第141話 彼女が家の中を走り回った
ムスコに彼女の腰やらお尻やらが押し付けられれば、当然欲情した。
しかし、今はまだ勉強が終わっていない。
少しでも意識を逸らすために、手近にあった英単語帳を手に取った。
「巧先輩。問題出しましょうか?」
「いいの?」
「はい。いつも教えてもらってますから」
「じゃあお願いしようかな」
巧は範囲のページを伝えた。
「これから、単語テストを始めます」
香奈が機械のような声を出した。
「リスニングの音声みたいになってるから」
巧が指摘すると、彼女は嬉しそうに笑った。
「じゃあ真面目に行きますね。第一問、デデン」
果たして口で「デデン」と言うのが真面目なのかは議論の余地があるが、香奈はふざけることなく問題を出した。
巧はコツコツやっておくタイプなので、ほとんど正解してみせた。
「むむ、やりますねぇ……じゃあ、droppingsの意味は?」
「えっ、そんなのあった?」
「ないです」
香奈がサラリと言った。
巧に答える義務はないが、何問も出題してもらったのだ。少しくらいは付き合ってあげてもいいだろう。
「えー、なんだろう……落下物?」
「ブッブー。正解は動物や鳥のうんちでした!」
「……たしかにドロップはするもんね」
何だか納得できてしまうのが悔しい。
「香奈、範囲外でもいいけど真面目な単語にしようか」
「了解しやしたアニキ。次は真面目です。第二問! break windの意味は?」
「えー、風を壊す……は意味わかんないし」
「ヒントはこれですっ」
香奈が脇に手を差し込んだ。ぶっと音を出した。
めくれ上がったシャツから覗いたお腹に気を取られ、巧の返事がワンテンポ遅れた。
「……おなら?」
「正解です!」
「香奈、ハウス」
「待って。本当にちゃんとやりますから!」
香奈がパタパタと慌てた。
「それにほら、巧の顔も三度までって言うじゃないですか」
「ちょっと何言ってるかわからない」
「さんどはさんどでも、それはサンドウィッチマンです。あっ、もしかして興奮してきたなって感じですか? はい、ごめんなさい本当にちゃんとやります」
巧がジト目を向ければ、香奈はペコペコ頭を下げた。
「……立派な三度目だけど?」
「まだワンアウトじゃないですか」
「あれ、野球に詳しくなってる」
少し前まではツーストライクでバッターアウトと言っていたのに。
香奈がドヤ顔を浮かべた。
「ふっふっふ、しっかりと勉強しましたから」
「そんなのより英語勉強しようか」
「はーい。ばせば十一!」
「ベースボールね」
巧がツッコめば、香奈が鈴の鳴るような笑い声をあげた。
「よし、じゃあそろそろやろうか」
「あっ、待ってくださいあと一問だけ!」
香奈が懇願するように手を合わせた。
ぎゅっと目を瞑ったその姿は、小動物のような可愛らしさがあった。
「……じゃあラストね」
「はいっ、最終問題はポイント二倍です! beetleの意味は?」
「えっ、なんだろ?」
すぐに思い浮かんだのはビートルズだったが、世代的に全くかぶっていないためそこから先がなかった。
「ヒントはこれですっ」
香奈が両手を広げながら「ブーンブーン」とリビングを走り回った。
「ビジャ?」
「違います、ゴールパフォーマンスじゃありません」
バルセロナの一員として活躍し、キャリア終盤には日本のヴィッセル神戸にも所属していたスペインのレジェンドの真似ではないようだ。
香奈は相変わらずニコニコしながら手を広げて「ブーンブーン」とちょこちょこ動き回っている。
(……あぁ)
巧は閃いた。いや、彼の心情的には閃いてしまったと言うべきだろうか。
「……カナブン?」
「大正解です!」
香奈が嬉しそうに指を鳴らした。
巧はもちろん下らないとは思った。しかし、それ以上に愛おしさが爆発してしまった。
半ば無意識に抱きしめていた。
「た、巧先輩?」
「……あっ、ごめん!」
巧はパッと離れた。
それがネガティヴなものではなく、自分を抑えるための行動だということは香奈にもわかった。
「べ、勉強の続きしようか」
「そ、そうですね」
頬を赤らめつつ、二人はいそいそと席に戻った。
((早く設定した課題終わらせてイチャつこう——))
勉強を再開した彼らの想いは共通していた。
◇ ◇ ◇
この日、
一軍で公認カップルの
三軍の練習試合の会場が玲子の家を中心にカフェと反対方向だったため、玲子が気を遣って家に招いたのだ。
元々一緒に勉強する約束はしていた。
「今日は誰もいないからな。あっ、変な意味じゃなくて、静かで集中できる環境だということだぞっ?」
「わ、わかっている」
三葉はメガネをかちゃかちゃさせた。
家に誘われたからといって玲子がそういうことを期待しているなどという勘違いはしないし、何かをするつもりもない。
しかし、好きな人の家で好きな人と二人きりという状況だ。
どうしても緊張を覚えてしまっていたが、真面目な三葉は「ここで変に意識したら気持ち悪いと思われるから、好かれるためにも普通に勉強するべきだ」と本気で自分に言い聞かせ、普段のペースを取り戻すことに成功していた。
休憩中、玲子がお茶を入れた。
「ありがとう……すごいよな、
三葉がポツリと言った。
玲子が頬を緩めて、
「どうした? 急に」
「いや、受験で忙しいのに部活も家事も頑張っているというのは本当にすごいなと思ってな」
「あ、ありがとう」
玲子は頬を桜色に染めた。
根が真面目な三葉は、褒め言葉もストレートだ。不意を突かれて照れてしまった。
「だが、それを言ったら三葉もキャプテンなんだから人一倍大変だろう」
「そうでもない。みんな特に最近は巧の活躍に刺激を受けて——あっ、す、すまないっ」
三葉は玲子がフラれた巧の名前を出してしまったことを謝ったが、
「気にするな」
玲子は穏やかに笑った。
「前も言ったが、最近はほとんど彼のことは吹っ切れているんだ。名前を出すくらいならまったく問題ない」
「……そうか」
三葉はホッと息を吐いた。
玲子は胸が温かくなるのを感じながら、
「ありがとう。優しいな、三葉は」
「べ、別に俺は何もしていない」
玲子の心からのお礼と笑顔に、三葉は動揺してメガネをかちゃかちゃさせた。
彼が何に対して動揺したのかは、玲子にも察しがついた。
(……本当に好きでいてくれてるんだな、私のことを)
嬉しいやら恥ずかしいやら、落ち着かない気持ちだった。
「そ、そういえば
「あ、あぁ、そうだな。
「多分な。相変わらずガハガハ笑っていて、緊張なぞほとんど感じなかったぞ」
「それはいいことが……
三葉が暗い表情を浮かべた。
「
「二軍は守備が安定していないからな。
「あぁ。今日も少し練習に身が入っていなかった」
「それは仕方ないことだろうな。一日二日で切り替えられるものではない」
親しい三人の友人のうち二人——巧と
その心中が複雑であることは、想像に難くなかった。
——玲子の言葉通り、優は未だ気持ちを切り替えることができていなかった。
二軍が守備の選手を求めていたことはわかっている。それでも、どうして自分ではなかったんだという思いは拭えなかった。
「はあ……」
最寄り駅から一人、ため息を吐きながらトボトボ歩いていると、
「——百瀬先輩?」
聞き覚えのある、しかし最近はあまり耳に入ることのなかった少女の声が背後から聞こえてきた。
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