「情けは人の為ならず」だ。覚えているか?

 夜の闇に、煌々こうこうと炎が立ち昇っている。


 丘をひとつ越えたところで、一軒の民家が真っ赤に燃えていた。付近の住民が集まり、人だかりができている。彼らはポリタンクやバケツを使い、近くの川から水をリレーしていた。消防はまだ到着していないらしい。


 レオンとテオが丘を駆け降り、その民家に近づく。

 同じ造りの家々が、緩やかにカーブを描いている通り沿いにいくつも立ち並んでいた。木造の二階建てで、小さな庭とポーチがついている。ほとんどの家の庭の植え込みは、とてもよく手入れされているようだった。

 そのうちの一軒が燃えている。へいを隔てているものの、となりの家とはそう離れていない。鎮火が遅れてしまうと、延焼の危険性があった。


 周りに集まっていた住人たちは、ある者は腕の中にしっかりと子供を抱え、ある者は両手で口を押さえて、悲痛な顔をしている。とめどなく涙を流している者もいた。


「ああ、ハンナさん! どうか無事で!」

 ふくよかな年配の女性がテオのすぐとなりで、とうとう膝をついて崩れ落ちてしまった。となりの同年代の男性が彼女の肩を抱く。

 炎の熱は思いのほか広がっており、これ以上近づくと顔が焼けそうだった。熱気とともに、木材が焦げるにおいが鼻をついた。


「すまない、ここ家主はハンナというのか?!」

 テオは屈んで、その女性に尋ねる。


 一瞬彼女は驚いた表情をする。そして、涙でぼろぼろになった顔で言う。

「ええ。小説家のお宅よ。でも、どうしてこんな――」

「イルメラ、大丈夫だ。きっと無事だよ」

 おそらく亭主だろうか、となりの男が彼女の背中をさすった。


「とにかく、消火しなければ」

 レオンがコートの内ポケットを探り、人差し指くらいのサイズの小さな瓶を取り出した。中に魔鉱石の入った、あの瓶だ。コルクの栓を抜くと、透明な魔鉱石ナーキッドが淡くブルーに輝いた。


 周りの住人がその異変に気がつき、にわかにどよめき、あとずさりする。レオンは腕で顔を庇いながら、燃え盛る民家に迫った。


「ちょっとあんた、焼けちまうぞ! 下がれ!」

 側にいた男性が狼狽ろうばいし、叫び声をあげる。


 レオンはその瓶を炎に向けると、津波のような勢いで大量の水が噴き出した。

 彼はまるでオーケストラの楽団を指揮するみたいに、その小瓶をあらゆる角度に振り上げ、振り下ろし、水流が均等に炎へかかるようにした。人々からは感嘆の声が上がる。夜の空を染めるほどの火柱も、少しずつ勢いを弱めていく。火の粉が減り、真っ黒に焦げ付いた家の木材がむき出しになっていく。


 数分後、レオンの水属性の魔法によって炎は鎮火された。

 残されていたのはいびつなかたちをしたいくつかの木の柱だった。どれも不気味に黒く変色している。致命的な欠陥のあるまじないが行われたあとみたいだった。隣人の家は辛くも延焼を逃れたものの、とんでもない不幸に見舞われたその家を気の毒に思っているかのように、闇の中で沈黙していた。


 集まっていた村民たちは呆然とその光景を見つめている。レオンの近くにいた数人が賞賛の言葉を贈っている。それはとても控えめで、決して明るい響きとならないよう注意深く持ち出された言葉だった。


「ハンナとは、リン・ラフォレ=ファウルダースのここ数年の偽名だ」

 レオン小瓶をしまい、ひたいに流れる汗を拭いて言う。


「つまり、ここは」

 テオは瓦礫がれきの山となったその家を見て、顔をしかめた。


 レオンは頷く。「探すぞ。彼女もまた、炎では死なない」


 村の人々の協力も得て、すぐさまその家の主人あるじの捜索が始まった。ほとんど元のかたちをとどめていない玄関口、廊下、浴室、リビング、二階へと伸びていたはずの階段などを、損壊に注意しながら探していく。


 テオは、その家の裏庭に出た。

 正確には、裏庭だったであろう場所に出た。青々と茂っていたであろう芝生も、焼き払われてしまっている。鮮やかに咲き誇っていたであろう花も、焼き払われてしまっている。太い幹を持った一本の木は、もういったいなんの樹種なのか、わからなくなってしまっていた。


 その木の根元に、かすかに動くものを見つけた。


 たくさんの枝が火にあぶられて焼け落ちてしまっており、そこには黒い枝の山が出来上がっている。その動きは、最初はその枝が風かなにかを受けて崩れたのだと思った。しかしそれは、膨らんではまた沈み込んでを、ゆっくりと繰り返している。生命力の強いシダ植物かなにかが、まさに土の中から芽吹こうとしているみたいだった。


 テオは動きのあったところへ駆け寄った。水で濡れた黒い枝を取り払い、下に埋まってしまっているものを探り当てる。黒い髪が見えた。そっとそれをかき分けると、すすだらけの肌も確認できた。テオは息を飲んだ。


 スズ・ラングハイム中尉がそこに横たわっている。


「中尉!」

 彼女の小さな身体が仰向けになり、そこにはあった。長く黒い髪が絡まりあって、身体にまとわりついている。胸で浅く息をしている。目はかすかに開かれているが、その瞳には今はなにも映す気がないという意思が込められているようだった。見つけていたはずの被服は黒い灰になっている。肩のところに触れると、音も立てずにそれは崩れた。


 テオは残りの枝を払い、彼女の身体を抱き起こそうとした。しかし、彼女の身体は持ち上がらない。

 胴体が少し浮いたところで、何かに引っ張られるような抵抗を感じた。まるで地面が彼女を渡さないと心に決めているようだった。しかしもちろんそうではなかった。真横に投げ出されていた彼女の手首に、大きな鉄の杭が打ち込まれていた。それが、彼女とじめんをしっかりと固定してしまっていた。


「少佐――おはようございます」と、細く小さな声が聞こえた。

「よかった、意識はあったか。具合はどうだ?」テオは目を細める。

「もちろん、最悪です。ご覧のとおり」

「ああ、そのようだ。だが生きている」


「生きている」スズは反復した。「そうですか。それは残念です。これ、抜いてもらえますか? はりつけ火炙ひあぶりなんて、まったく、何世紀も前に狩られた魔女みたいです」


 手首に突き刺さった杭は、まるで船についたいかりのように、頑なにそこを動こうとしなかった。テオが屈み込み、杭を両手でしっかりと持ち、上へ引き上げようとする。しかしわずかに土を動かしただけで、抜ける気配がなかった。かわりに彼女の手首からどっぷりと血が吹き出た。


 気がつけば、だらりと投げ出されたその手には、ひとつの指輪もはめられていない。あの左手の小指の、小さな青い宝石も。


「少佐」スズが口を動かさずに言う。

「すまん、抜くのには少し時間がかかりそうだ――」と、テオはひたいをこする。

「ここにいらっしゃったということは、いろいろと聞いちゃいました?」


 テオは質問には答えずに言った。

「中尉、小指の指輪はどうした? いつもしていたと思ったが?」

「あれですか。もう、用無しになりました」


 テオは一度背筋を伸ばし、大きくため息をつく。ぎゅっと目をつむる。

 そしてスズの目を見た。

「あれはいいデザインではなかった。控えめに言っても、あまり可愛くない」


 スズはテオの目を見て、じっとなにかを考えているようだった。少し目を細めて、テオの言葉に含まれている示唆的なものをすくい取ろうとしている。


「そういうセンスはゼロのようだな。あのじいさんは」テオは言う。「それで、きみの大切な人はまだ無事なのか?」


 スズはテオから目をそらし、夜空を見上げた。

「はい。ただ、時間はあまりありません」


「すぐに助けに向かおう」テオはもう一度杭に手をかける。

「しかし、これは私の個人的な問題です。少佐に動いてもらうわけには」

「ひとりでゆっくり酒を飲んでいるおれの目の前に突然現れて、撃ち殺せとせがんだやつがよく言うよ。そう思わないか?」


「たしかに、あのとき私はいささか突拍子もないお願いをしました。私が死ねば、私は石になり、おそらくやつの使役する召喚獣かなにかに回収されます。それでやつは満足し、リンには手が及ばない。私は、それを望んでいました」


「それが実行されて、きみの言うとおりになったとしよう。その彼女は、その先ひとりで生き続ける。一方きみは、生き続けることの苦しみをわかっている。それなのに、先に死んでいくつもりだったのか?」


「それは難しい問題です。私たちは、死からもっとも遠い場所にいるし、同時にもっとも近いところにもいる。死とは腹を割って、顔を突き合わせて話してきたにも関わらず、一方で死について、なにも知らないに等しい。大事なのは、私がリンを愛していて、リンの日常が脅かされないようにしたいということなんです。リンがもし私を失ったことを知ってひとりになり、死にたいと思ったら、おそらくなにか方法を見つけて、勝手に死ぬでしょう。それでいい」


 テオは杭に力を込めて、引き上げながらねじる。より多くの血が、スズの手首から滲む。彼女は目を閉じたが、痛みはないようだった。


「レーマンは悪魔を使役しています。非常に危険です」スズは言う。


「それは奇遇だ。ちょうど今日、うちにも悪魔がメンバー入りした」


 スズは目を細めてテオを見たが、質問はしなかった。


「それにだ。エリクシルの絡んだ話が、個人的な問題なわけがない」テオは言う。「どちらにせよ、これはうちの部隊の最優先任務になる。わかったか?」


 実務的な問題は、たしかに存在した。

 レーマンがエリクシルを取り出したあと、それをどう使うつもりであり、それが今後のルーンクトブルグの航路をどう変えていくのか、という問題は、もはやテオだけでは扱えない内容だった。


「――ザイフリート少佐」

 スズは言う。


 その声に含まれている情念は、とても複雑なものだった。森が悲しみでざわめいているようでもあったし、怒りの海が猛っているようでもあった。


「いつもご迷惑をおかけして、申し訳ありません。あの子は――リンは、私の最愛の女性です。だれよりも愛している人間です。私と同じ運命の――死ねないだけの、可愛い女の子です」


 彼女は一度言葉を区切り、夜空に向かって大きく息を吐く。大気が白くかすみ、一瞬で消える。綿のような雪がふわりと彼女のほおに触れて、吸い込まれるように溶けていった。


「リンを助けたい」


「もちろん。最初に会ったときも言っただろう。『情けは人のためならず』だ。覚えているか?」

「ええ。『乗りかかった船』とも」と、スズは弱々しく笑った。


 テオは渾身の力を込めて、右手の杭を抜き去った。

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