例えば、軍法会議で銃撃戦をおっぱじめるとかな。

 デニスの部屋に響いた痛烈な音は、フィルツ大尉がジャーナリストのほおを、思いっきり音だった。


 大尉は銃を構えたデニスを蹴り飛ばしてジャーナリストから遠ざけ、そのまま感情に任せてそれを行なった。渾身の力をてのひらに込めて、女の首根っこを掴み固定し、正確に、真横からその一撃をくらわせた。


「このあばずれ女!」フィルツ大尉は、これまで人生で使ったことのあるののしりの言葉をはるかに超える、最上級の罵倒ばとうを口走った。「もう一度でも侮辱ぶじょくを口にしてみなさい! 今度はこの手を拳骨げんこつにして、がちがちに硬くしてぶん殴ってやる! どうして辞めたのですって?! ふざけないで!」


 ジャーナリストは何か言い返したそうな顔をしていたが、実際には口をぱくぱくと魚のように動かしているだけだった。


「私たちは、常に覚悟を持って引き金をひくの。適当に撃つ弾なんて、一発もないのよ。そのとき撃ち放たれたものが、人を殺すかもしれないし、人を救うかもしれない。誰かを不幸のどん底におとしいれるかもしれないし、誰かを幸福へ導くかもしれない。四年前、デニスがなんの考えもなしに撃ったとでも思ってるの? 死んでしまった夫婦とあなたを目の前にして、彼がどんな気持ちで、その引き金をひいたと――」


 唐突に、大尉の目から温かい一筋の涙がこぼれた。

 彼女は眉間を歪ませ、肩を震わせて、必死に感情を身体の内側へと収めようとする。しかしそれはなかなかうまくいかない作業だった。底知れない怒りが内臓の奥底から吹き出して、それが涙となってぽろぽろと頰を伝い、床にしみを作った。


 デニスはすぐ後ろで立ち上がり、急冷されたゆで卵のように唖然あぜんとしている。

 大尉は大きくため息をつき、ジャーナリストからおもむろに手を離した。もうこれ以上触れていたくないというように、投げ捨てた。


「行って」フィルツ大尉は言う。「すぐにここから消えて」


 床にへたり込んだジャーナリストはしばらくフィルツ大尉を見て、それからデニスのほうも見た。しかしなにも言わずに、テーブルの脇に置かれていた機材をひっつかんで、逃げるようにして部屋から出て行った。


 フィルツ大尉は手の甲でぐしゃぐしゃと涙を拭く。

 それから大きく息を吐き、鼻をすすってから言う。


「あの女が今ここで起こったことを記事にしたら、私たちはもう、あまり安心できる立場にはいられないわね」


「構わんさ」デニスは大尉の肩をぽんと優しく叩く。「おれはもともとお尋ね者みたいなもんだ。もしなにかおまえに不都合が起きたら、おれがスマートに、ことを荒立てず処理してやる。例えば、軍法会議で銃撃戦をおっぱじめるとかな」


 フィルツ大尉は顔を上げて、声に出して笑った。

「とてもスマートね」


「ああ。それに、さっきのは最高だった。スカッとしたね」デニスが鼻の下をごしごしと擦る。「礼を言う」


 ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆


 レナエラは夢を見た。


 ずっと遠くまで広がる大きな池が目の前に広がっている。それは海かもしれないし、もしかしたら湖と呼ぶべきものかもしれないが、なにかの事情でそれは定かではなかった。とにかく夢の中では、それは大きな池だった。


 彼女は池のほとりにいて、すぐ横では二人の甥っ子がスパゲティ・ミートソースを頬張っている。しかしどういうわけか上手に口に運べず、スパゲティは次々に池にこぼれ落ちる。ソースで口を汚した甥っ子たちは癇癪かんしゃくを起こす。


 そのスパゲティは池を泳ぎ、いつしか大きな蛇になる。

 黒い身体をもった蛇がもつれながらつぎつぎに池に生まれ、レナエラの前に鎌首を並べていく。甥っ子たちはいつのまにかいなくなってしまっていた。


 蛇はそれぞれ、人の顔を持っていた。

 ある一匹は帝国軍の中将(彼女の直属の上司だった)の顔をしており、ある一匹はルーンクトブルグのティルピッツで入った飲食店の店主の顔をしていた。イオニクでの会合で護衛をした三人の要人の顔も、そこにはあった。そのほかは、見覚えがあるがどこの誰かは判別ができない、ぼんやりした顔だった。


 しかしそれらは全員男だった。


 蛇たちはレナエラを襲おうとしているが、池の中からは出てこれないらしい。それはステンノーが教えてくれた。彼女はレナエラのとなりで「ステンノーはなんでも知っています」と得意げな顔をしている。レナエラは彼女の金色の髪の毛を優しく撫でたいと思う。


 しかし、すぐとなりにいるのにも関わらず、手が届かない。「レナエラは今どこにいますか? ステンノーは会いたいです」と彼女は訴える。声を出してそれに応えたいのに、レナエラは声の出し方を忘れてしまっている。その喉には冷たい空気がとおり抜ける。


 夢はそこで唐突に終わる。


「ステンノーちゃん」

 レナエラは言う。その声は思いのほか大きな音で、部屋に響き渡った。


「よかった、目を覚ましましたか」と、男の声が聞こえる。

「具合はどうだ?」またべつの男が言う。いくらか太めの声だった。


 レナエラは、どうやら自分は大きめの病室にいるようだと、ぼんやり思った。無機質な白い天井が見える。かすかに消毒液のにおいもする。


 あまりうまく頭が働かない。

 休日の前の夜にワインを飲みすぎて、お店から自宅までどうやって帰宅したのかどうしても思い出せないときの、あの感覚に似ている。脳みその代わりにリゾットでもつまっているような気分だ。頭痛もあるし、少し吐き気もする。


「ステンノーちゃん」

 レナエラはまた無意識に、金髪の少女の名前を言う。


 そうだ。ステンノーと一緒に、私はルーンクトブルグの首都へ来ていた。イオニクの結界を破り、旅行者のように電車を乗り継ぎ、途中で下着を買い足し、一度電車を乗り間違えて、それでもなんとか首都へ到着した。


 その前は、イオニクの樹海にある大きな屋敷にいた。ステンノーと出会ったのも、そのときだ。たしか一週間ほど寝食を共にした。本を読むのが大好きな魔族の女の子、ステンノー・ゴーゴンだ。


 なぜ、私は共和国に来たのだっけ? うまく思い出せない。とても大切なことだったような気がする。少なくとも、ステンノーはそれをとても大事なことだと考えていたはずだ。いったいなんだったっけ?


 突然レナエラは、ここまでのことが全部夢だったのではないかという考えに思い当たる。そうだ。たしかあの屋敷で私は気を失った。その後からの出来事は全部夢だったのではないだろうか?


 ずいぶん長く、そしてリアリティのある夢だった。それがようやく覚めたのだろう。きっとここは帝国軍の軍病院だ。たぶん、しばらく入院していたのだ。体力が戻れば、私はなにごともなかったかのように、ひとりのただの軍人に戻る。同期の女軍人は皆男を捕まえてすっかり退役してしまっており、遊ぶ相手もいない毎日を、ため息をつきながら調書を書いて過ごすレナエラ・エスコフィエ大佐に、私は戻るのだ。


「すみません、私は――」

 レナエラは身体をゆっくりと起こそうとした。


 しかし両手が持ち上がらなかった。


「こんなことは僕も本意ではないんですが、あなたは首相殺害の重要参考人となっています。でも安心してください。参謀はあなたがある魔族に操られていたという線で見ています。いずれこの拘束も外すことができると思います」


 ベッドのわきに腰掛けている男が言う。

 そういえば、聞き覚えのある声だ。


 彼女の両手足は、黒い鉄製のかせが取り付けられていた。

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