体躯の男が挨拶をする。「しかし、こんななにかの性癖プレイみたいな状況で挨拶するのも、気が引けるな」
レナエラはコートを脱がされ、木綿の白いブラウス姿だった。下着が少し透けていた。おまけに四肢が手枷足枷で拘束されている。「たしかに」とアルトマン准尉が少し顔をしかめ、さっき彼女が暴れたせいではだけた毛布をかけなおしてくれた。
バルテル少尉はふくよかな腹の目立つ、大柄な男だった。見るからにざっくばらんな雰囲気を漂わせている。ほとんど黒に近い茶色の髪を撫で付け、オールバックにしている。ボア付きの分厚いジャケットは、彼のような男こそ着こなせるのだろうと、レナエラは思った。
アルトマン准尉が両手を軽く広げて言う。
「ここはマルシュタットの軍中央本部からいちばん近いところにある軍病院だ。時刻はもうすぐ夜の九時。きみは約六時間ほど、ここで眠っていた。きみを保護したときは、おそらくなにか強い魔法をかけられていたせいで、魔力がほとんど
「魔力が、枯渇――」
レナエラはぼんやりと繰り返す。
操られていたときの記憶は、霧がかかったように不鮮明ではあったが、しっかりと頭に残っている。中央広場でステンノーを見失い、そのあと突然、導かれるように近くのホテルへ歩いていった。目的ははっきりしており、そこに
「そう。もうかなり戻っていると思うけど、食事はとったほうがいい。できるだけ早めに」アルトマン准尉は両手を組んだ。そして少し険しい顔をする。「実際のところ、あまり時間がない。できるだけ簡潔に話を進めていきたいと思う。きみは、ソルブデン帝国の軍人だね」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます