第10話
黙々と歩く兄に連れられ、鈴は黙って歩き続けた。とはいえ、朝ご飯はまだだったのでお腹が空いていた。お腹空いたと素直に言えればいいのだが、昨日からなんとなく話しかけづらいと感じている。必然と沈黙が続き、余計話しかけづらくなっていった。
しかし腹の虫にはなんの関係も無いこと。何も考えずに腹が減ったと騒ぎ出した。鈴は顔を赤くしながら静かにしてと言わんばかりにお腹を押さえた。
すると兄が不意に足を止め、リュックサックの中から保存食の入った箱を取りだし、中から一本取り出して渡してきた。
鈴はますます顔を赤くし、俯きながら受け取った。聞かれた聞かれた聞かれた聞かれた、と恥ずかしさで頭がいっぱいになった。包装を剥くのも忘れてそのまま齧り付いてしまうくらい。
「リィン、幾らお腹が空いているからって、そのまま食べたらダメだよ」
そう兄に注意され、鈴は我に返った。
「私、リィンじゃないよ。鈴だよ!」
「シーッ」
兄は鈴の口を塞ぐと、辺りに注意を払った。人通りは多くないとはいえ、それなりにある。新聞の一面に載るくらいだ。名前を覚えられているかも知れない。興味を持たれたり、顔を見られるのは厄介だ。だから兄は鈴の耳元で囁いた。
「リィンはあだ名だよ」
「あだ名?」
「そうだ。だからお兄ちゃんのことも人前で名前で呼んだらダメだよ」
「なんで?」
当然の疑問だ。兄は今まで鈴のことをそんな風に呼んだことは無い。鈴自身も、兄のことを名前で呼んだことは随分と無い。なのにあだ名で呼んだり、名前を呼んではいけないなどと、急に言い出したのだ。
そんな鈴の疑問に、兄はハッキリと答えられる理由を持っていない。いや、鈴に言える答えが無いと言った方が正確だ。だから、「なんでもだ」と言いくるめるしか無かった。
「だから名前を呼ばれても返事をしたらダメだよ」
「どうして?」
「どうしてもだ。返事は?」
「う……はい」
鈴は渋々頷いた。
「そんなことより、ご飯を食べようか」
「ご飯……」
ご飯と言われても、鈴の手には先ほど包装されたまま齧り付いた保存食しかない。
歯形の付いた保存食を握りしめ、〝これがご飯なの?〟と言いたげな顔をしながら保存食を見つめている鈴を余所に、兄は黙々と食べていた。
鈴は包装を破って食べようとしたら、歯形の付いていたところから中身がポキリと折れていて、開いた瞬間にポロリと落ちてしまった。
「あっ!」
慌てて掴み取ろうとしたが、そのまま地面に落ちてしまった。急いで拾おうとしたら、兄が先に拾ってくれた。そして半分残っている自分の分を鈴に差し出し、拾ったヤツに付いた汚れを適当に払うと口に放り込んで食べてしまった。
「ほら」
「でも」
「もう食べたから、こっちが鈴の分だ」
「う……ありがとう」
鈴は兄からもらった分を口に入れ、食べた。不味くはないが、このモソモソとした食感は好きになれない。こうなると俄然昨日食べ逃した、しかし匂いだけはしっかりと嗅いだ豚の生姜焼きが恋しくなった。
「生姜焼き」
思わずそう呟いてしまうのも仕方のないことだ。
それを聞いた兄は反射的に「我慢しろ」と言い捨てた。
そうはいっても、思いだしてしまった以上、お預けを食らってしまった以上、頭では分かっていても、身体が反応してしまう。先ほどより大きく腹の虫が反乱を起こしてきた。そして反乱を起こした腹の虫は、兄のものだった。普段なら気にもしないが、さすがに我慢しろと言った直後だからかなり恥ずかしい。
そんな兄の腹を鈴が見つめる。そして顔を見上げる。笑うことなく、責めるでもなく、ただ純粋に心配そうな顔をして兄の顔を覗き込んでいる。
兄としては鈴に笑われたり責められた方が、まだ笑って誤魔化せただろう。でもそんな顔をされたら、痩せ我慢しているのを見透かされているようでとても辛い。だからといって、そんな顔で俺を見るな、と怒鳴ることも出来ない。
「あー、そういえばそこのコンビニに生姜焼き弁当が売ってたような気がするなー買ってこようかなー」
本当はそんな余裕はないのだけど、ただこの辛さから逃げるように口から出てしまった。後は鈴が頷いてくれるのを待つだけだ。
「お母さんのが食べたい」
半ば予想していた返事だけど、そこは我慢してほしかった。鈴の希望に応えることは出来ない。
「お兄ちゃん、ちょっと買ってくるから、リィンはここで待ってて」
「お母さんのが食べたい」
鈴は頑なに母の作った生姜焼きを欲している。
離れていく兄の背中が怖くなり、鈴は兄の手に飛びつき、一人で行かせまいとした。
「私も行く!」
独りになりたくなかったからだ。兄はそんな気持ちを感じとり、そもそも鈴を町中で一人にするのは危険だと判断し、一緒に連れて行くことにした。
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