彼女たちを脅すのにはじゅうぶんな材料になった。

「クンツェンドルフ中将のめいで、司令部の通信兵からのようです」

 少し緊張した面持ちで、エルナは言う。


 レオンが怪訝な表情になる。

「電話? 一般の電話回線でかい?」

「はい。とにかく、ここにいるのなら早急につないでほしいと」


 三人は駆け足で店内に戻った。

 店の奥に据えられた電話は受話器が外され、わきに置かれていた。レオンはすぐにそれをとり、応答する。


「軍司令部から電話なんて心臓に悪い。なにかあったのか?」

 ユージーンが眉をひそめて、カウンターに腰をかけて水を飲んでいた。


「わからない。とにかく、緊急だそうだ」

 テオはレオンの通話を聞きながら言う。


 一般回線を使って連絡をよこしたことについて、彼は最初、むこうの通信兵を叱責しっせきした。しかし会話が進行するにつれ表情が変化していく。もともとあまりよくない顔色が青白くなり、しまいには血がすっかり抜けたような灰色になった。髪を搔き上げる回数が増え、何度か強く目をつむった。


「今日中には戻ると、中将には伝えてくれ」

 疲れきった表情で、レオンは受話器を置いた。そのまましばらく電話機を見つめ、それから近くの椅子にゆっくりと腰をかける。また髪を搔き上げる。狼狽ろうばいし、かなり苛立っているようだった。


「いったいなにがあった? 西部戦線リオベルグに動きでもあったのか?」

 テオがテーブルに手をつき、レオンに問う。


「それよりもずっとまずい」

 レオンはユージーンに冷たい水を頼み、グラスに注がれたそれを一気に飲み干した。大きく息を吸い込み、肺の中身をきれいに入れ替える。


「コルネリウス首相が、演説中に殺害された」

 絞り出したような声で、レオンは言う。

 

 店内には沈黙が訪れた。まるで、少しの物音にも反応し襲いかかってくる猛獣がとおり過ぎたかのようだった。ユージーンは腕を組み、カウンターの木目を見つめる。エルナは目を丸くして、口元を手でおさえる。


「だれが殺した」テオは唇を動かさずに言う。


「今のところ司令部の見解では、ゴーゴン三姉妹だ」レオンは立ち上がった。「連邦議会は今、判断を迫られている。誰もが皆焦っている。ザイフリート君。ラングハイム中尉はいまどこに?」

「ラインハーフェンだ。今朝――いや、昨日の夜に、首都をったよ」


 レオンは一瞬驚いたような目でテオを見た。そして早口で「急ごう」と言った。

 彼はテオの肩を叩いて急き立てる。エルナとユージーンに対してはろくに説明をせず、ぽかんとしている二人を店内に置いてきぼりにして、テオをまた外に連れ出した。


「いったいどうしたっていうんだ? ドフェール卿」


 再度広場に引っ張り出されたテオは眉間にしわを寄せる。


「事件の直後、レーマンが行き先も告げずに消えたらしい」つかつかと足早に広場を横切りながら、レオンは言う。「首相の亡き今、我が国の内政は大混乱だ。この情勢を好機と見て、帝国側もなんらかの動きを見せるだろう。そうなれば、レーマンは予定よりも早くことを進める」


「エリクシルをラングハイム中尉から、もしくはもうひとりのほうから、早急に取り出そうとする」

「そういうことだ」


 広場の中央まで来たレオンは、コートの中から紙に包まれた何かを取り出した。彼はそれを手早くほどく。現れたのは、少し大きめのオリーブくらいの黒い石だった。


「ずいぶん小さくなってきた。また作り直さなければ」とレオンはぼやく。


 その黒い石は、よく見ると木炭だった。表面はつややかで、大きめの甲虫のようにも見えた。

 彼はその木炭で、大雑把おおざっぱに地面を擦り、なにか描き始める。炭が石材とぶつかり、しだいに削れていく。彼が描いているものは、最初はいびつなかたちをしたじゃがいものような物体に見えた。ただ、南にある半島が描かれたところで、それがルーンクトブルグの簡易的な地図だとわかった。


「なんでもいい。なにかここに置いていっても構わないものはあるかい?」

 レオンはちょうどソルブデンとの国境線を描いている。


「ちょっと待ってくれ」

 テオはポケットを漁るがなにも見つからない。


「君の所有物であれば、なんでも構わない」

 地図を描き終えたレオンが急かす。


 仕方なくテオは来ていたピーコートの一番下のボタンをむしり取って、レオンに渡した。彼は木炭をしまい、ポケットから硬貨を一枚取り出した。それをテオのボタンと重ね、一緒に地面に置く。描かれた地図の、ちょうどトルーシュヴィルに位置するところだ。


「今から少し特殊な魔法で、僕たちはラインハーフェンに転移する。多少頭が回るし、もしかしたら吐くかも。まあ、致命的な負荷はかからないから安心してくれ」


 レオンはボタンと硬貨を一緒に指で摘み、なにかを呟く。

 テオの知らない、どこか異国の言葉のように聞こえる。子音がひどく強調された、砂をかき混ぜているような音を発している。するとボタンと硬貨は、ゆっくりと淡い光を帯びた。彼はそれをそっと持ち上げ、地図の南東、ラインハーフェンが位置する座標へと置きなおす。


 そのとたん、テオは真正面からなにかに頭を殴られた。

 痛みはないが、衝撃でそのまま後ろに倒れ、尻餅をつきそうになった。とっさに手を後ろにやり、受け身を取ろうとする。しかし、手が地面につくことはなかった。曇り空が大きく眼前がんぜんを降下する。冷たい風が髪を乱す。


 テオは尻と腕を突き出した滑稽こっけいな体勢のまま、何度も何度も回転した。反射的に目を閉じたが、そうするとよけい頭に酔いがまわり、すぐに吐き気が襲ってきた。どうやらしっかり目を開けておいたほうが、多少なりとも健康体で目的地につけそうだった。


 ものの数秒で、回転はしだいに速度を落とす。ちょうど列車が駅に到着するみたいに、回転に使われていた動力が緩められ、ブレーキが効き、テオはやっと尻餅をついた。


「なかなか、愉快な旅だった」

 テオは苦々しい声で言う。


 腰を上げ、履いていたチノパンについた砂埃すなぼこりをはらう。地面は少し濡れていた。


 空を見上げると雪が降っていた。


「ラインハーフェンの郊外に着地した。中心部へ直接降りると、村の人間をかなり驚かせてしまうからね」

 そう言ってレオンはすぐに歩き出す。テオもそのあとを追った。


 テオたちが着陸したところは、草木を取り払っただけの粗末な道の上だった。辺りはもうすっかり夜の闇に浸かってしまっており、視界があまりよくなかった。すぐ近くに森がある。針葉樹が空を覆い、まるで別世界への入り口のようだった。生き物の気配はない。レオンはその森とは反対方向に歩いていく。


 トルーシュヴィルからラインハーフェンへ、緯度としては少し南下したはずだったが、どうやらこちらのほうが気温が低いようだった。ゆっくりと、絶え間なく雪が舞い降り、ところどころに薄く積もっている。


 吐息は白くなり、大気に溶けた。テオはコートを体にぴったりと張り付けるようにして、レオンのあとを歩いていく。しばらくのあいだ人けはあまりなかったが、雪が溶けてぬかるんでいる道を歩いていくと、少しずつ民家が現れる。


「リン・ラフォレ=ファウルダースは、オルフ戦争時、反乱軍の人間だった。彼女はフォルトゥナ・ファウルダースが革命の戦力のひとつとして、召喚した人間だ。戦乱の中で彼女に出会ったラングハイム中尉は、この国に亡命させたわけだ」


 レオンは雪化粧の道を踏みしめながら言う。


「推し量ることしかできないが、何百年もひとり生きてきたラングハイム中尉にとっては、同じ境遇を持つリン・ラフォレ=ファウルダースを放っておくことはできなかったのだろう。とても驚いただろうし、そしてこの上なく共感したはずだ。しかしもちろん、言うまでもないが、当時反乱軍の亡命など、どこも受け入れなかった。言ってみれば、世界的な犯罪グループだ。たとえ反乱の発端が、圧政への抵抗という性質を持っていたとしてもね。だから、ラングハイム中尉は彼女を密入国させた。身を隠しておく村としてラインハーフェンを選び、ひっそりと住まわせた。彼女の姿かたちは、年月を経ても変化しない。ラングハイム中尉と同じように、成長し老いることはない。だから村の人間との交流はほとんどない。あっても、おそらくは顔を見せない、限定的で極めて特殊な関わりしかないだろう」


 見つかれば、もちろんラングハイム中尉は入国を手引きした重大な犯罪者として拘束され、その時勢によっては死刑を言い渡されることになる。もちろん密入国した本人も、処刑される。


「それを、なにかの機会にレーマンが知った」テオは言う。

「彼がどうしてそれを知ったのかはわからないが、そういうことだ。そしてそれは、彼女たちを脅すのにはじゅうぶんな材料になった」


 それからは二人とも、ひと言も会話せずに、村の中心部に向かって黙々と歩き続けた。人どおりが増え、色あざやかな三角屋根の民家が身を寄せ合い始める。


 大きな通りに入ったところで、テオとレオンは異変に気がついた。


「おい! もっと人手を集めてくれ! 延焼するぞ!」


 中年の男性が数人、顔に焦燥感を滲ませて、東のほうにある丘へと走っていく。

 空が赤く染まっている。


「どうやら、火事のようだ。行こう」

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