第5話 初めてあった日





アキラと出会ったのは城を抜け出した時の事だった。


かねてより庶民の生活を知りたいと思っていたアリシアは、父が隣国へと向かっている隙に漬け込んで、城の外へと出た。


城を抜け出すのは言うほど簡単な事では無かったが、警備とは元々、外部の人間を警戒する目的で行われるものであり、内部の人間を閉じ込める為に行うものでは無い。

姫という立場を駆使すれば、抜け出せないという程ではなかった。


それから、市政の様子を自分の足で歩いて、自分の目で見てきた。

背の高い建物が居並ぶ清潔感のある街並み、古今東西の様々な商品が集まる市場の賑わい、馬車や人が絶え間なく行き交う大通り。

王のお膝元だけあって、王都は活気に満ち、著しい繁栄を迎えている。

〝大帝〟と呼ばれる父が如何に偉大なのか、その光景を見るだけでも十分、理解出来た。


だが、光があれば、必ず闇が有る。

どれだけ王が偉大であっても、どれだけ多くの人を助けようとしても、その掌からこぼれ落ちる人々は必ず出てくる。

そういった人々から目を逸らしたくなかった。

そして、その優しさがある種の傲慢を秘めていることを身をもって知ることになったのである。


(・・・・・見られてる?)


貧民窟スラムへと赴き、そこにいる人々を見て回っていた時、周囲からの視線を強く感じた。

視線の方を振り向くと、さっと目を逸らされる。

その不審な行動を訝しく思いつつも、アリシアは余所者が珍しいのだろうと無垢な考えに至った。

それが彼女の考える人と人とが分かり合えない理由の限界であった。

だが、世の中は、人の心の闇はもっと残酷で醜いものだ。


「きゃっ!?」


ふと曲がり角を曲がると、ぬっと毛むくじゃらの腕が生えてきて、アリシアの身体を地面に引き倒した。

そして、驚く間もなく、彼女の体に何かがのしかかった。

首にかかる興奮した息遣い、生き物特有の体温と重圧感、肌を粟立たせる気色の悪いさに思わず声を上げようとすると、彼女を引き倒した腕がするりと動き、アリシアの頬を掴んだ。


「騒いでも無駄だぜ。ここにはあんたみたいな綺麗なやつを助ける奴はいねぇ。」


しゃがれた声が言う。

見れば、アリシアののしかかっているのは中年の男だ。でっぷりと腹が出ているのに、腕や首は腕や首は骨が浮き出るぐらいに痩せ細っている貧民窟に住む人特有の体型、お世辞にも清潔感があるとは言えないカビの生えた衣服、目は血走っていて、欲望が滲んでいる。


「だから、静かにしてた方が得だぜ?じゃねぇと 痛い目を見ることになるからな。」


目を背けたくなる醜悪さだ。


「くっ、この!」


アリシアは咄嗟に男を跳ね除けようとした。

王族であるアリシアには大気中のマナを使う魔法を使用することが出来る。その力を持ってすれば、貧民窟の人間など幾らでも倒す事が可能だった。


(・・・・・駄目。そんな事をしたら、この人は死んでしまう。)


しかし、彼女は優しすぎた。

見たくないものを排除する。醜いから殺してしまう。

それ等の意識への自戒が、己の身を守る行為を制限してしまったのだ。


「へへへ、それでいい。賢い女は嫌いじゃないぜ。」


抵抗の意志を失った柔らかな肢体を見て、男は下衆な笑みを浮かべる。

その笑みをよく見れば見るだけ、心には失望が募っていき、男と接する部分から汚辱が染み込んでくような強烈な拒絶感が込み上げてくる。

きっとこの後、何もなければアリシアは弱者にとっての最悪に成り果てていただろう。


「そこまでにしとけ。」


だが、そうはならなかった。

ミカド・アキラが現れたからだ。


「金が無くてイライラするのは分かるが、それを他人に当てるようになったら、獣と変わらない。高尚に生きろなんて言うつもりは無いが、最低限の誇りは持っておけ。」


彼は見るからに精悍な男だった。

背丈は高く、痩身でありながら鋼のような筋肉を纏う。腰に帯びる彎刀は不思議な形状をしていたが、鞘の美しい漆の光沢を見れば、業物であると一目で見て取れる。

顔立ちも恐ろしく整っていて、涼し気な目元は緊迫した状況を物ともしていないようだ。


「な、なんだ、てめぇ!」

「別にただの通りすがりだ。」


狼狽した声にすっと肩を竦めるアキラ。

その何方が優位なのかは一目瞭然である。

安い食べ物ばかりを食べているせいで歪な体型になってしまった丸腰の男と鍛え上げられた肉体に加え、武器を持っているの男。

ただでさえ、得物の有無は大きいのに、体格差でも負ければ、男に勝ち目がないのは明白だった。


「それより、その女に手を出すのは辞めた方が良い。身なりから察するに、結構、良いところの出だろ。そんな奴に手を出したら、後でどんな目に合わされるのか分かったもんじゃない。」


アキラは迂遠な物言いで辞めろと言う。

男の身を案じているように言っているが、その実はアリシアを守りたい性根が見え透いていた。


「へっ、そういう事か。」


当然、男もその事に気付く。

そして、相手の魂胆を見抜いたという優越感から得意気に語った。


「それなら問題ねぇ。ここじゃ誰かが死んでても気にするような奴はいねぇよ。好き放題やった後、始末すれば、行方不明で片付けられるだろうぜ。」


手酷い事を言われているのにも関わらず、アリシアは特に何も思わなかった。

彼女は人間の善意というものを助けてくれようとしている男に懸け、その判断によって、己の選ぶべき選択を占おうとしていたのである。


「そうか。なら、お前なら尚更だな。」


低い声で脅しながら、彎刀に手をかける。

その斬れ味の良さを予感させる鋭い殺気が空気を駆け抜けた。

ごくりと生唾を飲み込んだ男に続けてアキラは言う。


「一度だけ言ってやる。早く失せろ。さもなければ、殺す。」


嘘ではないと見下げ果てた双眸が告げている。

すると、「ひ、ひぃ」と情けない悲鳴を残し、男は一目散に去っていた。幾ら下衆でも自分の命は惜しかったらしい。


「大丈夫か?」


そんな負け犬の背中を見送った後、アキラはアリシアの元までやって来て、手を差し伸べる。


「え、えぇ、ありがとう。」


正直なことを言えば、この時、少しだけ浮かれていた。裏切られたような心地になっていた中、人も捨てたものじゃない。

そう思えたから。

その想いは続くアキラの苦言を聞いてより強くなった。


「被害者であるお前に言うのもなんだが、こういう場所には近付かない方が良い。窮地の度に俺みたいなのが必ず助けてくれるわけじゃない。自分の身は自分で守る。その意識を持て。」


バツが悪そうに頭をかいて、自嘲的になりながらも、しっかりとアリシアの迂闊を窘める。紛うことなく、アリシアを思っての発言である。

だからこそ、アリシアはアキラにお礼をしたくなった。

もっと言えば、姫だと明かし、褒賞を取らせて、めいいっぱい驚かせてやりたかったのだ。そうする事で、今日、失った自尊心を回復出来る気がした。


それから二人は仲良くなり、アリシアが騎士になるように命じるまで、そう時間は掛からなかった。

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異世界の破壊者と女神の器 沙羅双樹の花 @kalki27070

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